序章

私は筆をサッと白い布の上を滑らせていく。
 指先の僅かな力が、世界のすべてを創りだす。ほんの少しの雑念が世界を死に至らしめる。唸る筆さばきに私の世界は瞬く間に形を成し、色を発し始める。
 これこそ、いや……こんどこそと言うべきだろう。完璧なる世界の誕生だ。
「っ、できたぁ!」
 私は最後に一仕事終えた勢いで、額の汗を拭った。
 物淋しい狼の遠吠えを響かせていた闇夜は退散し、清浄な朝の日差しが窓辺に注いでいた。伸びをして、深呼吸をする。木の香りが胸に広がり気分が落ち着く。
 ドングリの巨木の中をくり貫いて作った木製二階建てのアトリエ。私がこの『エリュシオン』に来て、はじめて創った家だ。
 朝のひんやりとした空気が垂れ込める室内を見渡す。私の友人たちは待ちくたびれて眠りこけていた。
「ったく……」
 私は不満げに鼻を鳴らす。
 床に寝ている巨大な蜥蜴の首を蹴りとばす。さらに、蜥蜴の首の上で舟を漕いでいたコウモリの翼を持つ黒猫に平手を打ち下ろした。
 『コウモリの翼を持つ黒猫』[略して]コウモリ猫は、翼を丸めて転がり落ちて、床に毬のように跳ねる。コウモリ猫はまだ眠いのか起き上がる気配がない。
 巨大な蜥蜴の首はうっすらと瞳を開けて、私を見やる。細い虹彩の入ったオレンジの瞳が私を捉える。まだ寝ぼけているのか。あくびを漏らしそのまま眠ろうとする。もちろん、そんな事は許さない。
「起きろぉー! 完成したわよ。優勝間違いなし」
 あらん限りの声を張り上げて、私は同居者をたたき起こす。真っ先に起きてきたのは巨大な蜥蜴の首であった。
 蜥蜴にしてはデカイ体だ。
赤黒い首の先を追っていくと、鋭い鉤爪の生えた前足があり、体の半身は窓の外へと伸びている。先のほうまで見ていくと、後ろ足がないことに気がつく。前足しかない巨大な蜥蜴。
 私の家を半壊させそうな巨大な蜥蜴が体半分だけ窓から入ってきている。
「乱暴だな……何が起きた?」
 話の伝わっていない巨大な蜥蜴に、私はもう一度声を張り上げる。
「ゴードン、絵よ、絵ッ! 絵が完成したの。優勝間違いなし、今世紀最高の出来栄えよ」
 グッと拳を握り固めてファイティングポーズ。ふと横を見ると、部屋の隅に立て掛けられていた等身大の鏡に、絵の具塗れの作業着を着た自分の姿が映し出される。
 手入れなしでもしっとりと落ち着いた黒髪。同じく黒曜石の如き清廉な瞳。
 背丈は低いが磨けば光る見目の良さだろう。胸のことは聞くな。私はふくよかな体つきでなくスレンダーな体型なのだ。それも一つの良さのはず……そうよね?
 自分の顔をまじまじと見つめて何か変だと……思う。眉毛が一本になっていた。
 気がついて黒い絵の具を服の袖で顔を拭く。
 私が鏡の自分と向き合っている間に、同居人たちは眠りから覚めていた。コウモリ猫と巨大な蜥蜴は、私の描いた『世界』に口を開けて見入っている。
 コウモリ猫は前足で自分の顔を押さえ俯いている。そんなに私の絵が眩しいのかしら。
 絵の前に身を乗り出している巨大な蜥蜴は、なんともいえない表情で、前足で鱗に覆われた首をガリガリと掻いている。ふふふ、鳥肌が立つほどの絵を前にして声も出ないのね。
 私の得意とする抽象画はそれほど完成度が高いのだ。自画自賛は哀れと笑うかもしれないが、これが私の実力。天才絵師と呼ばれる力だ。
「題して、この世界は『虹』よ! すべての世界を繋げる希望の架け橋となれ」
 私は自らの描き出した世界に名をつけてやった。
 名をつけた瞬間、八号のキャンバスがブルブルと小刻みに震え始めた。
 キャンパスに描かれた絵は、命名されると一つの『世界』となって生まれる。その世界が完璧であればあるほどに絵の中に描かれたモノたちは永遠に生き続ける。
不完全であれば、いずれ絵の中に住むモノが世界を滅ぼすか、世界が生まれる前に……
 私の描いたキャンパスは真っ白な閃光に包まれて、大爆発を起こした。
「うわっ! ひぇ、わぁぁぁ!?」
 凄まじい彩色の嵐が吹き荒れて、私のアトリエを引っ掻き回していく。
 紅い色が私の頭上を飛び越えて天井に張り付き、黄色い絵の具が逃げ出そうとしたコウモリ猫を撃墜する。
 私は素早く巨大な蜥蜴の影に飛び込んだ。
「こら! 我輩を盾にするな」
 非難の声を無視して私は硬い体にしがみつく。
 彼がこの家に体を押し入れるのを許しているのは、『避難所』以外の何物でもない。私は無視しておく。
 アトリエの壁を撃ちぬく勢いで飛び散る絵の具は留まる勢いを知らない。玉蜀黍の貯蔵庫を火事にしたかのような大騒ぎだ。
 四方の壁を極彩色に塗り固めてようやくキャンパスは暴れることは止めた。恐る恐る、巨大な蜥蜴の背中から向こう側を窺う。
 アトリエの中央で真っ白なキャンバスが鎮座している。どうやら私の描いた世界はお気に召さなかったようだ。
 キャンパスは描かれた世界に不満があると塗られた色を捨ててしまう。例え描いた世界をキャンパスが気に入ったとしても、これまでに生まれた世界は滅びの危機にあるか滅びてしまった世界ばかり。永遠の世界を誰一人として描けたものはいない。
 この世界で最高の実力を持つ絵師でさえも、滅び行く世界しか描く事ができない。
「あぁ、失敗、か……」
 私はがっくりと肩を落とし、純白のキャンバスを拾いに行く。
 落ち込んでいる私に追い討ちをかけるようにコウモリ猫が不機嫌そうな声を上げる。
「どうして、絶対にキャンバスが気に入らない絵しか描かないのさ。また選考会に間に合わなくなるよ」
「何かの間違いで気に入るかもしれないでしょ」
「間違えているのはアウラの感性だよ。落書きと名画は違うんだからね」
 キャンパスを拾いに行くのは後回し。部屋に落ちていたタオルで器用に体を拭くコウモリ猫の方へ大股で歩み寄る。
努めて笑顔を作りながらコウモリ猫の頬を摘みあげる。
「どの口がそんなことを言うのかな? えぇ?」
 コウモリ猫は、私の手に爪を立ててささやかな反撃にでる。達者な舌の回りも止まらない。
「本当の事じゃないか! エリュシオンの世界を作り出した絵は、抽象絵画だって言われているけど、キャンバスが認めなければただの落書きでしょ!」
 心の奥底で眠らせていた痛いところを突かれて、私は頭にきた。
「なんですって、えぇ! もう一度言ってみなさい!」
 ふさふさした頬を弄んでやると、コウモリ猫のアルは、うにゃうにゃとわめきながら四肢をバタつかせる。こいつは私の描いた絵の住人なのだが、生意気すぎる。
 私が放してやるとコウモリ猫は一階の方へと飛んでいってしまった。はっと思い立ち、すぐに胸をなでおろした。
 大丈夫、また私の造っておいた胡桃ケーキはしっかり蓋をした木箱に保管されている。テーブルの上に残しておいた食べかけは惜しいが、それくらいならば仕方ない。
 私が一人考えをめぐらせていると、そこへ巨大な蜥蜴から声を掛けられた。
「アルの言うとおりだと我輩も思う。選考会は『世界』を創造する絵を称えるのが目的だ。抽象画がからエリュシオンは生まれた。それは遺跡の石版にも描かれている。抽象絵画を描きたいと思うアウラ殿の気持ちも分からなくない」
 そこでいったん言葉を切り、巨大な蜥蜴は重い口調で語りかける。
「だが……石版はあくまで伝説の話。実際あった事なのかも分からぬし、事実は違うのかもしれん。これだけ描いても成功しないのだ。現実を見据えて普通の絵を描いてみたらどうだろう」
 半身を絵の具で染められてしまった巨大な蜥蜴も苦い口調でそう言い切った。さらに、戸惑いを含んだ口調で私に尋ねる。
 私は唸りながらそっぽを向いてしまう。
「何故、風景画を描かぬ? アウラ殿ならば十分キャンバスに気に入られる『世界』を描けるはずだ。実際に描いていた……、そして我輩もアルも、アウラ殿に描いてもらって生まれた、何故だ?」
 鋭い質問に私は戸惑ってしまう。巨大な蜥蜴は頭がいい、思慮深い、だから私の考えを余計なところまで汲み取る。
 でも、出来ることなら言いたくないんだよね。
「う、ん……ちょっとね。自信ないんだ」
 私が言葉を濁すと、巨大な蜥蜴は頭を振った。
「ならば、仕方あるまい……」
 無理に追求しようとせずに彼は眠りの続きを始める。
 この巨大な蜥蜴は私が最近描いたまともな絵だ。彼を描いて以来、抽象画しか描いていない。最近は本当にスランプ続きだ。原因は分かっているのだが、誰にも相談したことは無い。
 だって、『こんなこと』に悩んでいる絵描きは私一人なんだもの。
 一度だけ深いため息を漏らし、気分を無理やり元に戻す。彼が眠っている間に自分の不始末を片付けなければ。
「ゴードン。体拭いてあげるから、ちょっと待っててね」
「かたじけない」
 巨大な蜥蜴が小さく頭を下げるのを見て、私はクスクスと笑ってしまった。なんて律儀な奴なのか。手頃な付近を捜しに布巾を捜しに階下へ向かう。
 しかし、私の機嫌が良かったのはその瞬間までだった。
 巨大な蜥蜴が占拠している窓とは反対の窓がぶち破られた。
 蝶番をつけたままの木戸が私の横に吹き飛んでくる。砕け散った木戸の破片が舞い散る中、一人の男が埃の中から立ち上がった。
 癖のついた赤髪を耳が隠れるくらいまで伸ばしている。
 耳は美しい銀の毛並みを揃えた長いもので髪の毛の間から飛び出ている。私よりも頭一つ分高く、結構体格はがっしり。指の爪と腕を覆う銀の体毛は狼のようである。
 この狼男の名はクエル。
 エリュシオンにやってきた頃が同じくらいだったので結構仲がいい。いまはキャンバスの出来を争う宿敵と言える存在だ。いや……だったかも知れない。
「お邪魔するぜ」
 右手を頭の横にピシッと立てて、陽気な声で挨拶してきた。私はいつものように吐き捨てる。
「邪魔だから、早く帰れ!」
 指先は入ってきた窓枠を指差す。
 今度から窓扉は鋼鉄製に代えよう。そうすれば、この男が潰れた蛙のように鉄戸に張り付くのを拝めるはずだ。
「そう言うなって。お前の旨い胡桃ケーキを食いたくなったからさぁ」
 期待されている声にちょっと照れる。
 私はケーキを焼いて食べるのが好きだ。あくまでケーキ作りでなく、食べるのが好き。でも、そのお零れにあずかりたい奴は結構いる。
 って、いけない、いけない。甘くするからクエルは付け上がるんだ。
「あなたに食べさせるほど胡桃ケーキ焼いてないわよ」
 私はつっけんどんに告げる。
 それに追い討ちをかけるように巨大な蜥蜴が寝そべったまま牙を噛み鳴らした。
「そういうことだ。アウラ殿は忙しい。同じ絵師として仕事の邪魔をするのは如何なものか、クエル殿」
 不満げな声を漏らす巨大な蜥蜴に、クエルはどこ吹く風と気にする様子はない。陽気に声を掛けていた。
「そんな冷たい事いうな、ゴードン。今度背中に翼の絵を描いてやるからさ。邪険にしなさんなって」
 クエルのご機嫌取りを、ゴードンはバッサリ斬って捨てる。
「結構だ。我輩の願いは、主人であるアウラ殿に描いてもらう」
 主人思いの絵で嬉しいね。本当に、ゴードンは可愛い奴だ。そんなことを思って見れば、いつの間にか戻ってきているもう一匹の方が、可愛くないことを言い出す。
「むふふ、ムリだよ。いつまで待っていたってアウラは翼の絵なんてかけないんじゃないのぉ?」
「我が主人、アウラ殿の腕前は確かだ。それはお前とて知っているだろう? だいたい―――」
 アルの言葉にゴードンが反論する。二人の争点がクエルの事から外れてくる。
 しだいに私とクエルは会話の外へ置いていかれる。それを見計らっていたのかクエルが話しかけてきた。
「ま、本当は絵の具合がどんなもんか見に来たんだよ。敵情視察ってやつさ」
 うわ、まいったわね……こいつにだけは格好悪いところばかり見られている気がする。まぁ、いまさらどうしようもないから何もしないけどね。
 クエルは首を巡らせながら私のアトリエを歩き回る。数枚の白紙のキャンバスを床から拾って首を傾げる。
「お前の絵は?」
「目の前にあるでしょうが。純粋無垢の在りのままの姿が」
 クエルはキャンバスを見るなり、小さく吹きだした。いつものことながら失礼な男だ。
「また失敗したのかよ。ゴードン描いてからデカイ作品は一つも仕上がってないんじゃないのか?」
「……選考会には間に合わせるわよ」
 憮然とした口調で言う。
そんな私の様子を見て、クエルは両手を宙に躍らせる。肩を竦めながら笑った。
「聞き飽きたよ、その言葉。二回目の選考会まで信じたけどさ。今度も俺の勝ちかな」
 クエルは勝手に床の筆を取り、捨てられていたキャンバスに適当に色を乗せて、無難な窓の絵を描いた。
「世界の名は、『迎えの窓』。訪問者に花の祝福を」
 キャンバスから白い煙が膨れ上がり、煙が破壊された窓枠を包み込む。
煙が晴れると、そこにはピンクの花柄をあしらえた乙女チックなカーテンと真新しい窓が生まれていた。風が吹くとほんのりと甘い香りがする。
 私は心の中で唸るより他なかった。下書き無しでいきなり描ける腕前は相当なものだ。
「窓は直したぜ」
 クエルは私に背を向けて、自らが直した窓枠へと足を掛ける。
 外には彼が乗ってきたらしい乗り物。綿胞子のお化けみたいなモノが可愛い目をして待っていた。クエルが綿胞子に胡坐をかいて座ると、ふわふわと空へと上っていってしまった。
 私は皆から『口先アウラ』と呼ばれている。
 このエリュシオンでは素晴らしい腕前の絵師と評されていた。それはもう昔のことだけどね。いまの私は『世界』の一つも描けない半端なアーティストだった。

世界の描きかた教えます 序章

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