序章

振り下ろされた一撃を、飛び退きながら剣の腹で滑らせる。
 だが、人間の力を遥かに上回る鉤爪の威力に、俺の腕に鈍い痺れが残った。続けて振るわれた左爪の一撃を受け流す。
 対峙するのは、俺の体の数倍はあろうかという羽の生えた蜥蜴だ。
「はぁッ!」
 気合と、一閃。
 爪撃の隙を縫い、俺は剣を叩き込む。しかし、緑色のヌメヌメと光る鱗にはまったく傷が付かない。
「くそっ……剣ではとても手に負えないか」
 鋭い爪の攻撃が重ねて襲い掛かる。爪が剣に触れるたびに魔法の長剣から青白い光が削られていく。
 物理的な衝撃に耐え切れずに魔力が散っていってしまうのだ。直撃を喰らえば、この魔術で硬化された剣でも持ちそうにない。
 15の年齢で熟練の戦士と互角以上に渡り合う俺が、かつてないほど死を身近に感じていた。
 俺は大口を開けた大蜥蜴から横っ飛びに逃れる。遅れて、扇状に広がる炎がさっきまでいた場所を焼き焦がした。
 俺が戦っている相手は、羽の生えた巨大な蜥蜴。山岳に棲息する≪大蜥蜴≫と呼ばれる生物である。
 吟遊詩人の語る伝説で、神々と戦いを繰り広げた≪古竜≫と酷似しているが、高度な知能は持たないし魔術を行使することもない。≪古竜≫と比べれば話にもならない生物である。
 しかしながら、人が相手にするには無謀すぎる相手だ。熟練の戦士や戦闘の得意な魔術師でも一人で戦って勝てる相手ではない。
 もちろん、逃げればいいと言うのは容易い。
 だが、それは決して許されない。俺の後ろには守るべき人がいる。俺が勝つ事を信じて、この戦いの行く末を震えながら見守っている人がいる。
 ≪大蜥蜴≫に背を向ければ、守るべき人に牙が襲いかかるだろう。
 こうなれば、魔術で倒すしかない。思いつくが早いか、俺は拳を固めて覚悟を決める。
 人成らざる者が編み出した魔術は、人が使用すればするだけ、精神を病み肉体を衰弱させる。気をつけて扱わなければ、魔術を発動させた途端、俺の意識は砕け散り、体は塵となって消え去ってしまう。
 俺は≪大蜥蜴≫の側面に回りこむ。
 短く息を吐いて意識を集中させる。見えない手で粘土をこねるように、宙に漂っている小さな魔力を収束させていく。
「! ……しまッ」
 もう少しというところで、横手から迫り来る殺気に全身の筋肉を強張らせる。
 寒冷の樹木をなぎ倒して振るわれた尾の一撃に、俺の体は宙へ舞い上げられ、したたかに苔むした大地に叩きつけられた。
 油断していた……なんてマヌケなのだろう。≪大蜥蜴≫には尻尾があることくらい予想できるはずなのに。
 肺から込み上げる異物を吐き出す。
 口の中いっぱいに鉄の味が広がり、ビシャビシャと零れ落ちた血塊が地面を真っ赤に染め上げた。
 ≪大蜥蜴≫から距離が離れてしまい、俺は同時に命を換えても守るべき人からも遠のいてしまった。
「セリア姫! お逃げください!」
 喉に詰まった血の粘りにつっかえながら、俺は精一杯の大声で叫ぶ。≪大蜥蜴≫は新しい獲物に狙いを定め突進していく。
 一飲みにされてしまいそうな小柄な体が≪大蜥蜴≫に隠れて見えなくなる。巨獣が立ち尽くすセリア姫に覆いかぶさった。
「姫――ッ!」
 俺は、立ち上がり……そのまま動けなかった。何を悔いようと、いまさら手遅れだ。俺はセリア姫を守る事が出来なかったのだ。
 それだけではない。
 密かに胸に秘めていた想い。騎士と姫の恋などと、物語の中にしかないような感情を、俺は持っていた。心の中で静かに浮かべているだけで満足であった想いを、俺は永遠に失ってしまったのだ……
 しかし。
 悲鳴を上げて仰け反ったのは、≪大蜥蜴≫のほうであった。勇ましく吼えていたはずの巨獣は、悲痛な鳴き声を上げていた。
 細く、猛々しい咆哮が、山林の中に広がる……あり得ない光景が目の前で繰り広げられていた。
「な……セリア、姫……」
 俺は全身に鳥肌が立っていた。ついで、骨が凍るようなおぞましさに体が震えて動かなくなった。気がつけば剣を取り落としていた。
 ≪大蜥蜴≫の額に喰らいつく人の姿。
 濃厚な紅い瞳を滾らせた少女。
 腰まで豊かに垂らした白金の髪を振り乱す乙女。
 質素な旅装束に身を包みながらも、くすむ事のない美しさを魅せていた同い年の美姫。
 セリア姫は≪大蜥蜴≫の頑強な鱗を、白磁のような歯で喰いちぎり、勢いのまま眼球を引きずり出した。大量の血飛沫が舞い、血の臭いが霧の山林に垂れ込めた。
 花を愛でるにふさわしい腕が振るわれるたび、≪大蜥蜴≫の体は易々と切り裂かれる。赤い肉の隙間から白い骨が露になっていく。
 セリア姫は手頃な大きさになった肉を掴むと粗野に頬張る。血と油に口元を汚しながら、服が汚れるのも気にせず肉を喰らう。溢れ出る血が大地に溶けていくのがもったいないと言うように、音を立てて啜っていく。
 俺の魔力を見通す目がセリア姫の体から湧き上がるモノを映した。
 セリア姫の体に魔力が集まっている。
 この世にあるすべての物質は魔力で構成されている。それは俗に『魂』と呼ばれる物質だ。
 この世の生物は食べる事で自らの体内に微量の魔力を蓄える。摂取した食物を消化して栄養を取り、その過程で微量の魔力を得る。
 普通はあり得ないのだが。セリア姫は、物質を構成している魔力をそのまま……何らかの方法で、自分の魔力に変換しているのだ。
 俺の脳裏に、我が師匠の言葉がよみがえる。
「セリア姫は生きるために。生物の魂を得るために、肝を喰らい骨ごと肉を食さねばならない……だがな、恐れてはならぬぞ。セリア姫は好んで化け物になったわけではないからな」
 話には聞いていたが、こんな光景をまざまざを見せつけられて平静でいられるはずがなかった。怖ろしさのあまり歯が噛み合わず、舌を噛み切ってしまいそうであった。
 瞬く間に≪大蜥蜴≫を胃に収めたセリア姫は、指先についた血を舐めとりながらこちらへ歩み寄ってきた。
「動かないで。傷を治しますわ」
 言われて初めて思い出し、低く呻く。
 うずくまってしまいそうな痛みが急にぶり返してきた。恐怖に満たされていた俺は、肋骨が折れている事や臓器にまで及んだ痛手を感じていなかったのだ。
 だが、傷を治すとは?
 ≪治癒≫の魔術なんて聞いたことはない。それにセリア姫に魔術の嗜みがあるんて聞いたことがないが……
 俺の疑問など知らず、セリア姫の指先が俺の胸元にそっと触れる。異様な熱さに俺は身じろぎした。
 セリア姫の指は凄まじい熱を放ちながら俺の体内に何かを注ぎ込んでいた。
「……これは?」
 不可思議な力に慄きながら好奇心に負けて尋ねてみる。
「さぁ? 私も存じませんわ。でも、枯れた花でも死んだ生き物でもたちどころ元気になる不思議な力です」
 セリア姫が離れると熱さと痛みが引いていく。まるで怪我など元からなかったようだ。奇跡としかいいようがない。
 俺は固まったままセリア姫を凝視していると、彼女は地面に転がっていた剣を拾って差し出した。
「あなたはお逃げならないの? イニアス様」
 血濡れの姿のセリア姫は、濃紅色の瞳で探るように俺を見つめてくる。深い瞳の色に強い光が宿っている。
 それは己の存在に疑念を持たない知性ある生物だけが持つものとよく似ていた。まるで、我がハイアット王国の軍旗に描かれた≪古竜≫のように。
 悪夢の中に迷い込んでしまったのならどんなに良かっただろう。しかし、鼻をつく生臭い空気は俺の意識をハッキリとさせている。
 何か言わなければと思い、辛うじて意味のある言葉を作る。
「……私は、セリア姫を命に代えても守るように、王から言い付かっております」
 セリア姫はほんの少しだけ目を見開き、意外そうに瞬きを繰り返した。
「私が怖ろしくないのかしら?」
 心を見透かすような瞳が覗き込み、俺は思わず視線を下に向けてしまった。
「そんなことは、ありません……」
 俺は震えの止まらない手で剣を受け取ると時間をかけて鞘に戻した。
 その様子を見たからなのか。セリア姫はフフッと笑みを漏らすと、冷たく言い放つ。
「逃げたければ、いつでも逃げてくださって構いませんのよ。恐ろしいならば、その剣で斬りかかってきてもよろしいですわ」
 セリア姫は冷笑を浮かべたまま山林の獣道を先へ歩き出した。
 頭の中は真っ白で何も考えたくなかったが、セリア姫を一人にすることだけは俺の本能的なモノが許さなかった。
 険しい道を苦もなく歩いていくセリア姫を追いかけて歩き始めた。
「セリア姫。ここから谷を一つ越えると、騎士の在住する村があります。そこで小休止しましょう」
 セリア姫は小さく、「そうね」とだけ答えた。あとは二人の足音だけが霧の森に聞こえていた。
 指先のわななきは消えなかった。だが、どうしてもセリア姫を一人にしたくなかった。それは、女性だから、王命があるから……後付できる理由はいくらでもある。
 一番の理由は、初めて見た時から、俺はセリア姫の美しさに恋していたから。少年の持つ分相応な憧れ。でも、憧れはいつしか想いに変わり……俺の心を掴んで離さなくなった。
 怖ろしくはあったが、セリア姫の隣を歩ける事が心の底から嬉しかった。
 だから、これはチャンスだと俺は考えている。しかし、分からない事もある。
「どうして、陛下とヴァルナ―師匠は、俺をセリア姫の騎士に任命したのだろう……」
 そして、俺は昨日、王から受けた密命のことを思い出していた。

覇王姫 序章

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