事件は唐突にして止めようもなく訪れた。
「大変なことになったよ、アウラ! 選考会が中止になったぁ!」
選考会まで残すところ数日となった朝の事。羽ばたきと、素っ頓狂な友人の声が玄関口横の窓から飛び込んできた。
私は危うく思いのほかうまくいったチーズケーキを喉に詰まらせて昇天するところであった。霞む視界の中でカップを手に取り、ミルクティを喉に流し込む。
「っ!……っ、なんですって?」
熱いミルクティに舌を火傷してしまい、涙が出てくる。家の外で何かが這い回る音が聞こえてきた。ゴードンか。
私は朝食をそのままにして外へ飛び出そうとする。
「いってらっしゃい~」
机の上で尻尾をフリフリするアルを見て、私は居間へ取って返す。チーズケーキを片付けるのを忘れていた。
丸ごと食われちゃたまらないからねぇ。アルの首根っこを掴むと小脇に抱える。
「なんで僕が行く必要があるのさ?」
「心配だからよ」
抱えられながらトボけた声を出すアルに、私は小麦一粒ほどの信頼も持っていなかった。
外へ出るとゴードンが家の前に座って待っていた。
「アウラ、町長が何か発表するらしいぞ。我輩に乗れ」
顎で自らの背を指すゴードンに私はよじ登る。
私がしっかりとゴードンの背中に跨ったことを確認すると、凄まじい速度で大地を進み始めた。ゴードンは優しい。私たちが酔ったり振り落とされたりしないように、私たちが乗る首のあたりは動かないように気をつけながら体をくねらせている。
体で大きく波線を描きながら草原の海を駆け抜けていく。
「アル。なんで選考会が中止になったのかわかる?」
アルは羽で頬を掻きながら欠伸を漏らす。
「う~ん……鳥たちから聞いただけだからね。ただ、『森の少女たちが泣きながら逃げてくよ』って。それだけさ。それのせいで選考会は中止なんじゃないの」
「森? 森で何かあったのかしらね」
この世界には不思議な森や湖、山や遺跡があちこちにある。
この世界に元から住んでいた住人以外は、その不思議な場所から姿を現す。私もこの世界の住人ではない。私は予言を記した石板が保管されている遺跡からこの世界へとやってきた。
もしかすると、新しい人が森からやってきたのかもしれない。
それとも、いままでそんなことはなかったが、何か、森からわけのわからないモノが出てきたのかもしれない。
空は晴れ渡っていて、いつものように太陽が輝いている。しかし、風は冷たく、冬がまたやってきたように感じてしまった。嫌な風だった。
草原を抜けた先に曲がりくねった木々の林が見えてきていた。もうすぐ町長の済む屋敷だ。
「少し揺れるから掴まっていろ」
ゴードンは速度を落とさぬまま林の中に飛び込んだ。
「わっぷ……!」
葉をつけた梢に髪をさらわれそうになり、あわてて身を屈める。
ついでに目も閉じる。ザザッザザッと木々を掻き分ける音だけに耳を済ませた。林の中はひんやりとも暑くも感じない快適な温度が保たれていた。肌に触れてくる風がとても心地よい。
「ついた」
ゴードンに言われて私は瞼を持ち上げる。
まだらになった葉の陰に囲まれた、小さな林の広場。木漏れ日の影から逃げるように光の中へ滑りこんだ。開けた広場の中央に小さめの屋敷が建てられている。
屋敷の玄関口周辺を数十人の絵師たちが集まっていた。皆、選考会のことについて集まってきたのだろう。並ぶ人の中に見知った顔を認めて近寄っていく。
「クエルッ」
呼びかけると、狼男は白い毛並みを揺らして私を見る。
「アウラ、お前もついたか。なにやら大変なことになってきたぞ」
険しい瞳のクエルは唸るように呟く。
なにやら事態はずいぶんと重い方向へ向かっているらしい。クエルは私よりも詳しいことを知っているのかもしれない。訊ねようと口を開きかけたところで、町長の屋敷の玄関が勢いよく開け放たれた。
飛び出してきた者は全身を緑色の毛に覆われた……言うなれば毛玉。
潤みがちな優しい目をした毛玉。地面に引きずるくらい長い大きなリボンを結んだ毛玉。もう何をなんと言おうと毛玉。ごめんなさい……
緑色の毛玉は皆がよく見えるようにと、高い木箱のうえに飛び乗る。
ざわめきがスーッと収まっていく。
広場は梢の囁きだけが聞こえてくる。毛玉もとい町長の毬藻さんは、いつもは小さな声を精一杯張り上げて、透き通るような声で話し始めた。
「皆さん! 選考会中止の報はちゃんと届いているでしょうか? 何か大変なことが森で起きていることは知っていることでしょう! 私たちも初めての事態に戸惑っていていったいどうしたらいいか……そして考えたすえ、皆さんにお願いがあるのです」
毬藻さんは必死に声を出して言葉を続けた。
「森から現れたものは巨大な黒い炎です。森を呑み込んだ炎はいまもどんどん大きくなっているそうで……いずれはエリュシオン全土に広がるかも、しれません。皆さんにはこの炎を消し止めるモノを描いて欲しいのです! 皆さん、エリュシオンを救ってくださいッ」
ざわめきが波紋のように散っていく。
森から害をなすものが現れたのは初めての事態だ。この場の絵師たちは動揺していた。それは私も、だ。
黒い炎というものも初めてだが、エリュシオンでは私が知る『山火事』のような現象は一度も起こったことがない。
皆、どのように火を消し止めればいいのか見当がつかないのだ。
私も『山火事』は知っているけど、どうやって消しとめるのか知らないしね。隣のクエルも眉間を指で押さえている。
誰かが、「逃げた方がいいのではないか?」、と呟く。
でも私たち、このエリュシオンに住まう者たちに逃げるところなどありはしない。エリュシオンの外は自分たちの描いた世界しかない。
自分たちの描いた世界に行くと、世界を創る力は失ってしまう。キャンバスの力はエリュシオンでしか使えない力なのだ。無論、自分たちがやってきた世界に帰る手立てもない。
ま、私は帰れると言われても、絶対に帰る気はないけれどね……
また誰かが声を上げる。
「マスターアンセムに助言を求めてはどうか!」
『マスターアンセム』とは、このエリュシオンに招かれた最初の絵師だ。
選考委員会の一人で、私と同じ普通の人間だ。もう結構な年で、私が会ったときには、杖を突いている白髪・白髭の魔法使いのおじいさんみたいだった。
一部の絵師たちの間に活気が戻ろうとする。そこへ冷たい言葉が投げかけられる。
「知らんのか? マスターアンセムは新しく森の中にアトリエを作られたのだぞ。あの炎の中生きておられるはずがない」
落胆の声。それっきり誰も、一言も、口を聞こうとしなくなった。
暗澹たる気分の中に取り残されると、いささか絶望感を感じていない私にも嫌な気分が移ってきそうだ。さっさと帰るとしようか。
私が踵を返そうとすると隣にいた男が消えていた。
「何にもやらないうちから辛気臭いぜ、皆」
暗い空気の中、挑発的するように非常に明るく口を開くものがあった。声の先にはクエルがいた。
私の隣で悩んでいた男は、綿胞子のお化けに座り、すでに頭上の人になっていた。
「黒い炎を止められるほどの絵を描きあげたならエリュシオンの英雄だぞ。悩んでいる暇があるんだったら何か描いていた方がよっぽどいいぜ。逃げたい奴は逃げりゃいいんだしよ。それでは臆病者の諸君、さようならだ。はっはっはー」
そしてクエルは笑いながら飛んでいってしまった。
クエルって、人を挑発するの大好きだよね。いつからあんな性格になっちゃたんだろう。しばらく……妙な沈黙が続く。
熱い空気が流れていくような、ピリピリとした雰囲気が取り巻いているような。とにかく。なんか。ちょっと、怒ってるっぽい?
沈黙の中に奇声が突然響き渡った。
誰かを見極めようと振り向く必要はなかった。一人が林に向かって全速力で駆け出していく。雄叫びを上げて走っていく様は、どこか凄く怖い。
我に返ったように続く多くの絵師たち。
自分の乗ってきた乗り物に飛び乗る者と自分の足で帰る者。全員がそれぞれの方向へ吹っ飛んでいく。
数秒後には、広場の真ん中で佇んでいるのは私とゴードンとアルだけで……ボケっとしていると玄 関口から歩いてきた毬藻さんが私の足を叩いた。
「行かないんですか、アウラさん?」
「あ? ああ……そうね、いきましょうか」
と言っても。
熱く燃えたぎる心を宿したわけではないので、来たときと同じようにのそのそとゴードンに跨る。そのまま高らかに哄笑を発することもなく帰途に着いた。
「なんにもやらないで、あきらめるのは早い……かぁ」
そう言われても、なんだか描きたい気分になれない。風景画だけでなく、新しい生き物を描くのでさえ、今の私には苦痛であった。
アトリエに帰ってきてから、私は何をするわけでもなくキャンバスの前に座っていた。
「ふぅ……」
片手にティーカップを持ちながら、もう片方の手に握られた真新しい筆でアルと遊んでいる。黒い尻尾と戯れる筆先を目で追う。
木箱の椅子が硬い。絵に集中してれば気にならないのに、今日はもう駄目だ。これからももう無理なのかもしれない。
一体何を描けばいいというのか。
キャンバスに描けないものはない。なんでも描ける。でも描くものが見つからない。
「はぁ……どうすればいいのかな。私は何を描けるのかな」
私はしみじみと昔の自分に語りかけていた。
かつていた世界では、私は誰からも褒められた天才絵師だった。特に意味もなく描いた絵でも誰もが私を称えてくれた。だから私もこの絵で満足だった。これが最高の絵なんだと信じきっていたんだ。
それは嘘だ。大嘘! この世界に来てそれがよく分かった。
キャンバスは私の絵の未完性さを突きつけた。『世界』を作れない絵など、人に認められるような絵ではない。辛うじて作り上げた『世界』さえ、瞬く間に滅びていく。私がちゃんと創れなかった世界の中で人々が、苦しみ、祈り、嘆いて、消えていく。
私は筆をとるのが怖い……だから私は、『エリュシオンを作り上げた抽象画を描きたい』なんて理由で、『絶対に、キャンバスが認めない絵』しか、描けなくなった……描きたくないんだ。
「描くものがないのならば、アウラ殿が得意とするものを描けばいいのではないか? 全身全霊を込めて描けば、失敗したとしても満足するのではないか?」
いつものように窓から体半分だけアトリエに顔を出したゴードンが言葉を繋ぐ。
「抽象画を描け。アウラ殿」
「……描きたくないし、描けないよ。絵の具の無駄になるだけ」
私は筆を折ってしまいそうなくらい指先に力を込めた。胸内に溜まった苛立ちを何かにぶつけたくて仕方がなかった。
筆を捨てて頭を抱え込む。髪を指先で掻き混ぜながら私は呻いていた。もうどうしていいのか、わからない……
目元が熱い。零れてきたのは、涙だった。声を押し殺して泣く私の足元に生暖かいものが纏わりついてきた。アルだ。
「アウラの悩み。風景画を描かないことにも関係ありそうだね……僕らじゃ悩みを聞く相手としても役不足なのかな?」
「やだよ、絶対笑うもん……」
私は子供のように首を振って喚く。
「笑わないよ」
顔を上げる。泣き顔を覗き込むようにアルは私の膝の上に乗った。
アルは私の頬を伝う涙を優しく舐めていく。くすぐったい。思わず笑ってしまいそうになる。アルはいつになく穏やかな口調で私に語りかける。
「泣くほど悩むことなんて、普通のことじゃない。たぶん、僕もゴードンも大したことは言えないかもしれない。でも、僕たちはアウラに命を吹き込んでもらった生き物だ。少なからず君の想いや心を分かち合っている。生き方や考え方が違う分、異なった見方を教えられるかもしれない。話してよ、アウラの悩みを」
「我輩も少なからずお役に立とう」
ゴードンも力強く言って、牙を見せて笑った。
ふぅ、いつまでも……メソメソしていられないね。
私は涙を袖で拭いた。
両腕を組み、木箱を裏返しにした椅子に座りなおす。
「私はいままで十三枚の『世界』を描いたわ。アルもゴードンも覚えているでしょ?」
二人とも小さく頷く。
「その世界は全部、滅びちゃったわ。もう私の世界は一つも外にない。でも他の皆はそれが普通だと考えてる。描いた世界が滅びてしまっても、新しい世界を描けばいいって考えてるから。描いた世界で生きている人たちがどうなろうと気にはしないんだわ」
私のいた世界では、自分以外のことを気にしていたら生きていくことなど出来やしなかった。
たくさんの不幸の土を盛り上げて、大きな大きな幸せの樹が育つのだ。
誰かを守って生きていくことができる世界。手を取り合って生きることができる世界を私は描きたかった。
それは、いつしか……私の中で『決して滅びない世界』を生み出すことに変わっていった。
「私の描く世界は、誰もが笑っていて欲しい……不幸な人がいないように。絶対に滅びない、『完璧な世界』を描きたいんだ」
黒猫がふわりと私の膝から飛び立った。鼻をくすぐる風を舞い上げて、アルは床に軽やかに降り立つ。
「僕の意見から言わせてもらおうかな」
ゴードンはコウモリ猫を促すように、無言のまま頭を縦に振った。それを確認して、アルは私に向き直った。
「僕は絵師の才能はないから言えることがあるとすれば一つだけだよ。『完璧な世界』を描きたいのなら絵を描き続けるしかないって事だよ」
アルは毛繕いをしながらのんびりと答える。
「抽象画に『完璧な世界』の可能性を見つけたのなら描いてみればいい。とにかく描いてみるしかないと思うよ。失敗しても落ち込んでもいいから描くんだよ。自分を信じてね」
間を空けずに、低く重い声が横から割り込んできた。
「我輩はまだこの世界に生きてみて気づいたことがある」
ゴードンの細い虹彩がキラリと光る。
「アウラ殿。この世界に滅びぬものなどない、と言うことだ。空を自由に舞う鳥はいずれ死に、陽光に咲く美しい花もいずれ枯れる。絵師とてやがて土に返り、強靭な体を持つ我輩もいずれは塵となる」
ゴードンは言葉を切り、我輩が言いたいのは、と前置きする。
「『完璧なる世界』とは我輩には在るとは思えぬ。在るとしたら、それは偽りに満ちたオゾマシイ世界かも知れん。始まりが在ればこそ、世界は滅びるのではないのだろうか」
そこでゴードンは頭を振って口調を変える。
「だが。アウラ殿の描く『完璧な世界』は我輩が考えるようなものとは違うかも知れん。どのような世界ができるのか見てみたいものだ」
瞳を閉じて気取った笑みを口の端に浮かべた。
ゴードンの話は終わった。
「わかった……」
私は木箱から立ち上がって、作業着用のエプロンを手に取った。
放り捨てた筆を拾い、絵の具の出しっぱなしになっていたパレットを手に載せる。油絵の具入れを引き寄せ、中からペンティングナイフとパレットナイフを取り出す。
やっぱ、描かなきゃ始まらないか。それだけが事実で、描かなければ私の絵は所詮空想のまま終わる、それが現実なんだ。
「黒い炎を消すような絵なんて思い浮かばないからね……いつも見たく、抽象画でもペタペタ描きましょうか」
私はほんの少しだけ和らいだ気持ちで、まっさらな八号キャンバスを前にどっかりと腰を下ろした。
筆は軽やかにキャンバスの上を滑りだした。私が思っているより、心の澱みは綺麗に洗われているようであった。