長く瞼を閉じていた。
瞳を細く開けていくと配線剥き出しのコンクリート天井があった。
背中に固い板のような布団の感触。
首だけで辺りを見渡すと私はパイプベッドに横たえられて腕に管を通されていた。
「治療してくれてるの?」
私は呆然と目の前の光景に呟いていた。
ほかの医療器具は一切なく、白いゲル状の物体が詰まった点滴が私の腕に何かを送り込んでいた。
ベッドの側面に腰掛けていた優しい顔つきの長髪男が静かに言葉を繋げた。
「治療が間に合ってよかった。医療用治療機器を注入している。Bossは君に死なれては困るってさ」
直感的に、というより当然の判断に従って、私は嘘をついていると決め付けていた。
「ウソ言いなさい。私のために色々してくれるのは嬉しいけど、勝手なことばかりやってると処分されちゃうわよ」
度重なるおせっかいの中で今回はかなり嬉しい事だが、私の気を惹くためには少々やりすぎの嫌いがある。
「本当だよ! この医療器具はBossから直接支給されたものなんだ」
必死な男の様子に口元の浮かんでくる笑みを隠さず、ため息をつく。
私の事を好いてくれているのは嬉しくもあり気恥ずかしいものだ。
無論、はっきりと告げられた数秒後にきっぱり断ってしまったが、男の方はまだまだ粘るつもりらしい。
暗殺業務に身を置く自分としては裏切りにくい協力者がいるのは助かる。
でも気持ちは変わらない。
はっとして、体を起こそうとする。
絶対に忘れてはいけない、でも、忘れていた重大事実を思い出した。
「仕事の達成までの時間は?」
男に時間を訊ねつつ、視線の先で時計を探し続ける。
手遅れの恐怖に頭と体が麻痺してくる。
麻痺してくるとは違うか。
自分の意思で感覚を捨て去るのはいつものことだ。
痛みも疲労もどこかに捨てていかなければ私は一番の宝物を失ってしまう。
私の焦燥と縁のない男はゆっくりと腕時計に目を落とす。
「あと五時間と二十一分。それと四十三秒だ」
なんてことだ。
私は包帯だらけの体を起こす。一回も使っていない体は穴だらけになったというのに意外と痛みがない。
傷が治るのが点滴の効果で早まっているのか。
そのまま転がるようにしてベッドから落ちようとする。
「おとなしくしてて」
私は無言のまま足を動かそうとして、止めた。
聞き慣れた金属音。
冷たい棒状の物体が私の頭頂部に押し当てられていた。
「治療が終わるまで動いちゃだめだよ」
私は盛大な舌打ちをしてやった。
ゼロ距離で狙いをつけられていたら私でも振り払って反撃するのは無理だ。
「口うるさい見届け人ね。わかったわよ」
大人しくベッドに転がって鼻を鳴らす。
それを見てにっこりと笑って男は椅子に座りなおした。
この男は私がきちんと仕事をこなしているかを逐一Bossに報告する伝書鳩みたいなものだ。
私が初めて暗殺を請け負ったときからこの男がついて回っている。
おそらく、私が記憶を失った七つも年下の少年を部屋に引き込んで可愛がっていたのを、報告したのはこの男に違いない。
記憶を失った少年は、無論、Bossに取り上げられた義理の弟ピオのことだ。
Bossの子飼いであった私が勝手な行動をするのは規律違反だ。
それでも人を殺して帰ってきたとき。
下着まで雨に濡れて震えながら帰ってきたとき。
血塗れになっても、殺されそうになっても、何があっても家に帰ってきたときに迎えてくれる少年の存在。
擦り寄ってくる初めて感じた生きた人の感触。「姉さん」と小さな唇が呼び、つぶらな瞳が私を掴む。
小動物に寄せる愛護の感情ではない。
人肌を通す温かさ。愛おしいぬくもりが私を癒してくれた。
私の想う義理の弟はいま囚われの身だ。
でも安心はできる。Bossは約束を守る人だ。
決してピオを粗末に扱ったりはしないし、罰の仕事が終わればまた一緒に暮らしていいといってくれた。
……よし。
気持ちに整理をつけたらすることは一つだけだ。
寝ている間でも標的を殺す準備を始めておく。
「最後の一人の書類が机に置いてあると思うから取ってくれない?」
私の命令に男は素直に従ってくれた。
胸に投げ落とされた二枚の書類を顔の前で大きく広げる。
今回の暗殺標的は、コクーンシティの資本家、有力議会員、裏世界の権威者だけではなかった。
一般市民に近い人物や、子供、女性も多数含まれていたのだ。
最後の標的は、私と同じ年代の少女だ。
黒い髪に白衣姿。眼も黒……肌は白い。ほかに何か言うことないかな。
見た雰囲気はとても幼い。
籠の鳥というのはこのようなものなのかもしれない。
上層都市に住まう議員の娘らしい。病気がちで部屋から外に出歩くことは少ないそうだが、他に特筆すべき点はない。
なんで暗殺されなければならないのだろうか。
疑問を抱かないのが暗殺者だが、人間の心は複雑だ。簡単に実行は出来ない。
ここで長髪の男は私に向かってとんでもない事をほざいた。
「その少女は僕の妹だ」
私は写真を眺めたまま微動だにしない。
無言のまま、長髪の男を見やる。
いままでマジマジと見たことなかったけど、こいつの目は黒で意外と綺麗な瞳をしている。
よくよく見れば、確かに似ていないことはない。
「それで? 殺すのをやめる気はないわよ」
もとよりこいつの妹など知ったことではない。私は冷徹に言い放つ。
長髪の男も首を前に倒して答える。
「だいじょうぶ、すでに身代わりを立てておいたから。大体似たような顔立ちで君が忍び込む屋敷のベッドに寝かされているはずだから。そいつを殺せばいい」
「そう」
私は端的に受け答えると天井のシミの数でも数えることにした。
「でも、意外ね。あなた、議員の息子か何かだったんだ?」
議員の娘が妹、つまり家族関係。
照らし出された長髪の男の縁関係に、私はふと興味を感じて問いかけていた。
「妹は養子に貰われていっただけだよ。議員にはもう一人娘がいて、その娘は心臓を患っていた。妹の待遇は良いけど……要は臓器提供用の生きた心臓バンクを飼っているようなものさ」
長髪の男は感情を吐露することなく、ゆるやかに、あわてもせずに、提示されている事実を一つ一つ言葉に表しているようであった。
心臓バンクとして養われているということは最下層の奴隷市民出身ってことらしい。
嫌なことを聞いてしまった。
私はそれ以上何も話したくなくなって、そっぽを向いた。
「なんだい? 僕に気を使ってくれてるの?」
妙に嬉しそうに訊ねてくる。長髪の男のニコニコ顔を横目で見ているとムカついてくる。
「違うわよッ!」
舌を出して、歯をかみ鳴らして威嚇してやる。
すぐ調子に乗る。
こんな性格だからいつまでたっても私のお目付け役なんかやっているのだろう。
一際甲高い電子音が鳴り響き、点滴が終了した。
行かなければならない。
私はベッドから滑り降りて、体の調子を見る。
痛みはない。
包帯を強引に解いて銃創痕を点検する。
真新しい皮膚に特に問題はなさそう。
ベッド脇の三段に分割されたプラ製タンスを開ける。
下着だけの姿から引き出しに適当に詰められていた黒一色のシャツとジーンズ、ジャケットを驚くべき早業で身に着けていく。
足は物音を立てない皮製のブーツ。これも黒だ。
着込んだ服の中には様々な暗殺器具が仕込まれている。
武器は全身を使って活用する物。
それが私の暗殺術の極意だ。
引き出しの上に置かれていた45口径オートマチックハンドガンの弾を調べ、カートリッジの予備をジャケットにねじ込む。
腰に一応、戦闘用の刃渡り三十センチ余りのナイフを括り付けておく。コンクリ壁に立て掛けられていた長射程ライフルは
持っていかない。手頃な状況が整わなければこんなもの邪魔なだけだ。
侵入して標的を狙ったほうが確実だろう。
代わりといっては何だが、高性能爆薬を幾つか詰め込んだバックを腰に巻いた。
出発だ。
「気をつけてね」
人殺しをしに行くにはらしくない見送りの言葉。
長髪の男の幸せそうな顔に私は顔を露骨に逸らしてやる。
「私が失敗するとでも思ってるの?」
自信たっぷりに言ってやる。
いままで仕事に失敗したことはない。これからも失敗するつもりはない。
私は仕事を完遂すべく最後の行動を開始した。