そして午後の授業を消化した放課後。
LHR(ロングホームルーム)終了と同時に教室から逃げ出した真紀は、学校の裏庭からフェンスを越えて帰ろうとしていたところを、B級スプラッタ映画に登場するゾンビの如く追いすがる綾香にしっかりと捕獲されていた。
観念した真紀は校庭にあるベンチに脚を組んで座り、その横で綾香がジャージ姿でちょこんと腰掛けている。
校庭では部活動に励む生徒が掛け声をだしている。帰宅する生徒に混じって、ダンボールの切れ端や仕切り板に使うパレットを運び文化祭の準備をする生徒会役員の姿がちらほらといた。ふと、隣のベンチを見ると二匹の子猫が傾く夕暮れの日差しを名残惜しそうに眺めている。
「真紀お姉さま。昼休みの間にいろいろと教えてもらいましたけど、なんとなく空気を読むって方法があたしの考えてたのと違うんですよぉ」
「ん? 違うって、どういうことよ?」
「空気を読むっていうとぉ~、『重要で人に聞かれたくない話をするときにさりげなく「散歩にいってくる」って言って席を外す友人』とか、『友人の妻、マリアンと恋仲になる前に立ち去っていくシェ―ン』とか、『BGMのサビのシーンになると流れる弾幕』とかぁ……そういう技術をマスターしたいんです!」
「またよくわからん、微妙なことを言い出すわね……」
真紀は目を閉じて眉間にしわを寄せる。綾香の言いたいことを自分なりに解釈をしてみた。
「要は、『その場にあった会話を即座に切り返せる話術やその場にあった自分の取るべき行動』が知りたいわけ?」
「そうですよぉ、まさにそれですッ! 真紀お姉さま大好きッ!」
真紀は両手を広げて抱きついてこようとする綾香からサッと身を引く。真紀をつかみ損ねた綾香はゴインッとベンチとキスをする。真紀はベンチから立つとやれやれと嘆息を零しつつ髪をかき上げた。
「ハッキリ言わせて貰うと、ムリね」
「なんでですかぁぁぁぁぁ――」
涙を浮かべつつ鼻をすすりながらすがり付かれてもムリなものはムリだ。
――空気を読む。
対人関係や情緒的関係を中心としたすべてのコミュニケーションにおける『相手の心情・感情』読み取って、その場に適した会話をするとこができる能力。
具体的に説明すると、相手が何を話しているのかを読み取ること、話題を誰に話しているのかを読み取ること、どんなタイミングで答えればいいのかを読み取ること、どういった言葉で答えればいいのか読み取ること、だいたいこんなものだろうか? 他にもたくさんあるかもしれない。
言葉で示せば簡単なものかもしれないけど口で言うほどやさしくはない。
相手が話していることを正しく理解すること……、これは自分なりに解釈して合っているか聞いてみればいいだろう。勝手に思い込めば話がかみ合わなくなりトンチンカンな返答をすることになる。頭の回転が速ければたずねる必要もないだろうけどね。
誰に話しているのかを理解すること……、相手の会話に主語がないときは察するより他ないが、もし主語があったとしても遠まわしに別の誰かのことを言っていることもあるだろう。
タイミングや言葉遣い……、優しく言うべきなのか? 叱り付けるべきなのか? 突き放すように言うべきなのか? それは0と1の間にある数字のようにパターンは無限にあるのだ。それを100%読むことなどできると思うのだろうか?
本当に空気が読める会話というのは些細なことに注意するだけでいいと思う。
「守れるかどうかはわからないけど、空気を読む秘訣みたいなのはあるわよ」
「なんですか、それは!」
真紀は三本の指をピシッと立てる。
「機転がきくこと。自己中心的にならないこと。寛容であること、かな」
桔梗 真紀は常日頃から大まかに三つのことを心がけている。
機転がきくこと。ささやかなことだけれど重要なことだ。
友人たちが映画の『スパイダーマン』を見にいくそうだ。真紀はもうすでに映画の内容を知っていてスラスラとあらすじを言える。「あの映画は面白かったよ。それでね……」と口を開くのは簡単だ。でも言わない。皆が盛り上がっている横で楽しい雰囲気を感じる。
自己中心的にならないこと。自分の主張ばかり通すのはいかがなものだろう。
話題はすでに移っているのに無理やりに引きずろうとする。自慢話を繰り返す。人の話を聞かない。無数にある自己中は意外と気がつかないものだ。自分が正しいと思い込んで、間違いを直さない、謝らない、なんていうのは自己中の典型例だ。
寛容であること。感情的になると自然と自己中心的になってしまうものだ。
物事に関して忙し過ぎずゆったりと構え、人間関係に対しても同じように接する。罵声を浴びせられて傷つくこともあるだろうけれど決して陰口を叩かない。悪口を広めたところで何かが解決するわけでもないし人間関係が良くなるわけでもない。「あの人はそういう人なのね」と認識を改めるだけで十分だ。
「むぅ、機転に自己中、寛容ですかぁ……」
メモを取り終えた綾香は自分の手帳を眺めながら頭を抱えている。真紀はカワイイ後輩の頭をグシグシと混ぜっ返しながら笑う。
「守らなくてもいいんじゃない? 良い意味で言えば綾香の空気を読まない性格も個性なんだからさ」
「そういうわけにもいきません! 明日から早速実践ですよぉ――ッ」
綾香は力強く宣言すると、校庭をオレンジ色に染め上げる夕日に向かってガッツポーズを決める。はてさて今日の決意はいつまで守られるのやら……、継続できて三日かなぁ、と予想しつつ真紀は帰宅することにした。