静江が教室に入った。真紀と綾香は教室の扉からその行方を見つめる。真紀は扉に寄りかかりながら目の端で静江を追い、綾香は扉から頭だけを出して教室の中をガン見している。
あきらかに不審な綾香は周りから妙な視線を集めていた。
「お弁当を取りに来たみたいですね……、ピンクの花柄とうさちゃんマークの包みですよ、真紀姉さま」
「見かけによらず乙女チックな趣味をしているようね」
やや窓よりの席にいつくか机をあわせて、女子生徒が数人食事をしている。静江は弁当を持ってその集団の中に混ざっていった。静江は教室でもなかなか人気のある生徒で、すぐ皆の会話に溶け込んでいく。
「ここからだと何を話してるかはわかりませんねぇ。やっぱり話の内容を聞かないとまずいですぅ?」
「そうね。もっと近くで聞こうか」
「え、でもぉ。ここから近寄っていったらさすがに怪しいんじゃ……」
「窓の近くに座ってるのが幸いだったわね」
「え……そりは、いったい、どういう……?」
綾香は嫌な予感でもしたのか、語尾がたどたどしくなる。
「さ、移動するわよ」
真紀は綾香を呼びつけると隣の教室へと入っていった。隣の教室は真紀のクラスなので、入っても疑問の視線を受けることもない。真紀はそのまま窓に歩み寄り軽い足取りで乗り越えた。
「ぅぅぅぅぅ、やっぱり……ですかぁぁぁ! ここ4階ですよぉ!」
綾香は極度の高所恐怖症である。引け腰であるが、真紀に必死についていこうと恐る恐る窓枠をまたいで来た。窓枠のささくれにスカートが引っかかってプリント付パンツが丸出しになっているが、まぁ、気にしないことにしよう。プリントは虎だった。
「叫ぶとバレるでしょうが。静かにしなさい」
真紀はテキパキと注意しながら静江のいる教室の窓下へと移動する。足場は雨避けのひさしくらいしかないので踏み外せば10メートル下の青汁色のプールにダイブすることになる。中腰でひさしに上をソロソロと歩いて、昼食を摂っている静江たちの近くの窓下に張り付いた。
ここなら会話がよく聞き取れそうだった。静江と昼食を摂る女子生徒の会話に真紀と綾香は耳をそばだてる。
「……見ないの。ああぁ~、どこ行っちゃったのかなぁ」
「あんたもう、さっきからそればっかやん。他に話題ないんか?」
悲壮な声色で話す少女と関西弁の少女の声が聞こえてくる。関西弁の少女はうんざりとした様子で受け答えている。基本的に気になることって言うのは意識していなくても口から出てしまうものだ。聞かされているほうは面倒なことこの上ないだろうけれどね。
「心配になるよ! 毎朝ミルクあげてたのに、今日からぜんっぜん見ないしぃ。襲われたとか交通事故にあったとか、心配したくなるじゃん」
会話の途中から聞き始めたので出だしがわからない。何かを探しているようだ。
「ねぇ、それって――」
口を挟んだのは静江だ。
「それって学校の裏庭にいた子猫の兄弟のこと?」
「そうそう。生徒会長の裏権力で探してよぉー」
真紀もようやく話の全体がわかった。数日前から学校の裏庭に迷い込んできた子猫の兄弟の話をしていたのだ。何人かの生徒が入れ替わりエサをやっていると聞いたことがある。
「裏権力って……。まったく、そんなのあるわけなでしょう。こら、懐かないで!」
呆れかえる静江の声に少なからず共感を覚えざるを得ない。どこにでも甘え上手な奴はいるものだ。
「なんですかぁ?」
「なんでもない……」
首を傾げる綾香から真紀はついっと視線を逸らした。
「だいたい早とちりしすぎですよ」
猫の心配をしていた少女をひっぺがしたのか、静江の声に落ち着きが戻る。加えて宥めるように話を続ける。
「子猫の兄弟は私もみていたけど、ずいぶん大きくなっていたじゃない。別の場所にエサを探しに行ったのかもしれない。それに、誰かにもらわれていったのかもしれないでしょう?」
「そうかなぁ、でも……」
「いまは悩んでても仕方がないし、もう少し待ってみたらいいと思うわ」
静江の助言に乗るように関西弁の少女も便乗する。
「そやでぇ、静江さんの言うとおりや。野良は野良、子猫でもしっかり生きていくんやで」
「むぅ……」
釈然としないながらも猫の心配をしていた少女は大人しくなる。その気持ちを読み取ったのか静江は穏やかな口調で手伝いをもうしでた。
「私も色々と聞いてみるから。見つかったら連絡するわ」
話がひと段落付いたところで真紀はちょいちょいと指をしゃくって綾香を呼ぶ。
「なんですかぁ?」
「いまの会話も重要ね」
綾香は宙を見上げて黙り込む。腕を組んでうなり始め、しばしの間を置いて恥ずかしそうに口を開いた。
「えっと、あの、そのぉ、どのあたりがですかぁ……?」
そんな間抜けな返事が返ってくるだろうことは予想していたので、真紀は丁寧に説明をしてやる。
「猫の心配をしてた子の考え方ってどんな感じに思った? ネガティブ思考って思うんじゃない?」
「んぅ~……、たしかに悪い方向に考えていましたねぇ……」
「静江はどういう風に考えてた?」
「白百合さんはぁ……割と心配していないような感じの冷たい印象でしたけどぉ」
「冷たい感じってよりは前向きな考えじゃない? こう、事故とか悪い方向性に考えてないでしょ」
「むむ! そう言われるとそうですねぇ」
「レッスンツーは、【物事を前向きに考えること】。もちろん何も気にせずに楽観的に考えることじゃないわよ。直面した状況をプラスに受け取る思考のことね」
「はぁ、なるほどぉ」
綾香はコクコクと忙しなく頷きながらペンを奔らせる。壁の一部に掴まっていた手を離しているが、大丈夫だろうか。
もうすぐ昼休みも終わるので続きは放課後あたりになりそうだ。ヒュウヒュウと風の吹き抜ける外は寒いので、真紀は教室へ戻ろうと中腰立ちになる。
「昼休みが終わるから先に戻るわよ」
置いていかれては嫌だと思ったのか、綾香がフラフラと立ち上がろうとする。
「待ってくださいぃ~……、はわ、わ、わ、わわ――」
「あ、馬鹿……ッ!」
窓枠を半分乗り越えていた真紀はワンテンポ動作が遅れた。窓に取り付けられた手すりに腕を絡めながら右手を伸ばした時には、綾香の身体は斜めに傾いていた。
「うきゃあああぁぁぁぁぁ――」
綾香の絶叫が昼休み終わりの校庭に響き渡り、声が小さくなって聞こえなくなった頃、ザッバーンッと濃緑色のプールに大きな水柱が立った。
皆の注目がプールに集まっている間に、真紀は驚くべき神速で自分の座席に戻り、我関せずといった雰囲気を装い次の授業の準備を始めることにした。