第二章

しかし、それは愚かな間違いである事に気がついていた。セリア姫は俺より強いのだから。
 セリア姫は守られる存在ではない。守るなどという考えが間違っている。
 谷を越え山の陰に日が落ちる時分になって、休めそうな村にたどり着いた。≪霧の山岳≫へはここから半日ほどのところにある。日が落ちていなければ、白霧に包まれた山々の輪郭が拝めたはずだ。
 この村はモーリックと呼ばれる領主が治めている。
 だから、村というよりは砦といったほうが正しい。この砦は北の隣国の侵攻を最初に食い止める拠点となる。
 セリア姫と俺の通り過ぎる事は通達が来ていたためか、すでに姫の通過予定が伝わっていた。砦に近づくなり騎馬の兵の迎えがあり、貸し与えられた馬で砦まで招待されたのだ。
 血装束を纏うセリア姫は、用意された湯殿へと連れて行かれた。俺はその間に、セリア姫と俺のために用意された部屋に案内される。
 案内をかってでた人物と俺は、道案内の途中で何気ない会話を交わしていた。
「この地域は、いま≪大蜥蜴≫が大発生して危険な場所なのですが……軽い手傷を負う程度で撃退してしまう腕前。イニアス殿はお若いのにさすがですな。さらにその年齢で姫の守護騎士を任命されるとは」
 中年の男は俺を上から下まで眺めてから、そんな事を言う。本心からの気持ちなのか和やかな気持ちをさせる笑顔を見せる。
 俺は必死で乾いた笑い声をつくっていた。
 ≪大蜥蜴≫を倒したのはセリア姫です、などとはとても言えない。セリア姫の様子を聞かれたらどう説明すればいいか、と冷や冷やしながら俺は答える。
「はっ、ありがとうございます。モーリック卿もこの地での任務。ご苦労様です」
 嘘を吐く罪悪感にさいなみつつ、無難な挨拶を述べておく。
「そう畏まらずに。この館ではくつろいで貰って構わんよ」
 モーリック卿は、引き締まった体系で、背丈は俺より高くて長身だ。飾り気のない服装・髪型だが、口元の髭は気遣っているのか指先で整える事が多い。
一介の騎士に過ぎない俺を、モーリック卿自らが出迎えてくれた事に、ちょっと驚いていた。
 貴族だが気さくな御仁で、なかなか好感の持てる人物である。
 館も王国貴族特有の、輸入家財で整えた成金趣味ではない。壁に掛けられた武具。山岳に棲息する魔獣の毛皮を飾ってあったり……どちらかといえば無骨者の騎士の気風が漂っている。
 案内された部屋は、奥に大きな個室を兼ね備えた来客用のものであった。奥をセリア姫の部屋にすれば、俺の寝ている部屋に入らない限り、セリア姫に接触することはできない。セリア姫には不自由かもしれないが安全面は大丈夫そうだ。
 「狭い部屋ですがね……」、と断りを入れるモーリック卿であったが。恐らくこの館では一番立派な客室であろう。
「食事の用意をさせておくので、セリア姫の支度が整い次第いらして下さい。準備が出来きしだい、使用人が伝えるようにしておきましょう」
「お気遣い感謝いたします」
 そこへ使用人が控えめに開け放されていたドアをノックする。連れてきたのは、すっかり綺麗になったセリア姫だった。
「おお、嫁いだ娘の服しかなくて申し訳ありません。しかし、よく似合っておられる」
 満面の笑みを浮かべてから、モーリック卿は右腕を胸の前に当てて騎士の礼をとる。俺は見惚れていたかったが、卿に倣い礼をする。
 その場に菫の花が咲いたよう、というのが適切だろうか。
セリア姫は白を基調とした、青紫のフリルに飾られたドレスを着ていた。腰周りを細く魅せ、足回りに絡むドレスの裾はスマートな広がり方をしている。
 セリア姫はスカートの裾を軽く摘んで、会釈する。
「突然の訪問にも関わらず、このようなもてなしを嬉しく思います。モーリック様の御好意に、父上はさぞ喜ばれる事でしょう」
「いえいえ、王に忠誠を誓い国を愛する者ならば当然の努め。どうか、お好きなだけ滞在してください。それでは、ごゆっくり」
 モーリック卿と使用人が去り、俺とセリア姫だけが残された。卿の作り出した空気に中てられたためか、俺は妙に軽い気分であった。
 いや……嘘だ。
 セリア姫の着飾った装いなど、祝賀会の隅で警備をしながら遠目に眺める事しかできなかった。俺は舞い上がっているのであった。
 魔法銀(ミスリル)の胸当てと篭手を外しながら、セリア姫に話しかける。
「モーリック卿は、王国の貴族たちと違って良い人柄ですね。貴族はどの国でも私利私欲に走るものとおもっていましたよ、私は」
 俺の台詞を聞いても、セリア姫は愛想笑い一つ見せなかった。目を少し伏せて小さくため息をつく。
「あなたという方はまるで赤子のように純粋ですのね。人は疑って見るべきであることを知らないのですか?」
 何かいけないことでも口走ったかと、俺は口を閉じる。
 瞳に過ぎる光は、どこか呆れたようなものが含まれていた。蔑みか、嘲弄か……良い感情でないことだけは確かだ。
「モーリック卿は嘘を話しているはずがありませんが……」
 俺は、セリア姫の態度に静かな不満を覚えつつも、やんわりと反論する。ヴェルナー師匠の教えで俺は負担の軽い、魔術文字を具現化させずに使用できる三つの魔術を、常に周囲に展開している。

 他人の虚言を見破る、≪洞見≫の魔術。

 見えない気配を探り当てる、≪感知≫の魔術

 特定の人間……いまはセリア姫だが、居場所を知らせる、≪天眼≫の魔術。

 俺の魔術は、モーリック卿に一切反応しなかった。魔術の力を弾くには強固な精神力を必要とする。普通の騎士であるモーリック卿がその術を知っているはずはない。
 俺は自然と不満そうな顔になっていたのか。
 セリア姫は子に言い諭すように、優しい声で諌めの言葉を告げる。
「魔術はとても便利なもののようですけれど、頼りすぎるのも良くないかも知れませんよ」
 俺はムッとして、眉をひそめる。
 ここまで言われるとさすがに我慢が出来ない。未熟者である事は認めるが、それを目の前で笑いながら言われる事に耐えられるほど人間は出来ていない。
 やや、口調を強めて言い返す。
「しかし、端から疑いを持って人と接する事などできません。疑心は人の心を侵します。いずれは、自分以外のものがすべて敵であると考えるようになってしまうかもしれません」
 セリア姫は、クスクスと笑声を漏らす。
「王という生き物は誰も信用しないものです。イニアス様はどのように思っていらっしゃるか存じませんが、私が王国中でどのように話されているかご存知でしょう? 私はね、誰も信じてはならないのですよ」
 俺はすぐ思い当たるものが浮かぶ。
 官・民、問わず国民たちの間でもまことしやかに囁かれる『噂』……あくまで噂だが。
 セリア姫は病弱で、王位継承には心もとない女性である。事情知らぬ人々はそのように思っている。
 さらに、男子を求めようにも王の奥方はすでに亡くなっている。そのため、王宮の大臣や大貴族の統領は新しい妾や妃をと、王に薦めるのだが……無論、王は彼らの魂胆を見抜いている。
 王はセリア姫に王位を継がせることを公言しており、王位継承者のセリア姫が死なない限り、決して妾をとることはないと断言された。
 さらに王の意志だけではない。
 ハイアット王家には、『心を分かち、愛を誓う関係を持つ者以外、決してハイアットの血を殖やしてはならない』と、家訓がある。この家訓は絶対で、歴代の王の中で破ったものは誰もいない。
 王が不用意に女性に手をつける事を戒めているのである。
 それでも、「王家の血が耐えるのは、ハイアット存亡の危機」と、強硬に王を説き伏せる者は多い。
 問題はここからだ……王に己の息が掛かった妾を取らせるために、セリア姫を暗殺しようとする動きがあるというのだ。
「あれは、根も葉もない噂です! 実際そのように思う輩はおりません」
 俺は力強く、断定の口調で噂を否定する。 
 真実の程は知らないが、セリア姫を不安にさせるわけにはいかない。それに事が進行しているのであれば、ヴェルナー師匠が何らかの手を講じているはずだ。
 俺の配慮はまったく無意味であった。
 セリア姫は片手を口に添えて軽やかな笑い声を上げる。聞く者が聞けば、女性らしい笑顔だと思うだろうが。俺には耳障りな奇声にしか聞こえなかった。
「私を忌まわしい血から解き放ってくれるのであれば構いませんけれど。私には毒も魔法も剣も効きませんから……叶わぬ夢ですね」
 この言葉に俺は憤りを感じ得ずに入られなかった。
「なんて事を仰る! セリア姫はハイアット王国の王姫となられるのですよ。貴女の死を悲しむ人が大勢いるのです。陛下も、幼少の姫を知るヴェルナー師匠も。騎士たちの中には日々貴女の生活を案じておられる方だっているのです! 御自分の命をもっと大切にして……」
「何も知らないあなたが、知ったような口をきかないでッ!」
 俺の言葉を吹き飛ばす大喝に、口をつぐんでしまう。ギラリと光る眼差しを前にして俺は畏竦んでしまう。
「あなたの言う人々が何故悲しむか分かりますか? 王の後継が死ぬからです。私が死ぬから悲しいのではない、王が死に、国が消え、自分たちの存在が脅かされるから悲しむのです……わかりますか!?」
 激しい問いかけに俺は微動だにできない。俺の表情は泣きそうなくらい強張っているかもしれない。
「お父様も王国のしきたりを守らなくてはならない以上、私の存在には頭を痛めている様子。国民に私の秘密が流れぬように徹底しております。それはそうでしょうね、私が死ねば新しい世継ぎを一から育て直さなくてはならないのですから……外面だけでもまともに育った者を捨てるのは勿体無い」
 セリア姫は目蓋を閉じて片端の唇だけを持ち上げる。気味が悪い、喉の奥で笑う自虐的な笑みを漏らす。
「人を喰らう私が存在していられる理由は、『王』になる者であるから。その一点のみ。お父様もヴェルナー様も、その他大勢の民も考える事はそれだけです」
 俺は黙ってその言葉に耳を傾けていた。
 陛下がセリア姫を大切にするのは本当にそんな理由しかないのか。家族愛といったものは欠片もないのだろうか。
 でも、陛下への感情を察するに、セリア姫は陛下を愛しているのだろう。だから同じ分だけ愛して欲しい。そんな感情を俺は読み取っていた。そうでなければこんな事を告白するものか。
 セリア姫の口の中で硬い何かが砕けるような異音が聞こえてきた。奥歯をかみ締める音が俺の耳にまで届いたのだ。
「セリア姫は……王ではない自分と接して欲しいのですか」
 ふと口をついて出た言葉。俺はセリア姫が言わんとしている事を先に口にする。
「……つまり、セリア姫は誰かに、傍に居て欲しいと思うのですね?」
 セリア姫の瞳孔がスッと細く縮む。
 遠回しながら、セリア姫の吐き出した不満の中に、俺は本当の言葉を見つけ出していた。
 セリア姫は苛立たしさを露にして、俺に向き直る。
「もしそうだとしたら、どうだと言うの?」
 俺の心臓が緊張のあまり跳ね上がるように脈打ち始めた。呼吸する事を忘れてしまわぬように大きく息を吸い込む。
「私を傍において下さい。あなたの話し相手でも、なんでも」
 胸に手の平を当てて言葉を吐き出した。たった一言、口を動かすだけなのに、俺は全身全霊を込めていた。
 セリア姫は口元を醜く歪めた。そして、決してお淑やかとは言えない様子で笑いはじめた。
「あなたに度胸があることは認めます。でも、私はやめておきなさい。騎士の名を上げるためだけに猛獣の心を掴もうとするのは愚かな事です」
「違いますよッ! 私はそんなつもりで言ったのではありません!」
 俺の強引な口調がセリア姫に届いたのか。彼女は僅かばかり眉を動かし、俺に興味を示した。
「ではどんなお考えでそんなことを?」
 セリア姫は赤い瞳を向けて俺を見据えていた。俺は浴びせられる気迫に喉を動かす。
「私は……、セリア姫の傍にいたいのです。愛しているとか確かな気持ちではありませんが、私はあなたの隣に居て欲しい人になりたい」
 言った。
 セリア姫に俺の想っている心をついに告げられた。口の中は痛いくらいに渇ききって喉が苦しかった。でも、どこか達成感を得られた感触に、俺の心は晴れ晴れとしていた。
 セリア姫は腕を組んで品定めでもするように下目を使う。
「そこまで口にする者は私の周りにいくらでもいたわ……言葉は飾れても心までは偽れない。私を欺瞞に満ちた言葉で騙そうとしても無駄です。……でも、あなたは私の姿を見ても逃げなかった。一応、信用できる言葉かもしれないわね」
 蔑むような瞳が閉じて柔らかな表情に戻った。セリア姫は見る者すべてを幸せにするような笑みを浮かべ、軽やかな口調で語りかけた。
「でも私は誓ったのです。誰も信用しない、信頼しない事をね。ですから……私に構わないでくださいな。うっかりすると食べてしまうかもしれないわ」
 俺は胸に突き立てられた言葉に何も言えなかった。セリア姫の拒絶の言葉が頭の中で割れ鐘のように響いている。
「何故、誰も信用しようとされないのですか……? 人は、独りでは生きられないのですよ」
 俺の真摯な訴えにも、セリア姫は心を開こうとはしなかった。他人行儀な振る舞いを崩さずに囁く。
「ご心配なく。私は人ではありません。私は、人とは違うのです」
 会話がなくなると、部屋の外で「お食事の用意が出来ました」と、声が掛けられた。セリア姫は俺と一度も視線を合わせなかった。一人静々と歩いていってしまう。俺は、黙ってセリア姫に付き従った。
 セリア姫は待っている。ずっと自分を理解してくれる人を待っているのだ。それならば、どうして他人を拒絶するのだ? 俺はセリア姫を理解できるとはいえないが、歩み寄る事はできるはず……
 俺の力が、言葉が、心が、足りないのか。まだ伝わらないのか。それとも別の理由があるのか。
 歯痒さに、心が焼けて頭が苛立ちから沸騰する感覚に見舞われた。目が熱い……少しは落ち着かなければ。
 何度も深呼吸をして気持ちを整える。やがて、使用人に連れられて広い部屋に通された。

覇王姫 第二章

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