絵を描き始めてから三日目で東の空が黒くなりはじめていた。時折、苦い味のする雨が降り大地を濡らした。
逃げていく小鳥たちが泣いていた。
『エリュシオンが食べられる 黒い炎に食べられる 半分食べた黒い炎はまだまだ満足しない もう半分も食べる気だ 明々後日にはもう半分がなくなるよ』
皆、動物たちは西へ逃げていく。
私の絵は完成していない。部屋は凄まじい色で溢れていて、キツイ油の臭いと混じりあっていた。
心機一転やり始めたものの、すでに二枚の『世界』をキャンバスは拒絶されていた。ヤル気が薄れている所為もあって私は窓の外をぼんやりと眺めていた。
「まだ、ほとんどの絵師たちは絵を完成させてないみたいね……」
灰色の雲から僅かに覗く弱々しい光に私は目を細める。
ドングリの木陰はほとんど分からなくなっている。生暖かい風に煽られて生い茂る葉が波のように鳴っている。空が暗く、耳を掠める強風が湿っていた。
ゴードンはどこにも出かけようとせず、ドングリの大樹の下で寝そべっていた。
彼は昨日、黒い炎に挑戦して大火傷した数人の絵師たちを助けに奔走していたのだ。彼自身硬い鱗に煤が残っていた。
ゴードンは強い風に負けない声で私に語る。
「我輩も黒い炎を見たが……凄まじいものであった。風や水ではもはや消せまい。この世のものとは思えぬ貪欲な炎だ」
ゴードンが言うには、黒い炎は決して消えないのだそうだ。燃えるものがなくなった場所でも未だ火柱を高々と噴き上げていると語った。
風の寒さに窓を閉めようとしたとき、大地を突き崩すような衝撃が彼方から響いてきた。
「なに……?」
だんだんと鳴動が大きくなっている。
草の波が広がっている丘の向こう側から何か巨大なものが歩いてくるような……思うか思わぬかその前に、巨大な鉄仮面が丘から顔を見せた。
片手に巨大なシャベルを担いだ小山ほどのある鎧が歩いていく。肩に乗っているのは、絵師だ。
それを飛び越えて、大蛇に鉤爪のある四肢を生やした生物が空を飛んでいく。私の世界では『龍』と呼ばれていた生物に似ていた。
全身鉛色に輝いているそいつは鋭く嘶くような咆哮を上げると、黒雲を突き破って天へ舞い上がる。その背中にも同じく絵師が乗っていた。
その後も絵師たちがそれぞれ考え出した黒い炎に対抗する行列が続いていった。
どうやら先行した絵師たちと同じ轍を踏まぬために共同で迎え撃つ算段らしい。
驚くべきは!
これほどたくさんの絵師たちが一同に会するのは選考会以外ではありえないことだ。いや、選考会でも全員が集まることはないから、もしかすると初めてかもしれない。
私はしばらくの間、ぼうっと、その珍妙な大行進を眺めていた。行列が草原の彼方に消えていき、周囲に静けさが戻る頃になって突風が吹き荒れてきた。
最後に現れたのは……げげっ、天を貫くほどの巨大な竜巻だ。
さらに竜巻を大量の水が渦巻いているものであった。まるで渦潮が海の中から飛び出してきたかのようで、周囲のものを呑み込むたびに赤茶けた濁流の色になっていく。
私は全身の血の気が引いていくのを肌で感じていた。
「……家がなくなる!」
草も土も巨木でさえも巻き込んで膨れ上がる水流の渦はまっすぐこちらへ向かってこようとしていた。
いったい誰なの、あんなモノをこしらえたのは!
大慌てで扉を閉めてカーテンを引く。私は竜巻から身を守るようなものを描こうと、まだ何も書き加えていない五号キャンバスを引っ張り出す。
「ぅお~ぃ!」
外から誰かの声が聞こえてくる。筆を取り落としそうになった。
そっか、こんなモン創るの一人しかいないか。風に連れて行かれそうな窓を開ける。
すかさず右手で傘を差す。突風に体が押し戻されそうになるのを堪える。傘を持つ手に鈍い振動が伝わってくる。あまりに強くて手首が取れてしまいそうだ。
吹き込んでくる水の塊に押し倒されないように気をつけて、力一杯息を吸い込んだ。
「この! 馬鹿クエルッ! 早くどっか行きなさいよ。家がなくなるでしょうが!」
私が叫ぶと、声が返ってきた。
「おう、悪いな。いまから一戦やらかしてくるぜ! 戦勝祝いに胡桃ケーキでも焼いててくれよな!」
馬鹿でかい声。最後に笑い声が風の中に聞こえてきていた。
なんて迷惑な訪問。そして一方的な注文だろうか。クエルは私のことを専属料理人かハンドメイドメッシーと勘違いしているのではなかろうか。
我が家を呑み込むそうなくらい接近していた竜巻は急に進路を変えて東へ向かっていった。黒い炎の燻る不穏な空気が臭ってくる空へ竜巻は小さくなっていく。
クエルが離れていく。
ひやりと何かが私の心臓を掴み取った。
肌を舐めていった悪寒に両腕を掻き抱いた。私の本能が見えない何かに怯えている。
胸が、痛い。
どうしたんだろう。私は不安になっている?
クエルが心配だから、なのか。ただの幼馴染なのに。でも、私は何かしてあげなければいけないのかもしれない。胡桃ケーキを焼くことだけでなく。彼を助けてあげることを。
ためらう気持ちはスグにわからなくなった。私は思い立つとすぐに窓の下を見た。
落ち葉や枝葉に埋まった体を掘り起こしているゴードンがいた。アルは朝からどこかへ出かけてしまっている。頼めるのは地を這う蜥蜴だけだった。
「ゴードン! クエルの様子を見に行ってあげて、お願い!」
「我輩が、か?」
ゴードンは珍しく億劫そうに言い放つ。嫌な顔をしている。クエルが絡むと大抵そんな顔を見せるのだ。まったく、もう……クエルの事となると餌が必要になる……世話の焼ける奴ね。
私は引っ張り出した五号キャンバスに下書きも無しに筆を奔らせた。滅茶苦茶だ。何かできれば儲け物、ゴードンの心を動かすようなイイモノ出来てちょうだい!
赤、青、緑、黄、紫、朱、黒、灰、橙、思いつく限りの色を重ねて羽を描く……見るものを圧倒するこの世で一番美しい翼。
「世界の名は『七色の翼』! ゴードンに力を貸してあげて」
眩い白光がキャンバスから弾けて窓から飛び立った。宙を二度旋回するとゴードンの背中にぶつかった。
「……アウラ殿、いつのまに描けるようになったのか?」
感嘆の声が羽を与えられた蜥蜴から漏らされる。
そんなこと聞かれても知るもんですか。私だって描けるとは思ってなかったから……火事場の馬鹿力?
視界一杯に不可思議な色彩を放つ羽が広げられた。ドングリの樹を包み込むほどの巨翼はゴードンの鱗から直接生え伸びていた。
「それでお願い。できれば助けてあげて!」
ゴードンはついに与えられた翼をしげしげと眺めた後、大きく顎を下げる。
「……不本意であるが、承知した」
ごうっと、叩きつける風が家を揺らした。ゴードンは長い巨体に烈風を纏わせると、凄まじい速度で空へ舞い上がった。
よっぽど嬉しかったのであろう。変則的な動きを披露しながら竜巻を追っていった。
たぶん、これで大丈夫だろう。きっと二人は生きて帰ってくる。信じられる。
私は描きかけのキャンバスの前に戻ってくる。
絵を完成させていない絵師は私一人かもしれない。一人であの黒い炎に立ち向かわなくてはならないようだ。
実際、この絵が成功したとしても何が起こるかまったく分からないのだから、そのほうが安全だけど。黒い炎が我が家に迫ってくるより先には仕上げてしまわなければ。
さっそく作業を再開しようと筆を持つ。
「アウラ! 開けてよ!」
けたたましい呼び鈴の音と悲壮なコウモリ猫の声に、私の筆はキャンバスに触れることはなかった。窓から入ってくればいいものを。なんだって玄関口から入ろうとするのか。
「はいはい! 待ちなさいよね!」
リンリン喧しい音に私は苛立ち紛れに玄関に向かって叫ぶ。
鍵を回して乱暴に扉を押し開くと、焦げ臭さと異様な臭気が私を襲った。ついで何者かが私に向かって倒れこんできた。
「っと、な、なに?」
驚きつつも焦げ臭い人物を受け止める。ひどい火傷。肉が焦げているいるような、最悪な臭気にむせ返るようだ。
「アウラ!」
アルに言われるまでもなく、私はこの人物が誰かわかっていた。
枯れ木のような細腕はそこかしこが火傷で赤く腫れ、衣服は焼け焦げて一部の皮膚が炭化していた。年齢を感じさせる皴の顔。立派にご老体と呼べる歳だ。
「マスターアンセム……生きていたの?」
私は顎でアルにソファの上を片付けるように指図しながら、息も絶え絶えの老人の手をとった。脈があるから、まだ生きている。
無事とは言いがたい重症だが……握り締めていた掌に力を感じた。ごつごつとした指が私の手をしっかりと掴んだ。
しわがれた声が私の耳元に届く。
「アウラ……、早く、このエリュシオンから逃げるのだ。この世界はもう終わる」
煙で声を潰されたのか、いつも以上にガラガラの声で私に囁く。
「とりあえず、横になって。話しはそれからです」
私はズルズルと踵を引きずってマスターアンセムを運び、汗だくになりながらソファに転がした。
老人とはいえ筆より重いものを持たない主義である私にとって重すぎる荷物だ。
ここにある物だけでは治療できない。そう思い立った私は、オロオロしたまま宙に浮かぶコウモリ猫に命令する。
「アル! 毬藻さん呼んできてちょうだい、特急で!」
「無理だよ。間に合うわけない……」
いつもはピンと立てている耳を垂れさせてコウモリ猫は弱々しく呟いていた。
アルは小心者なのだ。怯えてしまうと何にもできなくなる。怖いことからはすぐ逃げる。危ないことからも逃げる。好奇心だけで生きているようなアルは怖いものが大嫌い。そのことを私は良く知っている。
アルは私が『絵を描くことを嫌いになった時』に描いたのだから。
私はアルを乱暴に捕まえると胸元に抱きしめた。震えている体を両腕で包み込み、努めて穏やかな言葉を紡いでいく。
「だいじょうぶ。落ち着いて、アル。マスターは思ったほど酷くないわ。あなたが見つけてくれたからこれくらいで済んだのよ、ね。私の力だけじゃマスターを救えないの。だから、アル……力を貸して。毬藻さんを呼んできて、お願い」
丸い瞳を覗き込むと、彼は視線を逸らし、私の胸に顔を埋めてしまう。
「でも……」
私は腕の力を強くする。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだから」
アルは私の腕の中で身じろぎすると腕の間から頭を出す。まだ瞳に見える不安の色は強い。それでもアルは小さく頷いてくれた。
「わかったよ……やってみる」
アルは羽を大きく羽ばたかせて私の胸から飛び立つ。窓に飛び掛り、押し開くと、たちまち空の上へと舞い上がっていった。お願い、間に合って。
背後からの呻き声に、私はすぐに救急道具を取りに戸棚へ走った。
水で塗らした布で額を拭ってやると、マスターアンセムはほっとしたような安堵の吐息を漏らした。
焼け焦げた部分の衣類はハサミで切り取って、捨てていく。作業をしながら私はマスターアンセムに問いかけた。
「マスターアンセム。あの黒い炎がなんのなのか知ってるの? なにか対抗策を知らないかしら」
老人は苦悩に満ちた表情で首を左右に振った。
いまにも泣き出しそうな酷い顔だ。打ち拉がれた様に絶望的な言葉をぼそぼそと口に出した。
「無駄じゃよ。あれはキャンバスから生まれ出た黒い炎、物質的なモノではない。水では絶対に消えん。おそらく、炎の形をしているが炎ではないのだろう。エリュシオンを焼き尽くしても止まらん……他の描かれた世界をすべて呑み込んでも燃え続ける……もうどうしようもない」
私は震える指先から布を落としてしまった。
矢継ぎ早に飛び出そうとする言葉を生唾とともに呑み込む。キャンバスからって……嘘でしょう。
「マスター、あなたが……描いたの?」
マスターアンセムは嗚咽交じりに言葉を吐き出した。
「すまぬ……絵を描くことに限界を感じていた私は、森のアトリエで誰にも描けないような作品を作ろうと思い、筆を持っていた。私は五十号キャンバスに幾度も絵を描き、世界を描いていた。見ていただろう?」
私は小さく頷いた。
マスターアンセムが森にアトリエを作ったと聞いてから、森から新しい『世界』が何個も空へ浮かんでいくのを見ていた。
「私は『マスター』の名を失うことが怖かった。誰にも負けぬ絵を描かねばならなかった。そしてひとつの結論に至った」
無駄と知りつつ火傷の痕に包帯を巻いていく。私は火傷の痛みに堪えているマスターアンセムの気を逸らそうと、話の先を尋ねる。
「それはどんな絵なんです……?」
「……抽象絵画だ。何が生み出されるかわからんので、エリュシオンの遺跡には描いてはならないと記されていた手法で……描いた。それならば、絵師として誰も私を追い越すことができなくなるのではないかと、考えたのだ」
私は声を押し殺すようにして、動揺を悟られまいと努力した。
なんということを。
マスターの実力は誰もが認めるものだ。誰も追い抜く事ができない、または模範としての象徴として≪マスター≫の名が与えられていたのに。
だがそんな事よりも重大な事柄があった。
≪禁断の手法≫……それはなんなのか。
私の抽象画を成功させることが出来る手段なのか。それとも私の抽象画が黒い炎を生み出してしまう失敗作なのか。知りたくなった。
「それは……どういうものなのです?」
声が震えないように、震えているのがわからないように小さな声で尋ねた。
「……抽象絵画は描いたとしても、キャンバスが認めない絵だ。稀に真の『世界』を生み出す抽象画もあるといわれているが、石版に描かれているだけで本当かどうかはわからん。抽象画はいくら描いてもキャンバスが認めた例がないからな……だが簡単に、必ずキャンバスが選んでくれる色というものが存在したのだ……っこれならば、かか、確実に、抽象画でも『世界』を作り出すことが、出来る」
マスターアンセムの言葉が切れ、声量がか細くなっていく。私は震える手を強く握り締めて耳元で叫ぶ。
「マスター! その色は? 色はなんなの?」
ゆっくりと、半開きになった口から小さな言葉が発せられた。
「淡い、緑……逃げろ。エリュシオンから」
スッとマスターアンセムの腕が落ちた。
最後の言葉を反芻する私の手のひらには、マスターアンセムの手の重さだけが残った。
人としての温かさが指先から失われていく。彼は死んだ。
だが、私はそんなことよりも。
そんなエリュシオン随一の絵師が死んだことよりも、私は自分の抽象画に対して、一抹の不安を覚えていた。
私の抽象画が失敗しないという補償よりも、私の抽象画が黒い炎となってしまうことへの不安。失敗する確立は高く、『世界』を生み出せる完成度を作れたとしても黒い炎になってしまう可能性がある。
稀に描くことが出来る『世界』を生み出せる抽象画は、いったいキャンバスにどの色を載せればいいのか。
「淡い緑ね……」
黒い炎が生まれてしまったのはこの色のせいなのか。濃すぎたのか。薄すぎたのか。それとも別の要因か。
私の今のままの絵では必ず失敗する。成功するためには『淡い緑』の事を少し考える必要があるかもしれなかった。
窓から見えた光景に私は苦々しくした唇を噛む。
夕日の色が遮られようとしていた。東の空から湧いてでた黒雲が夕暮れの空を包み込んでいる。もう、あまり時間は残されていないようだ。