第一章

セレスと俺が煉瓦造りの尖塔にたどり着くと、そこには近衛兵士が一個中隊ひしめいていた。錬金術研究所の実験棟内は不穏な空気に包まれており、皆の顔には緊張の色が表れている。
 実験棟二階の奥。第二実験室の中央に置かれた緑色の薬瓶。問題の薬品は無数の槍を突きつけられて近衛兵士たちにグルリと囲まれていた。
 俺たちは近衛兵を下がらせて横手をすり抜ける。
 薬瓶の中の赤褐色の液体をじっと眺める。どうやら異変はまだ起きていないようだ。いつもと変わらぬ実験棟の様子に俺は胸を撫で下ろす。
「鑑定はあなたがやってくれる?」
 セリアは俺に向かってそういうと、拒否も了承もしていないのに俺を薬瓶の前へと押し出した。
「へいへい……」
 前回の失敗を繰り返すつもりはないらしい。
 『変種スライム脱走事故』の際、セレスが鑑定の魔術を掛けたところスライムに襲い掛かられーー。まぁ、エライ恥をかいた。二度目はゴメンだという事だ。
 そんなに不安ならば強固な《防護魔術》を展開しておけばいいのにな。錬金術師の長を務めるクセして基本的なことに頭が回らない。心の中で不平を並べたてながら薬瓶に触れられる距離まで歩み寄っていく。
 ためらう事なく薬瓶へと近づいた俺へ、周囲から驚嘆の声が漏れる。
 別に驚く事でもないんだが……まぁ良い気分だから黙っておこう。俺やセレスはこの手の騒動は学生時代から慣れている。それに、イーディスの失敗薬品で死人は出たことがない。絶対に人が死なない程度の失敗しかあの女はしないからだ。
 魔力を指先に集中させて、《解析》の魔術を展開する。灼灼と紅光を発する右手を薬瓶にかざした。
「特に暴走する気配は見られないな」
 だが、俺の声に安心するのもつかの間。薬瓶の間近で目を焼かれるような閃光が迸った。
「ば、爆発するッ!?」
 誰かが発した声にたちまち近衛兵士たちは浮つき始めた。包囲が崩れ、数人が戸口から脱走を図る。近衛兵士長も両手を構えながら後ずさりはじめている。
 いや……でもこれは。俺が皆を静める声を出す前に光の奔流が室内を満たしていった。悲鳴と怒号が渦巻く中、急速に眩い光が萎んでいく。
「あぁ~やっぱり、ここに忘れてたんだぁ」
 白光が消えると、そこには濃紅色のマントを着こなす女が佇んでいた。
 思ったとおり。あの強烈な光は《転移》の魔術だ。俺の手元にある薬瓶にはなんの異常も現れてはいない。
 実験室に突如として現れた女性、イーディス・フォルトゥナート。
 スラリとした背と肢体。あどけなさい微笑混じりの素顔。錬金術師という日陰の職にもかかわらず、マイナスイメージを感じさせない明るさを持った奴だ。
 腕には一抱えもあるカエルを持っている。
 こいつは変わった亜種で、背中から真っ白い翼が生えている。俺が実験用に使っていたのだが、イーディスに「可哀想ッ」と一喝されて、奪い取られてしまったのだ。
 俺は薬瓶に手を当てたまま動きを止めている。
 セレスは黒水晶の杖を構えて魔術の展開する姿勢のまま硬直している。
 そして、そのほか大勢の兵士。折り重なるようにして床に這いつくばっている者。逃げ出そうとした体勢のまま立ちつくす者。腰を抜かしたまま阿呆のようにイーディスを見上げる兵士長。
 イーディスはそれらのものをまったく意に介さない。
 俺を含めたその場にいる人々など見えないかのように俺の下へやってくる。薬瓶に手を触れようとしている俺を無視して薬瓶を取り上げる。
「ベルちゃん。風邪を治す薬だからね~、ちゃんと飲むんだよ」
「風邪薬だと……」
 俺はぼやきながら視線を黒い肌の両生類へと向ける。
 イーディスの言葉で羽根つきカエルの様子がいつもと違うことに気がついた。黒いつぶらな瞳はどこか元気がない。食事時にしか動かないナマケモノだったのだが、今日はいつもよりもさらに動きが鈍い。
 イーディスは薬瓶の蓋を開けると、ベルちゃんことカエルの口に押し込む。そのままビンを傾けた。
 薬を飲まされた羽根つきカエルはしばらくグッタリとしていた。だが、しばらくしてイーディスの腕の中でもぞもぞと動き始める。
「わぁ~良かったねぇ、ベルちゃん!」
 イーディスは満面の笑みを浮かべて、元気に羽ばたくカエルを指先でつつく。こっちはちっとも良くない。俺は額を押さえて小さく呻く。
「イーディス……どこに行っていたんだ?」
 イーディスは屈託のない微笑みをみせる。
「えへへ~、今日はね、大陸一有名な雑技団が王都に来てるんだよ。でも、ベルちゃんの風邪薬を持ってくるのを忘れちゃたから、急いで帰ってきたの」
 背後で凄まじい破砕音が聞こえた。
 横目で確認すると、セレスの握っていた黒水晶の杖が細かな破片となって床に散らばっていた。彼女の構成していた魔術が暴発したらしい。
 黒水晶の破片が零れ落ちる掌は固く握り締められている。震える拳は力の入れすぎで白くなっていた。やや俯き加減の表情は長い金髪で隠れていて見えないが、おそらく、その表情は鬼のような形相になっていることだろう。
 俺は自分を取り戻しつつある近衛兵士たちに声を掛けた。
「問題は解決した。戒厳令を解いて元の部署に戻ってくれ……、なるべく早くこの部屋から出るんだ」
 ヨロヨロ立ち上がった近衛兵士長の肩を軽く叩き、回れ右をさせる。何がどうなったのか、説明を求める兵士長を適当にあしらい外へ押し出す。
 他の兵士たちも順繰りに締め出している間にも、じりじりとその瞬間は近づいてきているのがわかった。横目でチラリとセレスと、キョトンとした顔をしているイーディスを見やる。
「いったいどうしたんですか~? 何か事件?」
 首を傾げるイーディスにセレスがサッパリとした笑顔を見せる。セレスはイーディスの腕を掴むと、実験室横に設置された資料室へと歩いていく。
「そう、事件よ。とても重大な事件が起きたの。だからね、ちょっと、来て欲しいの」
 口調は穏やかさを保とうとしている。しかし、言葉の節々は震えていて我慢をしていることが丸分かりだ。
「えっとぉ……セレス? あの、私、急がないと。演舞が終わっちゃうし、あと手が食い込んで痛い……」
「そうね」
 セレスは抗議の声を一蹴してイーディスを引きずっていく。
 イーディスの胸元にいた羽根つきカエルはゆるやかに宙へ飛び立つ。見えない危険を察知したのか俺の下へやってくる。
 二人の姿が資料室へ消える。荒々しく扉が閉め切られて、鍵を閉める金属音が聞こえてきた。その先を耳に入れる前に俺は実験室を後にした。
「イーディス絡みで何事も起きない、なんてことはめずしいな……」
 羽根つきカエルを小脇に抱えて俺は呟いていた。俺の声に同意を示すように、羽根つきカエルが動き回る。ついっと視線を下に向ける。
 俺の腕には『二匹の羽根つきカエル』がぶら下がっていた。
 瞳を閉じる。おかしいな、と思い深呼吸。改めて手元を見てみる。
 俺の腕に挟まれた羽根つきカエル。ぶら下がる羽根つきカエル。どこかへ飛んでいこうとする羽根つきカエル。足元で俺を仰ぎ見る羽根つきカエル。
 合計四匹となった羽根つきカエルが俺の事をじーっと仰ぎ見ていた。

人騒がせな忘れ物 後章

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