第二章

標的の住む屋敷は上層の都市にあり、私が最後から二番目の標的を殺した場所からそれほど遠くない場所であった。
 額を落ちる汗を花柄のハンカチで拭く。
 走り回って乱れていた呼吸はだいぶ落ち着いてきていた。
 午後七時半。
 目的地に到着するまでにかなりの時間を要していた。一週間もの間でかなりの人間が同一の人物 ( 私の事よ!)に殺されているため、警察の配備も上層街の全域に及んでいた。
 私の目指す屋敷は、高級住宅街の続くなだらかな丘の頂上に構えていた。
 中世を思わせるレンガ造りの家を模した家で、二階建ての豪奢なテラスを伸ばし、尖塔をいくつも頭に生やした豪邸。
 広々とした敷地に噴水や樹木を設けた庭園には犬が放され、警備員が暗視ゴーグルに銃器を携えて周回していた。
 塀に装備された侵入者警報機に安心しきっているのか。
 警備員たちは外側の警戒よりも屋敷への警戒を重点的に行っていた。
 私は赤外線センサーのある塀を注意深く越えて庭の低木の中に身を潜めた。
 一人で行動するため、囮役代わりに時限式爆薬を仕掛けておく。
 破壊力は大した事ないが炎を散らせる爆弾のため、周囲が一気に猛火に包まれる。おもに、密林の敵を燻りだすときに使用する。
 せっせと林を中腰で動き回って屋敷をぐるりと囲い込むように設置した。
 耳元でうっとうしい虫の羽音を静かに振り払いながら進入できそうな屋敷の位置を目で追っていく。人様の耳を掠めていく虫は 世界で一番いらない存在だ。この場で一匹の残らずつぶしてやりたい気分になる。
 警備員も一緒だ。
 苛立ちながら裏口に回る。
 数多くの使用人を雇っている屋敷なら使用人の一人と入れ替わって侵入してもいいのだが、この状況的に見ても屋敷の中を自在に動き回れる使用人の服を手に入れるのは困難だ。
 やはり暗殺者はそれらしく潜入するのがいいかもしれない。
 私は裏手の使用人用通路の側に積んであった木箱に乗る。そのまま足掛かりとする。
 二階の屋敷のでっぱりに足をかけて蟹歩きで壁を移動していく。
 視界が霞む。
 寝てないせいか。
 疲れているせいか。
 集中力の陰りがよりによってこんなときにくるとは思わなかった。
 私の足の裏は壁から離れてしまった。
 すぐさま両手を伸ばし掴まれるところに手を伸ばすが、勢いよく指を突き出したおかげで爪先に鈍い痛みが襲った。
 ジーンズを削って屋敷の壁に体が擦り当てられる。
 ベルトに挟んでいた45口径ハンドガンが木箱に落っこちて、しかも木箱の中身は金属製のゴミだったらしく派手な音を立てた。
 盛大な物音と漏らしてしまった悲鳴。
 中庭をフラフラと彷徨っていた光源がいっせいにこちらに向いた。
 「侵入者だ!」割と近いところから男の声が響き、「つかまえろ!」と、遠くから聞こえてくる。
 走る足音の集団が口々に叫ぶ。
 慎重に足を運んでいたはずが、何てことだ。
 懸垂で体を元の位置まで持ち上げて、一番近いテラスに体を放り出した。
 先走った連中は頭の回転が悪いようだ。
 遠慮もなく銃が屋敷に向かって放たれ、壁に穴を開けてガラス戸の一部を破砕していく。上官らしき男の怒声に 銃声がピタリと止む。
 いまのうちに適当な部屋に入り込んでやり過ごさなくては。
 私はテラス続きになっていた大きな窓に張り付く。
 ガラスカッターをコンパスに取り付けた侵入器具で瞬く間に窓を抉り取る。円形に切り取ったガラスを外し、 鍵を開けて、息を殺して部屋へと滑り込んだ。
 真っ暗闇の部屋が外からの光にうっすらと輪郭が浮き上がる。
 高級嗜好の芸術作品にも劣らぬ立派な調度品が闇に溶けていた。
 葡萄の蔦を絡ませた円テーブルの上に茶器が置かれ、洋服を収めたタンスにしても大きな角を振りかざした雄鹿の装飾が彫られている。
 窓寄りに配置された私が弟と一緒に眠れるくらい大きいベッドの上はもぬけの殻であった。
 布団は跳ね除けられへこんだ枕が転がっている。
 どうやらここは館の主人の部屋らしい。
 騒ぎに警戒して室内から移動したのか。こいつは好都合だ。
 標的のいる部屋は、確かこの部屋の隣にある。
 私は動く気配を押し殺して扉に張り付く。研ぎ澄ませた聴覚は廊下を動き回る複数の足音と息遣い を聞き取っていた。
 静かに、それらが離れていくのを待つ。
 標的の部屋鍵を抉じ開けるために予め戦闘用ナイフを引き抜いておく。
「ふぅ、おっけ……来て」
 私はコンビネーションばっちりの時限爆弾に愛の言葉を囁く。
 遠雷に似た轟音が屋敷を震わせた。
 屋敷を包囲していく破壊力は、窓ガラスを吹き飛ばして、細かな雹の如く私の上に降りかかってきた。慌しく外 の様子を見に走る人の流れが途絶えたところで、私は廊下へ滑り出る。
 館の照明は完全に消えていた。
 爆発の衝撃波で電線を破壊してしまったのかもしれない。だが、真っ暗な空間での作業に慣れた私にとっては このくらいならなんでもない。
 目的の部屋の前に立ち、ナイフを差し込んで鍵を壊す。
「っ!?」
 扉を開ける必要はなかった。
 咄嗟に体を床に叩きつける。鼓膜を震わせる銃撃。伏せた拍子の体の痛みよりも耳の奥が裂けそうだ。木製の扉をぶ ち抜いてくる弾丸は止むことなく背後の壁をも粉砕していた。
 積もった木片を払いのけながら私は部屋の暗闇の中へ転がり込んでいく。
 銃火の迸る先にある人影に向かってナイフを投擲する。ナイフの直線的な軌道はあっさりと見切られてしまった。 空を裂く銀影は敵の背にある壁に突き刺さる。
 さて、武器がなくなった。私は拳を構えて敵を見据えていた。
 向けられた銃口に屈することなく、襲いかかろうともせず、ただ……見つめている。いつの間にか私を襲う銃撃音は消えていた。
 立ちはだかる長髪の男。
 私のお目付け役であり、私を好いてくれている男。たったさっき、心地よい笑顔と一緒に送り出してくれた男 が対峙していた。
「驚いたわね、こんなところにいるなんて。妹を別の場所に移したってのは嘘だったの」
 闇に慣れている目で男の後ろに座り込んでいる少女を見つけていた。
 おびえた様子で実の兄と侵入者である私を交互に見比べている。男は自嘲気味につぶやく。
「僕にそんな権限はないし、妹には会うことは出来ない。そんな事不可能さ」
 男は自動小銃を構えたままこちらを見下ろしてくる。
「君が出て行ったのを見計らって、警察に君の存在を通報して時間稼ぎ。その間にこの部屋に忍び込んだんだ」
 背中の少女の存在を気に掛けながら男は私を気迫だけで圧迫する。
拳を構えながら男に語りかける。
「そこをどいてもらえない? そうすれば私は心苦しい思いをせずにすむわ」
 男の持つ自動小銃はすでに弾切れ。
 私は男が懐から新しい銃と取り出すより先に殺さなければならない。
「出来ないね。君こそ、弟をあきらめてくれ。そうすれば、僕は辛い気分を味あわずにすむ」
 男は自動小銃を捨てて、弾の装填された拳銃を取り出して引き金を引くだけでいい。
 それだけで、私は頭から脳漿を吹き飛ばされて倒れ伏す。
 確かめるのは気が引けたが、聞いておきたかったことがあった。
「私の事、愛していなかったの?」
 男は私の問いに不意を突かれたのかひどく驚いていた。
 そんなに変な聞き方だったのだろうか。
 悩むことなく男は即答する。
「いや、愛しているさ。大好きだよ……でも、妹はもっと大切だ。世界で一番大事なものなんだ」
 男の右手から自動小銃が落下していく。
広がる男のコートの影から左手に握られた拳銃が顔を覗かせていた。
 私はその場で回転しながら体を横倒しにする。
 男に背中を向けている間、服の袖に仕込まれていた金属片を素早く、確実に、組み上げていく。
 闇に鈍い煌きが流れて薬きょうが二つ宙に回転していた。翻るコートを突き抜けて、二発の弾丸が縦回転 する私の体を掠めていく。
 私のわき腹を削り取っていった弾丸に続けて、左手から二枚の刃を空に投げ捨てる。長い弧を描く刃は狙 い違わずに目標へ飛来する。
 反応できるはずない。私だってほとんど見えないんだから。
 暗闇の奥で二つのくぐもった悲鳴が聞こえてくる。
 少女のほうは、ベッドに倒れて身動ぎひとつしなくなる。
「ッ……、やっぱ勝てるわけないか。Bossお気に入りの暗殺者だもんな……」
 男は長身の体を折って私を遠目に見つめる形となった。
 頑丈な男だ。
 小さすぎる円形小刀では男の頚動脈を完全に断ち切るには力不足だったようだ。
「いま、楽にしてあげるわ」
 袖口から糸の解れを引き抜くように、一本の刃を取り出す。輝く線の刃を指先に挟む。
「教えてくれないか……どうして君は、僕を愛してくれなかったんだ? そうすれば、違った結果になれたかもしれないのに……」
 男は喉に血を詰まらせながら口を開く。
 苦しそうに喘ぐ男の言葉に私は指先の刃の動きを止めた。
 どうして?
「私にはピオがいるから。大切な物はひとつでいいでしょ」
 男の首に腕を回しながら私はそっけなく答えてやった。
「そっか……」
 男は満足げに頷く。満ち足りた表情のまま呼吸を止めようとする男の首を、私は一息で切断した。
 終わった。
 腕の時計が指す時刻はタイムリミットまで三分を差していた。間に合った嬉しさに涙が零れそうになる。
 喜びをかみ締めていた私の耳にどこからか電話の呼び出し音が聞こえてきていた。音の先を追っていくと、 首のない男のコートの中で震えながら点滅する携帯電話を見つけた。
 少々躊躇いを覚えたが、電話を取り受信を押す。
「よくやった、スミカ。さすが組織一の暗殺者だ。でも、お目付け役を殺してしまったようだね」
 第一声で何者か悟り、すべてを知っていてこの電話を掛けてきていることを理解する。
 お目付け役は一人だけではなかったようだ。
「ごめん……」
 自然と口から滑り出す言葉。
 無感情に受話器の向こう側へ伝わっていく。
 Bossにはたった端的な言葉しか返したことはない。
 直接会ったときも、電話口で言おうと思っても、心が急かし口は拒絶していたからだ。
「いや、いい。君の障害になるのだったなら仕方ないさ。ところで、約束のほうだが」
 一区切りおいて電話口の向こうの人物は言葉を続けた。
「君の部屋に彼を送り届けておいた。君の帰りを待っていると思う。それと、彼の記憶が戻った。だが……」
 正直、ピオの記憶云々というのはどうでも良かった。
 そんなことかと聞き流していた。
 重要なのは、私の部屋にピオが待っていて、扉を開けると迎えに出てきてくれる。
 いつもの笑顔で私の帰りを待っていてくれているということだけだった。
「ありがと」
 電話口にそれだけ言うと、まだ話しているのに携帯電話を切った。
 後始末は組織の人間がやってくれるはずだ。
 私はあと帰るだけでいい。そう思った瞬間、私は走り出していた。

カラス嬢の願い 第二章

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