マスターアンセムの遺体は毬藻さんが他の村人たちと一緒に運んでいった。暗い顔の毬藻さんは私にこっそりと話してくれた。
どうやら絵師たちは一人残らず大怪我をして黒い炎から逃げ出しているそうだ。すでに数名が他の『世界』へ逃げ出しているとも言っていた。
窓の外は闇夜が広がっていて、夜中であるというのに東の空は赤く仄かに輝いていた。風が窓ガラスを叩く音も激しくなってきているようであった。
私は毬藻さんが帰ってから、蝋燭の明かり一つで描きかけのキャンバスの前に座っていた。アルは疲れてしまったのか、帰ってきたからずっと丸くなって居間で眠っている。
時々耳を澄ませて羽ばたきが聞こえないかを確かめている。
まだ、ゴードンとクエルは帰ってこない。
ゆらゆらと揺れている蝋燭の明かりが照らすパレット。そこには混ぜ合わせて作ったいくつかの『淡い緑』の絵の具がある。
だが、どの色も私には怖くてキャンバスに載せる勇気は出なかった。私の絵に関する勘が何かの危険と満足度が足りないことを知らせているからだ。
『淡い緑』は『世界』を描くために必須の色なのではないかと、考えていた。ただし、特別な『淡い緑』でなければ『黒い炎』が生まれるのではないのだろうか。
まぁ、その直感的に正しいと思える『淡い緑』は見つからないし、私の推測は全然違う可能性も大いにある。
「とにかく見つけるまで混ぜてみるしかないかしら……」
言ってみたものの手は動かない。
そう、わかっている。クエルのことが気になって仕方がないのだ。
いつもより多く胡桃を使って、甘さもちょっとだけ強めにした胡桃ケーキは、居間のテーブルに置いてある。上等な葉を使ったティーも用意してある。すべて準備万端。
クエルがひょっこりと姿を現して、私が不機嫌そうに応対すればいつものとおりだ。何の問題もない。
蝋燭の明かりが大きく揺らぐ。
頭に疑問符を載せて、隙間風でも入ったのかと立ち上がる。腰を浮かしかけた私にとてつもない轟音が襲い掛かってきた。
私は受身を取る間も無く床に叩きつけられ、低く呻いた。
何かが家にぶつかった? 私は打ちつけた膝を摩りながら蝋燭立を持って窓に歩み寄っていく。私が扉に触れるより先に、歪んだ蝶番が耐えられなくなり、ゴトンと戸ごと床に落ちた。
ひび割れた窓ガラスを強引に押しのけて巨大なモノが室内に侵入してきた。
「ゴードン! ……クエルも!?」
蝋燭の明かりではゴードンの姿はほとんど見えない。ギラギラと異様に煌く瞳が私を凝視していた。ゴードンは口に咥えていた何かを床にやんわりと下ろした。
クエルは動かない。死んでしまったのだろうか。蝋燭の炎が少し強く猛った。
「ぁぁ……」
目の前にある『モノ』がなんなのか分からなかった。悲鳴は上げない。私の描いた友と呼べる生物への深い感情が私を打ちのめした……目の前にいる変わり果てた生物に声が出せなかった。
「アウラ殿。約束は、果たした……」
歪んだ声量で発せられた言葉。
「ぁぁ……、そ、んな……」
巨大な蜥蜴の強靭な肌は、傷だらけであった。
与えてあげた翼は半分以上焼け焦げて、動かすことはできそうにない。右腕がなく、尾がない。
ゴードンの傷口からはおびただしい量の血が流れ出し、傷の先から体が消えようとしていた。
私はゴードンの頭にそっと触れて、硬い鱗の頭を愛おしく抱きしめた。鱗にポツポツと私の涙が点を穿つ。
「ごめん、ごめんね。ゴードン……」
泣きながら私はゴードンを失わないように強く力を込める。しかし、次第に、ゴードンの肌の感覚は腕から透き通るように消えていってしまう。
ゴードンはいつもと変わらぬ口調で、力強く別れを告げる。
「さらばだ……我が主人、そして友よ。アウラ殿の描く『世界』を星より高い処から見ているとしよう……」
ゴードンが瞳を閉じると、体の色素が薄れ景色に溶け始めた。やがて輪郭だけが宙に浮かび、それすらも、幻であったかのように見えなくなった。
「ゴー……ドン……」
絵から生み出された生き物は思い出の中のものへと変わってしまった。もう二度と、もう二度と私の隣に座る事もなく、語りかけてくれる事もないのだ。
湧き上がる身を裂くような激痛。止まらない嗚咽に、喉が裂けたような痛みを感じる。涙が止まらない。
「泣いてるのか……?」
足元から聞こえてきた声に私は屈みこむ。
「ゴードンが、死んじゃった……あんな、ひどい怪我で」
涙声のままで私はクエルの怪我の様子を暗がりで調べる。思ったより軽症でよかった。あちこち服に焦げ目がついているくらいで重度の怪我はない。
それでも左足と右手が折れている。動ける状態でないことは確かだった。
「ざまぁねよな……意気込んで出ってこの有様じゃ。ゴードンのことはゴメンな……すまねぇ」
「あなたが謝ることじゃないよ。私が、行ってあげてって頼んだから。私が殺したようなものだから……」
涙が止まらない。
ゴードンと同じ生き物を描く事はできるけれど、ゴードンを描く事はできない。物静かで、自然を愛し、私を気遣ってくれたゴードンは、消えてしまった。
「ゴメンな……」
「だから、あなたが謝ることじゃないのよッ」
苛立ちにクエルを怒鳴りつけてしまった。こんな事言いたいわけじゃない。こんなときだけ、しおらしく責任を感じないで欲しい。
「ごめん。私は怒ってないから。もう、謝らないで」
「……ああ」
二人の間に会話はなくなる。
私は涙を拭いてクエルを抱き起こす。床に寝かせたままでは悪いと思い、私は仮眠用のベッドに彼を転がした。本当はこんなむさ苦しい汚いところを見られたくない。
清潔な布と水桶を持ってこようとクエルから離れようとして、クエルの折れていない左腕に引き寄せられた。
「な、なに?」
私はクエルの青い瞳を見つめ返す。
「俺のこんな姿を見ても、お前は黒い炎にまだ挑戦する気なのか?」
言葉に表さないだけで、クエルの目は私を引きとめようとしていた。
黒い炎の恐ろしさを知ってしまったからであろうか、臆病者の光がクエルの瞳に渦巻いていた。
「まだ最後に載せる色が決まっていないのよ。それが決まらないと私の絵は駄目だけど……挑戦したいと思っているわ」
私は自分の胸に手を当てて、はっきりと言った。
黒い炎を消し止めて英雄になろうとか、最高の絵師になれるかもしれないとか、そんな意味ではなく。私は自分の描く『世界』をキャンバスに認められたかった。中途半端な世界でなく、本当の世界をキャンバスに認めて欲しかったんだ。
クエルは真摯な眼差しを向けてくる。その強く張り詰めた瞳に私はドキリとする。クエルはいつものような冗談交じりの軽い口調は捨てて、本気の気持ちを込めて話しかけてきた。
「黒い炎に挑戦するのをやめて……俺と一緒に、俺の作った『世界』に逃げてくれないか?」
突然の申し出に私は目の前が真っ白になる。ついでに顔のほうもサッと熱が回ってきた。
「わわ、私も、一緒にって、コト?」
「ああ、もうすぐ。俺の絵を持ってくるはず……来た」
クエルの視線を追っていくと、いつも彼が乗っていた綿胞子のお化けが壊れた窓から入ってきた。布に包まれた十号キャンバスを口で挟んで持っていた。
綿胞子のお化けはキャンバスを私に押し付けると、クエルの傍らに着地した。
「布を取ってくれ。アウラも気に入ってくれると思う……いい出来なんだ」
私はキャンバスの布を取り去った。
視界に広がる無限の緑、そして遠い朝日の光景に、私は言葉を忘れていた。草原は黄金色に輝いて柔らかな風に波打っている。シルエットになった町並みと森が遥かに見える。
この絵は……?
「俺が元いた世界。黒い炎で、もしかすると死ぬかもしれないと思って、描いてみた。まったく同じじゃないだろうが、俺の故郷とよく似た世界のはずだ。死ぬところは自分の故郷と決めているし、後はお前が、好きなお前が傍にいてくれれば言うことない」
クエルの真剣な言葉を聞きながら、私の直感が脳内を電流のごとく駆け巡っていた。ハッキリ言えば、クエルの言葉を聞き流してしまうくらいの衝撃であった。
「この色……っ!」
私はクエルの腕を取り、すがりつく勢いで傍に座る。
「クエル! この緑の色の作り方教えて!」
私は草原に下塗りされている絵の具を指差した。
「その色の作り方を教えたら、お前は黒い炎のところに行くんだろ?」
「……ええ」
クエルは口を曲げてこれ以上ないってくらい不機嫌な顔をしていた。
自分の振り絞った勇気を無残に流されれば、私も天地が割れるくらい怒り狂うだろうが、今はそんな場合ではないのだ。
「絵を完成させていたら、おそらく、黒い炎を消しに行くので精一杯。脱出する時間は無い……俺が教えると思うのかよ」
私は、ただただお願いするより他ない。絵を完成させるには『淡い緑』が必要だから。
「私の絵は絶対に成功するわ。信じて」
「『世界』を作れなくなった絵師の言うことを信じろっていうのかよ」
二人の間に沈黙が降りる。風の音が騒がしく家を軋ませ、遠くで炎の猛る音がはっきりと耳に届く。ランプの明かりに照らされながら二人は譲らぬ想いをぶつけていた。
――観念したのはクエルが先だった。
「わかったよ、絵の具貸せ。色を作ってやる、俺の言う色を載せていってくれ」
私はクエルの指示した色をパレットに適量出し、筆を彼に握らせてやった。仏頂面でクエルは色を混ぜ合わせて、『淡い緑』を私のために作っていく。
私を信じてくれたって解釈していいんだよね?
視線でクエルに訴えかけると、クエルは舌打ちして私の目から逃げる。
「俺はここから動けないんだ。お前が残るんだったら俺も残るしかないんだ。絶対に失敗するなよ」
刺々しい口調で一気にまくし立てた。
素直じゃない奴ね。私はそんなクエルの横顔を見ながら、描きかけのキャンバスの作業に取り掛かる。あとは……時間の許す限り、自分の『理想』と『世界』をキャンバスに表現していくだけだ。
最後の一筆をキャンバスに塗り終えた。
「出来た」
薄暗さで絵の全景が見えないほどになってから、私はそっと呟いた。
ランプの油が尽きかけていることに始めて気が付く。油を注ぎ温かな光が増した。それから、私は部屋を見渡してぎょっとしてしまった。
仮眠用ベッドに眠っているクエルの様子は変わりない。いつの間にかその横で丸くなっているアルもいいとしよう。
ここからが不法侵入者たち、部屋の隅に身を寄せ合うようにして転がっている、毬藻さんとその他の生物群。
どこかで見た面だと思えば、絵師の連中も多数見られる。外の騒がしさにさらに嫌な予感がして、忍び足で窓に張り付く。
「うわ……?」
どんぐりの木を囲むようにして多くのエリュシオンの住人が大集合していた。
理由はすぐ目の前にそそり立っている。巨大な炎の津波。天を妬き焦がすほどに成長した黒い炎が私の家を円に囲み、いままさに、呑み込もうとしているのであった。
だが、黒い炎は一定範囲内から私の家に近寄ろうとせず、様子を伺っているようなそぶりである。
私は描きあげた自分の絵をちらりと横目で観察する。
まさか、この状態で何らかの影響力を持っているとでも言うのであろうか。私の絵はランプの火に照らされてツヤツヤと光を反射している。
『緑柱石の世界』とでも表現できそうな私の絵。幾何学的な模様と葉が生い茂る林を描き、葉や木の表面的な模様は鉱物のような硬質感を持たせてみた。
他にも言いたいことはあるが、説明するとすればこんなものだ。
「やりましたね、アウラさん!」
湧いて出たハスキーボイスに振り向けば、目を覚ました毬藻さんが私に飛び掛ってきた……抱きついてきた。
私は緑色の脅威を体でがっちり受け止める。口から魂が出るかと思った。
「私たち勝手にお邪魔させてもらったのですけど、集中しているようですし、声を掛けずにいたんです。掛けたとしても気づいていたかどうかわかりませんけどね。とにかく、絵の完成おめでとう!」
腹部に鈍い痛みを感じつつも、私は笑顔を取り繕う。
「あはは、あははは……ありがとうございます」
毬藻さんの声で部屋にいた全員が寝ぼけた瞳を瞬かせていた。私の頭の上にアルが飛んできた。そのまま私の肩に爪を立ててしがみ付いてくる。重たいので抱えあげてやる。
「早いところ、黒い炎に対抗できるかやってみせてよ。暑くて死にそうだよ」
アルの言うとおり外は肌で感じられる速さで熱くなっているようだ。春の陽気どころか、夏が取って返ってきたかのごとく熱が充満している。
私は絵を担ぎ上げるとぐっと拳を突き出す。
「まかせておいて! ゴードンやマスター。クエルの仇をとってくるわ」
意気込みを見せて外へ飛び出そうとする私を引っ張る奴がいた。見れば、綿胞子のお化けがズボンの裾に食いついている。
「それを貸してやる。空の上からのほうが効果的だと思うからな」
クエルが横になったまま私に笑みを向けてきた。眠ったおかげか元気そうだ。
「ありがと。借りてくわ」
ウインク一つ、綿胞子のお化けに座る。浮かび上がろうとする私に、追いかけるように飛んできたクエルの声が背中に突き立つ。
「おい! それと。俺はちゃんとお前に伝えたからな。あとでちゃんと返事を返せよ!」
ぐぅ、さすがに忘れてなかったか。
しかもこんなときに言うなんて。詮索好きの毬藻さんがいるから……絶対みんながいる前で言わされるのではなかろうか。
このままでは一世一代の大恥をかく羽目に……。そう思うと、頭に一気に血が上る。
「うっさいわね! 今言うことないでしょ、バカ!」
挙動不審を見咎められないように、空へ逃げながら怒声を浴びせてやった。
私の声を聞きつけて、外にたむろしていた連中が一斉に空を見上げる。手を振って見送ってくる皆に答えて、私は星に向かって飛んでいく。
「よっし」
炎の熱もここまではほとんど届かない。上空の冷たい風に私は身ぶるいしながら絵を掲げ上げる。ここなら不測の事態が起きても死んでしまうのは私だけだ。
緊張に体をカチカチにさせて私は叫ぶ。
「まだ見ぬ世界を夢見る光。願いの光を私はそっとかき寄せる。私は世界に名を与える。世界に命を吹き込める」
いつもは省略する言葉を唱えた後、決めていた『私の願い』を口にする
「世界の名は『完璧なる世界』。すべてのものに溢れる幸せを!」
キャンバスを突き破る勢いで緑の燐片が散らばっていった。あれは宝石だろうか。きらきらと輝きながら地面に落ちていく。
そして。
大地が轟き、地面から巨大な山脈を思わせるエメラルドの柱が生えた。次々と、石柱が地面から顔を出してくる。まるで竹の子のようだ。
驚いたことに、エメラルドの柱は黒い炎を閉じ込めて石化していた。黒い猛りを斑紋にして立つ宝石の峰は幻想的な美しさを魅せていた。
さざなみが水面を覆うかの速度で黒い炎はエメラルドに取り込まれていく。私の視界は地平の彼方まで宝石の山々で埋め尽くされていた。
だが、変化はこれに収まらない。
エメラルドの石柱は小刻みに鳴動する。互いが共振して大気を震えさせるまで微動すると、唐突に粉より細かく崩れ落ちた。
舞い上がる塵の一つが私の手の中に落ちてくる。これは。
「種?」
突然。綿胞子のお化けを払いのけて巨木の枝が伸びてきた。木人拳も真っ青の枝の攻撃に、慌てて高空へ脱出する。
焼け野原になったエリュシオンの大地から魔法のように木々が生長していく。苔の生えた土から水が溢れ、川が生まれていく。瞬きする間に森のひさしが無限大に広がっていく。
人々の歓声に包まれる頃、かつて草原であった場所は光差す木漏れ日の森となっていた。
私はこの日、生まれて初めて数え切れない人々から、『ありがとう』と言われた。その言葉が胸に染み渡るたび、この上なく嬉しく、そして自分に自身が持てるようになれた。
私は認められた。このエリュシオンという大地で初めて人々から認められたのだった。