第一章

真紀は綾香を連れて、部室棟から学生たちの集う校舎へとやってきた。昼休みの時間も半分くらい過ぎているため、廊下や休憩所のベンチで談話をする学生が多く見られる。
「どこへいくんですかぁ、真紀姉さま?」
「まずターゲッティングしないとね。獲物が狙えないといいハンターになれないわ」
「そのぉ……あたしは彼氏をゲットしたいわけじゃ……」
「別に男じゃなくてもかまわないわ」
「ええッ!?」
 綾香の頬がサッと赤みを帯びる。目を瞬かせてもじもじと呟く。
「あ、あたしは別に……同性っていうのが悪くないと思いますけど、むしろ真紀姉さまならあたしを丸ごと捧げますっていいたいですけど……やっぱりそれは倫理に反するというか、ってぇ、……なに言わせるんですかぁッ! ――ッはぐ」
 頭をふりながらキャイキャイ跳ね回る綾香を裏拳でぶちのめす。正気を失った相手は殴りつけるのが一番だ。それはどの世界でも共通認識だと思う。
「しどいでず……、鼻が、鼻が……」
 鼻頭を押さえてうずくまる綾香を横目に真紀は狙い定めた獲物を見てニヤリと笑う。
「あれがちょうどいいわね」
「あれって……」
 真紀が鋭い視線を投げかける先には一人の女子生徒がいた。
 すらりとした体型は脂肪が少なく身長は一七〇センチ近い。本校の制服を規則正しく着込んでいる。腰までたらしている艶やかな黒髪が歩くたびに揺れて、嫌でも女子生徒の存在を際立たせる。目は穏やかそうな目尻をしているが、強い意志の光が眼に宿っていた。
 女子生徒の名前は白百合 静枝(しらゆり しずえ)。この学校の生徒会長様である。
 静枝はこちらに気がつくと眉をひそめて歩み寄ってきた。
「ごきげんよう、桔梗さん」
「どうも、こんにちは」
 静枝の挨拶に真紀も自然と答える。二人は廊下のど真ん中で決闘するように向かい合っていた。真紀と静枝の背は同じくらい。どちらも容姿端麗で独特の雰囲気をかもし出しているので嫌でも視線が集まる。
 またはじまったよ、あの二人仲悪いねー、などと忍ぶ声がひそひそと聞こえてくる。
「桔梗さんは、……この前に注意していただいたことを守ってくださらないのですね。服装を正すように伝えたでしょう?」
 真紀は両手を広げるとその場でクルリと一回転する。短めのスカートに、校章を縫い直した男子学生用のネクタイ、ピンクのワイシャツ、と真紀の服装は校則違反のオンパレードになっている。
「これが私のスタイルだから。個性って大事じゃない」
「集団生活においては規律というものが求められるんです。あなたのような方がいると皆が迷惑しますの。正してください」
「考えとく」
 真紀は肩をすくめて頷いた。
「よく! 考えておいてくださいね……ッ」
 静枝は語尾を強めて真紀に注意をすると、背を向けて歩き去っていく。真紀は不敵な笑みを浮かべながらその背中を見送っていたが、距離が離れたところで綾香を呼びつける。
「追うわよ」
「え? 白百合さんをですか?」
「そうよ。空気の読める人の説明は口で言ってもいいけど、本物を観察していたほうがわかりやすいでしょ」
「まぁ、そうですねぇ……」
 真紀は廊下を歩いていく静枝を見失わないようにサッサと歩き始める。あわてて綾香も置いてかれまいと続く。
「でも、このまま尾行してどうするんですかぁ?」
「あいつの日常会話は常に空気を読むことを意識して話しているわ。だから、空気呼んでいる場面にでくわしたら解説付で説明する」
「それはわかりやすいですねぇ~、お願いします!」
 追跡をはじめてしばらくして廊下の角で静枝は立ち止まった。ちょうど正面から歩いてきた後輩に呼び止められたのだ。
 眼鏡を掛けた小柄な男子学生と静枝はなにやら話し始めている。男子学生のもっていた書類を見ながら会話しているから、生徒会の業務のようだけど……。
「ちょっと声が聞こえませんねぇ……」
「ふむ。近づこうか」
 ちょうど静枝と男子学生が話している向かい側の窓にもたれ掛かる。窓の外を眺めながら聞こえてくる会話に耳を澄ました。
「……学園祭での中庭に設置される露店の各部活動の割り当てについては"くじ引き〟で決めることにしてみました。また、露店が同じものと重ならないようにする事と、どこに配置するかの相談は三日後の昼休みに予定しようかと思っているのですが、どうでしょう?」
「あら? そこまで決めてくれていたなんて感心ね。ありがとう、助かったわ」
 弾むような静枝の声に少しだけ振り返る。静枝はニッコリと微笑みながら男子学生に感謝している。男子学生の方は恐縮ですと言わんばかりに照れ笑いをしていた。
「では、書類は生徒会室の会長の机において置きますね」
 男子学生は一礼すると踵を返す。
「あ、待って」
 それを静枝が呼び止めた。さきまでの笑顔は控えて、表情を抑えた真面目な顔になっている。
「はい、なんでしょう?」
 静枝は意を決した表情で深々と頭を下げる。
「昨日のことだけれど、ゴメンなさい。あなたに頼んでいたと思っていた仕事は別の人に頼んだものだったの……。私、あとからそのことに気がついて……、理由もなく怒って本当にゴメンなさい」
 男子学生はキョトンとした顔をする。すぐには何のことを言っているのか思い出せないようだ。
「え~と……。あぁ、あのことですか」
 しばらくして男子学生もようやく事の次第を思い出せたらしく、表情を和らげた。
「あの時間は、先生が会長に余計な仕事を押し付けていって予想以上に忙しかったじゃないですか。あんなテンパった状況ですから仕方ないですよ。僕も気にしてませんから」
「そう、ありがとう」
 男子学生は改めてお辞儀をしてから背中を向ける。静江は晴れやかな表情で男子学生を見送っていた。
 真紀はポンと綾香の背中を叩いた。
「いまの部分重要ね、メモって」
「ほえッ!? どのへんですか?」
 ボケーっとして校庭を眺めていた綾香が我に帰る。この女は……、なんのために窓枠に張り付いているのかわかっているのかしら。
 真紀はふいに湧き上がった怒りを覚ますべく、綾香の頭を小突いて窓枠にぶつけてやる。ゴンッと鈍い音が窓を揺らした。
「いだぁ~ぃッ!? 頭が、頭がーーーッ」
「うるさい」
 頭を抱えて悶えている綾香を真紀は一蹴する。
「レッスンワンは、【礼を言うことと謝れること】ね」
 綾香は取り出したメモ帳にボールペンで走り書きをしていく。
「はぁ……。でも、空気の読める人とちょっと違くないですか?」
 真紀はちっちっち、と指を振る。真剣な面持ちで諭すような口調で語りかける。
「本当に謝らなくてはいけないときっていうのは、怒ったり笑ったりしてごまかしたりするとよくない。後輩や先輩、目上の人に対してもそれは同じことよ。謝るとき、礼を言うとき、を見極められることも空気が読める事のひとつね。礼儀は相手に対してわかりやすい敬意を示す行為なのよ」
「はぃ~。わかりましたぁ」
「意識しておくってよりも習慣づけたほうがいいかもね。『ありがとうございました』と来たら『どういたしまして』とか『お安い御用だよ』とか反射的に返せるようにね……、む?」
 説明をしていると、静江が廊下を歩き出したのを横目で見た。一心にボールペンを動かしている綾香を連れて後ろを追いかける。
「はわわ、待ってくださいぃ~まだ書き終わってないですぅ……」
「メモはちゃっちゃと取る!」
 すっとろい綾香を急かして真紀はサクサク歩き出す。
 どうやら静江は教室に戻るつもりらしい。授業が始まるまで時間があるから昼ご飯でも食べるのかもしれない。

空気嫁っ! 第一章

novel  Back Title Next