コクーンシティ中層下部。
朝靄に包まれている街はすでに動き始めていた。
鉄錆とガソリンの混じった臭い。
赤茶けた鉄骨で組み上げられた下層と中層の連結部分があちこちで剥き出しになっている。
一週間くらいでは何の変化もない。シティ下層に下りるための巨大な輸送用エレベータが見える。奴隷階級や服役者
で構成された工員の群れが下へ降りていく。
眩い陽が差し込む頃、私は数年前から住み始めたアパートに帰ってきていた。
ペンキの剥がれ落ちてきた鉄扉の前に立つ。
隠してある置き鍵で中に入っていった。
「ただいま……」
草の匂いがする。
いつもと同じとても穏やかな空気が流れていた。
「お帰りなさい」
私は靴を脱ぎ捨てて、玄関を乗り越えて、義理の弟に……ピオに走り寄った。
迷わず抱き寄せる。
私の胸元にピオの頭を寝かせて包み込むようにして腕を回した。
「苦しいよ、スミカ姉さん」
ピオの困惑した悲鳴に耳を貸さず、私はしばらくそのまま抱きしめることをやめなかった。
服越しに感じるピオの温かさに満足した後もやっぱり手を離せずにいた。
手を繋いだままの私を見上げて、ピオは訊ねてくる。
「スミカ姉さんは、今日は家にいられるの?」
期待の入り混じった声を裏切ることなく私は頷く。
「ええ、しばらく仕事はなさそうだから。今日はどこかに出かけようか」
私の提案にピオはすぐに賛成する。
「そうだね。スミカ姉さんと外を歩くのはずいぶん久しぶりの気がする。今日はいろんなところに言ってみたいな」
そう言ったピオの横顔はどこか大人びた表情をしていた。
男らしい顔になったというのか。
どこか雰囲気的に残っていた幼さが消え去っているように私は見えた。
生き抜きも兼ねて、その日は朝からピオと出かけることにした。
実際のところ私にはピオさえいれば後のことはどうでも良かった。
私にとって一番大切なものが側にあれば、それは大変幸せな時間だったからだ。
銃を取ってナイフを振り回す時間は、とても落ち着いた時間ではあったが、幸せな時間ではない。
私の幸せはピオに頼られている自分を実感するときにある。
組織にいる人間は犯罪者ばかりだ。
人を殺したり、人を壊す物を売ったり、人を騙して食い物にする。
でも、きっと。
きっとそれは生きていくために必要なことだから。
幸せとはまったく別の目的のためにしなければいけないから。
私のお目付け役だった男だって、おそらくは……大切な妹と一緒に暮らせることが出来たのなら、組織に入っていなかっただろう。
私は、幸せな時間を守るために、百人の人間を殺した。
その百人にも等しい数の幸せがあって、私が幸せになった分、不幸になった人間がたくさんいるに違いない。
その夜。
私は遠ざかる足音と風の流れに、ふと、瞼を持ち上げた。
扉が静かに閉まる音に私は素早く起き上がった。
どうして出て行かなければいけないのか。
私には理解できずに、黙ってみていることは出来なかった。玄関まで走りぬけ扉を押し開けた。
強く冷たい風が私の肌を突き刺していった。コクーンシティを吹き抜けていく風は誰にでも辛くあたる。
「ピオ!」
去っていく小柄な人影を私は必死で呼び止めた。振り返る少年に私は足を止める。それ以上は近寄ることができなかった。
向かい合う距離は手が届くほどではないが、話すには十分な距離だ。
私の幸せを持っている少年と、私の距離はこんなにも開いていたのかと思うと、それ足が進まなかった
僅か数メートルの空間に私はもどかしさを感じていた。
「スミカ姉さん……、ぼくは帰るよ」
どうしてと聞く必要はない。
私は、ピオはきっと『過去』よりも『今の私』を選んでくれると、信じていたかったから……忘れていただけだ。
「記憶、戻ったのよね」
私の言葉に少年は静かに首を縦に振った。
「ねぇ、昔のことは忘れてよ。私と一緒に暮らしていきましょう! 私にはあなたが必要なの」
懇願の悲鳴が夜闇に吸い込まれていく。街は静かで、誰もいない。眠っている街で動くものは、私とピオだけだった。
「駄目だよ。それに、スミカ姉さんが悪いんだ。自業自得って奴だよ」
なんの事だかさっぱりわからない。
「キアラン・マクドウェル議会員って知ってる?」
知っているわけがない。
下の名前を持っていると言うことは市民の登録をしている上層の人間だ。
階級の違う、ましてやヒエラルヒーの頂点にいる人間など軽蔑すべき対象でしかない。
私は黙ったままでいるとピオは悲しそうに目を伏せる。
「僕の父だ。僕の名前は、セシル・マクドウェル」
そうか。迂闊だった。
部屋の机の上には無造作に標的の書類を残しておいたままだった。
ピオはそれを見てしまったのだろう。
メディアでは連続暗殺事件を積極的に取り扱っているし、私との関連性を見つけ出せないことはない。
「お父さんを殺した人とは一緒に暮らせないって事?」
ピオはゆっくりと頭を振って、答える。
「違うよ。僕には本当の姉がいるんだ。ベッドに寝てしか生きられない病弱な姉がね」
私はやっと気がついた。
ピオの雰囲気の変化は、決意を秘めていたからだ。勝手な思い込みに過ぎないが、私を捨てる決意をしてくれてたんだと思う。そうでなければ……私は、虚しすぎる。
「父が死んで僕がいなければ、姉は一人だ。自分の部屋以外の世界を知らない姉をどんな風に悪用する連中がいるかと思うと、僕は耐えられないんだ」
けっきょく、私はピオにとって一番大切な存在ではなかったというわけだ。
笑いたくなってくる。最後に、ピオは『私の幸せ』を、笑顔を見せてくれた。
「さよなら、スミカ姉さん」
私も別れのときぐらい理解しているつもりだ。無様な姿を見せたくはない。
「さよなら……」
言葉の最後は掠れて消えてしまった。
本当ならすがり付いてでも引き止めたい気持ちで一杯だった。それをしなかったのは、最後までピオの義理の姉としての、プライドがあったかもしれない。
小さくなる後姿に目頭が熱くなる。
闇に陰影だけを浮かび上がらせる街に姿が完全に消えると、私の瞳は熱く濡れ、涙が溢れ出していた。
涙を伝った跡に夜風が冷たく触れてくる。声を押し殺して泣いているせいか、心が静まってくるのがわかる。大声で泣き叫べばストレス解消になるのは知っているけど、私の柄じゃないのだ。
傷心の私の元に電話が掛かってくる。喉のいがらっぽさが治らないまま電話に出た。もちろん涙声のまま。しわがれた声で出たものだから、Bossはいつもと違った風に応対してきた。
「だいじょうぶか?」
戸惑いを含んだ声に私は冷たく言ってやった。
「なんのようなの? はやく言って頂戴」
噛み付くように急いた。
「組織の障害を一気に排除したおかげで、工場の地位が向上した。その報酬として君を幹部に抜擢したい……前から言っていたことだがね」
まただよ。
私は気だるい空気を肺から吐き出す。
こう幾度も同じ答えを返しているとイライラしてしまう。感情的に答えたくなる。
「頭を使う仕事は嫌いなのよ。私の仕事は人殺しだけで十分でしょう? 幹部の椅子はいらないの」
幹部になればどんな暮らしが出来るのか知っている。
偽名だが、下の名前を貰える。そして、上層の優雅な屋敷に住んで、温かい食事を食べる。男か女が欲しければ金を払い、綺麗な服を買いにいって、映画を見に行ける。仕事は電話一本で人を始末して、パソコン一台で企業を動かす。
『幸せな生活』を手に入れられる。でも私が欲しい幸せはそんな薄汚いものじゃない。
「君は頭がいい。仕事など覚えるのは簡単だよ。それに、いつまでも人殺しの仕事が出来るわけじゃない……俺の片腕となってくれれば組織はもっと強くなる。だから……」
嫌になってくる。
私を心から愛してくれるのは組織だけ。仕事だけ。こんなのが死ぬまでずっと続くのだろうか。
「もう切るわ」
一方的に通話を打ち切って、電源をオフに変えた。
外の空気は寒い。家に入らなければ風邪を引いてしまいそうだ。
私は不幸だ。
どうしてこんなにも不幸の星の下に生まれてしまったのだろう。普通の人と同じような幸せが欲しい。幸せになりたいと思うほどに私は不幸の道を選ばされている気がする。
幸せになりたい。いったいどうすれば幸せになれるのか。
ささやかな幸せを、どうか私に。