「畜生……今回ばかりは死んだと思ったぜ」
全身包帯だらけの体をさすりながら、陽光は足を引きずって歩いている。外はオレンジ色と黒のヴェールと混じりあい、星の瞬く群青色になり始めていた。保健室を出て直行する先は時計台の下だ。
あれ? いつ出しに行ったの? と思う君たち。すぐには動けない陽光の代わりに、私が手紙を下駄箱に入れに行ったのだ。予定通りであるならば、久留米緋織が時計台へと向かっているはずだ。
時刻は三時四十五分。
両足がもげる勢いで全力疾走してギリギリといったところである。たぶん、いま陽光に走らせたら、背骨が空中分解するね。
「でもよかったじゃない。≪忍の秘薬≫を持ってた三春に感謝しなきゃ」
「なんで大怪我させた張本人に感謝しなけりゃいけないんだよ!」
仏頂面のまま陽光は声を荒げた。気炎を吹かんばかりで額に血管が浮き出ている。
でもね、何で生きてるのかしらこの少年は。
人間は、両腕の腕を折られ肋骨を粉々に砕かれて、背骨をポッキリと割られて生きている事は不可能だ。
だが、≪忍の秘薬≫を飲まされた陽光は、全身に包帯を巻く程度の怪我で済んでいる。有り得ない事だけれど、それが事実だ。
あー、そういえば。
三春は、陽光の怪我に多少なりとも責任を感じたのか、陽光が寝ている間に肩を落として去っていった。なにやら「優しい男の抱き方」を研究してくる、とのことだ。
「くそっ……何とか間に合わせてやるぜ。待ってろよ、久留米さん!」
傷だらけになりつつも歩みを止めない。夜の闇を抱く校舎を背にした姿は、題するならば『愛の戦士 死地へ赴く』といった感じだろうか。
とはいえ、陽光の場合は『死地』へ着く前に死ぬかもしれないけどね。おっと……不幸の匂いがしてきたわね。
「きゃあ、あぶない!」
抜群のタイミングで階上から悲鳴が聞こえてきた。
声のしたほうを見上げれば、大量のスキー板が階段を津波のように滑り落ちてくる瞬間であった。階段ではスキー板を運んでいたらしい数人の女子生徒たちが倒れている。
どうやらバランスを崩して運んでいたスキー板立てを倒してしまったのか。なんて、解説している場合じゃない。
「陽光!」
「言われなくてもわかってるって、同じ轍は踏まねぇ!」
そう叫ぶなり、横手にあった扉を引っ掴み押し入る。陽光の選んだ教室は特別教科用の教室『生物室』。いまは生物科学部が部活動をしているはずだ。
朝は飛び上がってヒドイ目にあったわけだから、こんどは避難することにしたのか。冴えてるね!
扉を閉めたコンマ秒後、激しい衝突が間断なく続き、ステンレスとプラスチックの安価な扉が奇怪に歪む。金属製のノブが弾けて転がり、ようやく扉の向こう側は静まった。
「ふぃ~、セーフだな」
長々と息を吐いて、陽光は会心の笑みを浮かべる。しかし、ここはまだデッドゾーンの気がしないでもない。
安心するのはまだ早いと思うけどな。
ドズン、と何かが体をぶつけているような音が聞こえた。
細かな砂が落ちていくような異音、氷を割ったときのような乾いた音が聞こえた。私は不穏な空気を察知して振り返る。
「陽光、やばいよ?」
「ああ?」
首を巡らせて目に飛び込んできたものがある。生物教室の大半を占拠している巨大な水槽だ。並々と注がれた水は白く濁っていて中身が定かでないが、荒れ狂う水の中では巨大な影が蠢いている。
水槽の近くにいる白衣を着た生徒が右往左往している。
「部長! 実験生物Bタイプが暴れています。手がつけられません」
それに対して眼鏡をかけた女子生徒が冷静に声を掛ける。
「麻酔銃! 一発キッツイ麻酔銃持ってらっしゃい!」
水槽に当たる黒い影の動きに合わせて分厚そうなガラスに鋭い亀裂が入る。水が少しずつ噴出しているため、濁った水が陽光の足元を濡らし始めていた。
てゆーか、生物科学部のレベルを超越している気がするけど……実験生物ってなにさ、学校にそんなもの持ってきちゃいけません!
「なんで、今日に限って……極めて運が悪いんだ!?」
部員たちが謎のクリーチャーを取り押さえようとする前に水槽の耐久に限界がきてしまう。黒い影の体当たりでガラス片が粉々に砕け散り、大量の水が襲い掛かってきた。
陽光の悲鳴は濁流に呑まれて消えた。
水の塊を避ける暇もなく、陽光は扉に背面から叩きつけられる。そして、扉ごと押し流されていく。
研究部員たちは、ちゃっかり生物室の天井近くに設置されていた檻に退避している。その真下では水槽から這い出した名称不明のクリーチャーがのたうっている。
獲物が手の届かないところにいると理解すると、教室から流れ出た陽光の方向へ向き直る。体をくねらせると猛追をはじめた。
水面から除く鋭利な背ビレと流線型の黒い肌……さらに、何故か後ろに引き連れている無数の触手。鮫なのだろうか?
「ほら、陽光! もっと速く泳がないと食べられちゃうわよ!」
「お前は見てるだけだから、楽でいいよな! 畜生!」
失礼ね! それじゃあ私がただ見ているだけみたいじゃないの! ほとんど本当の事だけれど。
ま、私にできることは限られている。ちらっと視界に入った時計。時刻は……
「いま三時五十五分よ」
「ぐぁぁ、もう! 十分も経っててなんで目的地から遠ざかってるんだよ!」
飛沫を上げるバタ足の向こうで巨大な口が開かれる。その奥には歪で鋭い牙がズラリと並んでいる。咬まれたら千切られてしまいそうだ。
一人と一匹の距離は目に見える速度で縮まっていく……あれ、陽光? どこに行くの?
私の思いと呼応して、陽光の表情にも驚きの感情が見える。
陽光と謎のクリーチャーは、泳ぐ方向と反して引き寄せられるように校舎の一角に流されていく。
「結局はこうなるのかよ!」
どうやら水道局が下水管の工事をしていたらしく、マンホールが開いている。
行く先にあらかじめ見当がついていたのか。陽光は巨大な渦潮を目にして投げやりに叫ぶ。実は、陽光は下水を流されるのが初めてではありません。
だが、この少年にも幸運はついていた。やったね陽光。
作業していた一人の工員は命綱をつけていて、濁流を吸い込むマンホールから脱出しようとしている。高台に避難している工員たちが、必死で引っ張っているおかげで、じわりじわりと渦潮から逃げ出せていた。
陽光は工員に手を伸ばしつつ声を張り上げる。
「助けてくれ!」
その声に気がついたのか工員が手を差し出してくれた。
「! よし、つかまれ!」
だが、両者の湿った手では捕まえきれるか定かではない。それに陽光は流されているからチャンスは一度だ。
でもでもでも! そんなに上手くいってたまるもんですか。
『キシャァァァァッ!』
「どぉおおお?」
「だぁぁ!」
指先が触れる寸前、割ってはいってきた鼻面。謎のクリーチャーの強襲だ。飛び散る水飛沫に両者は意味不明な絶叫を上げて手を引っ込めてしまう。しかも、工員は即行で高台へ逃げてしまった。
「おいこら! テメェ、逃げんな!」
陽光の猛抗議に工員は首を高速で振って拒絶する。真っ青な顔をしているところを見ると、よっぽど謎のクリーチャーに驚いたのだろう。
「俺は名前すらないキャラクターだから! 死期を早める行為はしたくない!」
違うのか……考えてみれば、ある意味、懸命な判断ね。
最後の頼みの綱もなくなった今、陽光の運命は波間に揺れる木の葉と同じであった。
「く、久留米さん。俺は……シャ、シャルウィ~、リターン!」
陽光の悲痛な叫び声は渦潮の中心へと引きずりこまれていった。続いて謎のクリーチャーも穴に突っかかりながら下水へ落ちていく。
かのマッカーサーも同じような心境で撤退したのだろう。彼は謎のクリーチャーに追われながら下水に流される事はなかったとも思うけど。
私は気分に乗るため、ビシッと敬礼してやった。さよなら、陽光。下水の旅へいってらっしゃい。
おっとと。いつまでも敬礼しているわけにはいかない。私はふわふわと空へ浮かび上がり、陽光を追っていくことにした。