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実に不味いことになった。
 どれくらいに不味いものかと言うと、最大値で言うならば我々のいる国が滅びるくらい。最低値で見るならば、我々の所属する《国営錬金術組合》への支給予算が下げられるくらい。
 どちらに転んでも我々、錬金術師にとっては心苦しい問題……で済まされることではない。でも、この『不味い事』は月一の割合で発生するのだ。
「現在。問題のイーディスが忘れていった薬品に異常は発生していない。だが、放っておくならば……いつものように甚大なる被害を引き起こす可能性は否定できない」
 俺の報告に執務室にいた全員が身を強張らせる。
 ま、当然の反応だろう。
 前回の『眠りの粉、漏洩事故』によって、国民全員が丸二日眠りこけていた事件は記憶に新しい。前々回の『変種スライム脱走事故』では、繊維衣服を主食とするスライムが通行人を襲い。厄介な事に、繁殖、大発生する事となった。国民総出でスライムを捕まえていたのはついこの間の出来事のようだ。
 青ざめた顔が並ぶ中、一人だけ平静を保つ少女が椅子から立ち上がる。
 いや、平静とはいえないな。
 こめかみに血管が浮き出ているし、形の良い桜色の唇はひきつっている。少女は亜麻色の髪を翻し、立て掛けてあった黒水晶の杖を取り上げる。錬金術師組合の所長ことセレス・ティレットは、サッと腕を振って凛とした態度で捲くし立てた。
「全員、完全武装でこの錬金術研究所を包囲ッ。それから国王に近衛兵団の配備を求めて! 付近の市民には避難誘導! いますぐッ」
 執務室に詰めていた数人の錬金術師たちは、持ち歩いている武器と《錬金術師》の証である真紅のマントを羽織って飛び出していった。
 執務室の人間が俺とセレスの二人だけになると、途端にセレスは持っていた杖を掛け椅子に振り下ろした。
 力任せの一撃に背もたれが砕け散り、木片が舞い上がる。彼女の蛮行に手振りだけで大仰に応じてやる。職人が精魂込めて作り上げた椅子になんて事を。
「イーディスはどこにいったの!」
 俺は肩をすくめて首を振る。
「さぁね? 朝っぱらになんだか慌てていたようだが……、飛竜にでも乗って出掛けたのかもしれない」
「まったく、こんなマヌケな錬金術師をどうして解雇しないのかしらねッ」
 憤然と声を荒げるセレス。錬金術師の衣を捌いてスタスタと執務室を歩いていく。その背中にぽつりと呟く。
「まぁ、イーディスの発明は画期的だからな。多少のドジにも目を瞑ってもらえるわけだ」
 聞こえていないのか、聞こえていない振りか。間違いなく後者であろう。肩を怒らせて大股で退室していくセレスを、俺はゆっくりと追いかけていくことにした。

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