セリア姫が居る場所まであと一息と言うところで、俺は立ち止まった。セリア姫が動き出した。俺のいる方向へどんどん接近してくる。
まだ正気に戻っていないのか……? 俺は巨木を背にして剣を引き抜いた。斬るつもりはないが、何もせずに喰われるのを待つこともない。
突風が森の黒々とした葉をざわめかせる。断続的な打音が木々の間から近づいてきている。
俺は咄嗟に身を屈めた。
「ぅわ……!」
松明が爆発し、火粉と木片が舞う。もう一撃で俺の剣がどこかへ飛んでいった。俺の背後の木とさらに後ろの木が数本、ゆっくりと傾いでいく。
ドッと汗が滲む。
伏せなければ俺の首はなかった。剣を持っていた右腕は馬鹿みたいに言う事をきかない。腕がもげなかったのが不思議なくらいだ。
大蜥蜴の力など比ではない。こんな怪力を持つ生物はいないのではないだろうか。
巨木が折れたせいで、森の中に一筋の明かりが差し込んできた。視界が晴れる。 これは、攻撃に転じるチャンスだ。
≪感知≫と≪天眼≫の魔術を最大限に展開して網を張る。どこにいるかさえ分かれば、避けられない事はないはずだ。
「どうして……追ってきた、の? 逃げ……な、さい……はやくッ……!」
切れ切れのセリア姫の声が聞こえた。
「セリア姫ッ!」
ハッと頭上を仰ぎ見る。
星の瞬く夜空を隠す、木々の梢。爛々と紅い双眸が俺を捉えている。正気に戻りそうなのか。それとも……
葉の陰に獣の瞳は見えなくなってしまった。
激しく幹を蹴る音に耳を澄ます。セリア姫が俺に近寄るには地面に降りなくてはならない。飛び掛ってきた一瞬で取り押さえる、それしかない。
ザザッ、と茂みに降り立つ音。
俺は篭手をはめた左腕を前に、半身を晒す格闘術の構えを取る。地を蹴る音は正面からだ。
森の暗がりから白金の疾風が躍り出た。
俺はセリア姫の首襟を狙って左腕を突き出す。捕まえれば、寄せて引き倒すだけだ……これでッ!
だが、俺の指先は空しく突き抜けた。
目と鼻の先を紅い瞳の残像が過ぎていく。セリア姫は、恐るべき脚力で直進する体の軌道を変えたのだ。
俺が振り返ると、眼前にセリア姫の顔が迫っていた。
俺は地面に倒れながら、本能でその攻撃を防御した。首の前に左腕を差し入れたのは、俺の生きる執念だ。
セリア姫が俺の腕に喰らいつく。
「ぐぁぁあああッッッ!」
激痛に我慢できずに、声の限り叫ぶ。
魔法銀(ミスリル)の篭手をはめた腕に、セリア姫の真っ白い歯が突き立っている。そして、歯の力は難なく魔法銀(ミスリル)を噛み潰しながら、俺の腕に食い込んでくる。
即死は免れても、これでは腕を引きちぎられて仕舞いだ。
「はぁぁぁッ!」
俺は強引にセリア姫を押し退けると、折れた巨木の根に叩きつける。
セリア姫は超人的な力を持っていても体重は女のもの。持ち上げる事ならば簡単な事だ。
腕の一撃を喰らわぬように、セリア姫を抱きしめるように右腕を背中に回す。 フッと鼻に触れた白金の髪からいい匂いを感じる。俺とセリア姫の、二つの心臓の鼓動が聞こえてくる。
「セリア姫。私です……イニアスです。正気に戻ってくださいッ!」
背中に深く爪が刺さった。抉り取るように振るわれた一撃に、俺は声を上げる事ができなかった。
喉を塞ぐ血が、口から止め処もなく溢れ出す。
これまで、か……
二つある鼓動。脈打つ心臓の動きが、一つだけ、弱まっていく。静かになっていく。体を通して伝わる、もう一つの心臓の温もりが、とても愛おしく感じる。
左腕にあった歯の圧迫感が消えた。俺を斬り裂いた腕が、俺を優しく抱きかかえた。背中に樹の感触を得て、俺は折れた木に寄りかかっているのだと知った。
「イニアス……ッ」
視界の端に闇が迫る。光が遠のいていく中で、声が聞こえた。
「正気に、戻られたのですね……」
俺の頬に熱いものが、ポツポツと落ちてきた。顎と頭にひんやりとした腕が添えられて、震える温もりが寄せられた。セリア姫の額が俺の頬と重なる。
「だから、言ったではありませんか……追ってこないで、と。私は、あなたを、失いたくないから、言ったのに」
セリア姫は嗚咽に喉を潰して、言葉を飲み込んだ。
背中から流れ出る血は勢いを弱めているのか。流れ出る血の滑りは感じられず、すべての触覚は消えうせて、横たわっているのかもわからなくなってきた。
セリア姫も俺の傷を治しても無駄であると悟っているのか。あの不思議な力を使おうとはしなかった。おそらく、傷を治すことはできても、失った血まで元通りにする事はできないのだろう。
「私は満足でした。私の事を少しでも想ってくれる人に出会えたことに感謝していたのに……」
「だから、拒絶したのですか……」
吐き出す息に含ませるように、小さく声を発する。
失いたくないのなら、何故ハッキリと伝えてくれないのか。二人で歩いていける未来を探そうとしてくれなかったのか。
「もう一度、訊ねますよ……セリア姫。あなたは、私を、傍に置いて下さいますか?」
「それが叶うのならば、私と共に生きて欲しいです」
俺は遠のく世界の中で必死に意識を保とうとする。セリア姫の手を硬く握りしめて唇を動かす。
「その言葉、待っていました。セリア姫……私の剣を、持ってきて下さい。あと、あなたの魔力も、分けていただきたい、のです」
「剣を、ですか? いったい……」
俺が虚ろな瞳でセリア姫を見つめると、彼女はそっと私から離れていった。
実は。たった一つだけ、たった一つの方法ならば、俺はセリア姫の傍にいることが出来る。しかし、その手段は禁忌の魔術であり、大量の魔力を消費する。それにこんな状態で魔術を行使する事になるなど、思ってもみなかった。
成功率は……低い。
暗い気持ちになると、視界が闇の一色になった。目蓋を無意識のうちに閉じてしまったのか。もう、何も見えない。
「イニアス……」
耳元で囁かれて、俺は聴力も衰えてきている事を知った。もう時間がない。間に合わないかもしれない。
最後の最後でセリア姫と心を分かり合えたというのに……俺に用意された最後のときはこんなにも報われないものなのだろうか。
焦りに億劫に動く右腕を彷徨わせる。指先に温かいものが触れて、間に金属の柄が納まった。
剣を握る。そして、離れようとするセリア姫の指を俺は夢中で掴み取っていた。
「お願い、です……そのまま、離さ、ないで、ください」
俺の言葉を怯えと感じ取ったのか、セリア姫は両の手で俺の手を柄ごと包み込んだ。俺はすべてが消えようとする中で魔術の構成を始めた。
「イニアス……ッ、いったいなにを?」
セリア姫の悲鳴を無視して俺は言葉を一方的に押し付けた。
「どうか、セリア姫。私の、剣に、魔力を、たくさんの、魔力を注ぎ込んでください。私は、いまから、自らの意識を、剣に、封じ込める……≪移魂≫の、魔術を、完成させます。細かい、説明は、成功したときに……」
魔術の構成だけを続ける俺の思考に、昨日の出来事が蘇る。
ヴェルナー師匠は宝物殿の中でこの禁忌の魔術を俺に教えた。≪古竜≫の倒し方など何も伝えずに、宝物殿の奥に保管されていたこの魔術だけを俺に教えたのだ。
ただし、セリア姫の魔力と俺の魔術が無ければ絶対に失敗するぞ、と念を押されていた。
俺は訳が分からなかったが……ヴェルナー師匠はこうなる事を予想していたのだろう。俺がセリア姫の心を掴んだとしても、必ずセリア姫に食い殺されるであろう事を。それに運よく生き残れたとしてもセリア姫と俺の恋は認められない。
相応の覚悟とはよくいったものだ。
人である事を捨てたのなら、セリア姫と俺は結ばれる事が出来るなんて。
もはや考える事すら、想う事さえもできそうにない。俺は満ち溢れた最後の力を解き放った。魔術は完成したのだろうか?
意識は闇の中へ、すべては闇の中へ。俺は闇の奥で、微かにセリア姫の温もりを感じていた。