第七章

「なんだ、これは……」
 俺は目の前を埋め尽くす惨状に目を奪われていた。
 霧に包まれた岩肌に血の海が生まれ、いまだ死肉から染み出す血液が流れを作っている。おびただしい大蜥蜴の死体が打ち捨てられていた。
 血の滑りに剣を汚したくなくて宙に浮かぶ。
 どの死体も原型がない。傷はすべて裂傷、それも大きな爪によるものだ。振り下ろす一撃で頑強な鱗を断ち、肉を叩き潰している。
「死体は洞窟に続いていますね」
 セリア姫の視線が霧の先に向けられる。
 ≪霧の山岳≫の中腹に、口を開ける巨大な穴。天然の洞窟から仄かな明かりが漏れている。近づくと露出した岩肌に、鈍く光る文字が彫られている。
 灯りを発する魔術文字を刻み付けたものらしいが……魔術を一瞬だけ具現化するのにも、大変な労力である人間の出来る業ではない。
 ハイアット王国の神話曰く、かつて≪古竜≫が傷を癒すために身を潜めていた場所なのだとか。
 洞穴の手前まで歩いてきて、セリア姫が険しい表情で耳をそばだてた。
「まだ、戦っているわ!」
 そう叫ぶなり、セリア姫は≪大蜥蜴≫の死体を飛び越えて走り出してしまう。呼び止める暇もない。姫の姿はせり出した洞窟の岩肌に隠れてしまった。
 俺も出遅れるわけにはいかない。魔力を放ち速度を上げると、その後ろを飛んでいく。
「お待ちください。転んだら、どうするんです」
 セリア姫は裾の長いドレス姿なのだ。普通なら全力疾走できるはずもなし、出来たとしても裾を絡ませて転倒するだろう。
 が、セリア姫の足は並の脚力ではない。常に隣に居られない歯がゆさはあるものの、心配は無用か。
 曲がりくねった洞穴は幅と高さ共に、とてつもない広さを持っていた。
 見上げる天井は遥かに遠く、見渡す壁は≪大蜥蜴≫が数匹寝そべることができる。書物で読んだ≪古竜≫は、小山程の大きさがあると描かれていたが、あながち誇張でもなさそうだ。延々と続く死体の山を越えながらそんな事を考える。
 洞窟が広がる。
 そう錯覚を覚えると共に、セリア姫の背中が目に入った。
「遅かったな、二人共。待ちくたびれたぞ」
 その声を聞いて初めて、セリア姫が見上げる巨獣の姿が俺の瞳に映し出された。聞くたびに畏敬の念を感じた声が、目の前の生物から発せられた。
 姿は違えど、その気配と声は、陛下のものに間違いなかった。
「何を驚いている……ハイアット国王が、≪古竜≫の姿である事がそんなに不思議な事か?」
 ≪大蜥蜴≫の死体にぐるりと囲まれる巨獣。≪古竜≫は、黒鱗に覆われた足を立てて寝かせていた巨体を起こす。
 姿は≪大蜥蜴≫と似ているが、四足歩行ではなく二足歩行の体型である。大きさは三倍近く。さらに全身を黒曜石の煌きをもつ鱗で守っている。
 牙の覗く口は細長くせり出しており、頭部に生え伸びた棘はたてがみの様に長い首を包んでいる。
 驚くべきはその背にある。
 巨体を余裕を持って包み込むほどの翼だ、広げれば城砦を丸々囲えるのではないかと思わせる。
 ≪古竜≫は居ると断言した陛下の言葉。あれは自らの事を指しての事だったのだ。つまり……討伐すべきは、陛下自身ということか。
 ≪古竜≫は首をもたげると尊大な口調で語りかけてきた。
「イニアス。まさか、本当にセリアを救ってやれるとは思わなかった。礼を言っておこう」
 この姿では臣下の礼などわかるまい。と言うことで僅かに剣の切っ先を振って俺は応えた。平静でいられたのはそこまでで、俺は≪古竜≫に食って掛かる。
「何故こんな事をなさる、陛下! 王の責務を捨てるには早すぎます。ハイアット王国を見捨てるおつもりですか!」
 ≪古竜≫は五指の揃った手の人差し指で、俺の左手を差す。
「王なら居るではないか。お前の隣にいる人はなんだ?」
 セリア姫は感情のこもらぬ声で、虚ろに呟く。
「私が、王に……」
 ≪古竜≫は当然と首を倒す。
「そうだ、セリア。これからはお前がハイアット王姫となり、人々を導くのだ」
 セリア姫は、陛下の言葉を聞いてずっと何かを考えているようであった。じっと一点を見据えていた視線を上げる。
「私が、王になどなりたくないと言ったら、どうしますかお父様」
 セリア姫の勇気を振り絞った言葉に、≪古竜≫は目蓋を軽く持ち上げてセリア姫を見る。そして両手を宙で泳がせた。
「別にどうもしない。お前の人生だ、好きに決めるがいい」
 俺とセリア姫は、同時に驚いて仰け反る。
 何が言いたいのか、と口をついて出るより先に、≪古竜≫が牙を見せるようにククッと、笑みをつくる。
「……私も四十年前に父を殺した日に同じ事をヴェルナーに訊ねた。ヴェルナーがなんと言ったか忘れたが、奴の言葉にはまったく耳を貸さなかった。が、我が最愛の妻に……お前の母に言われた言葉に考えをまとめた」
 ――あなたが王になれば、あなたを殺したいと思う者は万に増えるでしょうね。
 ≪古竜≫は、一語一句、刻み付けるように言葉を紡ぐ。
「お前や私も含めて、ハイアット王族で、≪古竜≫の血が流れている事を呪わなかった者は居ないだろう。この国に生まれ、≪古竜≫の血を受け継ぎし者たちは皆己の死を願ったに違いない。私やセリアだけではなく、いままでハイアット王家を継いできた者たちすべてが、我らと似たような悲劇と苦痛をもって王位を受け継いできたのだからな」
 そこで、≪古竜≫は言葉を止めて、あらぬ方角を見つめる。
「私は人間の女から生まれ出てきたが姿は龍であった。女、我が母はそのときに見た光景……竜の姿をして生まれた私を見て狂い死にした。我が父はさして≪古龍≫の血を引いていたわけでもない凡庸な男であった。私の姿を見て切り殺そうと剣を振りかざしていた。それが私が生まれしときの最初の記憶だ」
 言葉の端から滲み出る陛下の感情。己に向けられた怒りの感情だ。
 ≪古竜≫として生まれたとしたら。自分はその他すべての生き物とは異なる生き物であったのなら。誰も自分を受け入れてくれないだろう。異質なものとして排除するだろう。俺がその立場だったのなら気が狂ってしまうかもしれない。
「私は魔術を学び、人の姿を偽り王となったが、体を流れる獰猛な≪古竜≫の血まで人間に代わるわけではない。≪古竜≫の持て余す力が、破壊を解き放とうといつも私を揺さぶっていた。だから、私は待っていた。セリア、お前のように待っていたのだ……私と全力で戦い、殺すことが出来る者が現れる事を!」
 ≪古竜≫は声を高らかに拳を掲げて握り固めていた。
「だから。セリアよ。お前が魔力を糧とするため母を食い殺したとき、私は喜びのあまり笑い出しそうになった。わが最愛の妻を食い殺したお前を恨むよりも、≪古龍≫の力を解き放ち暴れ狂うお前の姿に狂喜していたのだ!」
 ≪古竜≫は翼を開き、両手を広げる。
 巨体を周回する魔術文字が嵐のように渦巻く。急激に高められた魔力に呼応して、突風が吹き荒れる。≪古竜≫が右手を高く掲げると魔術が発動した。
「私の願いだ、セリア。私と戦え」
 たった一列の魔術文字を構成するのさえ人間には大変な事だと言うのに、魔術文字を幾重にも重ねて球体を作り上げるなんて……本物の化け物だ。
 天地を裂く雷光が世界を呑みこむ。稲妻は十字に広がると閃光を解き放つ。
洞穴の天井を粉々に打ち崩した破壊力は、突き抜けて青い空に浮かぶ雲海を消滅させた。
「戦わぬというのならばお前が死ぬだけだ。そして、お前の傍にいる剣も砕く」
 ≪古竜≫は次なる魔術の構成を始めた。本当に闘う気だ。父と娘で殺しあうと言うのか。
「そんな……ことはッ」
 セリア姫の瞳に敵意の光が灯る。≪古竜≫は重々しく首肯してから、ややあって言葉をつくった。
「身勝手な事だとは承知している……だが、お前しかいないのだ。≪古竜≫を倒す力を秘めた者は――」
 ≪古竜≫は勇ましく吼えると空へ昇る。セリア姫は辛い表情のまま、それを追って崖を駆ける。
「セリア姫ッ」
 両者の姿はすぐに岩に隠れて見えなくなってしまったが、腹に響く衝撃音が伝わってきた。戦いが始まったのだ。
「俺は役に立てないのか……」
 ひねくれ気味にぼやいてみるが、二人の戦いに俺が割って入るのは無茶だ。わかっている。分かっているが、じっとしていられない。
 俺はいったん洞窟を出て、岩場を迂回しながら戦いの音がする方向へと飛ぶ。外へ出ると轟音と爆発する光が見えた。
 強大な魔力がぶつかり合うと、これほどの光が生ずるのかと思い知る。滞空する≪古竜≫に向かって突撃する一条の光が見えた。
 セリア姫だ。
 空が飛べないため一撃にすべての力を込めて飛びかかっている。だが、≪古竜≫は展開した一つ目の魔術で防壁をつくり、同時に構成した二つの魔術で攻撃する。
 爆発と炎が膨れ上がる。
 黒煙を突き破って、直撃を受けたセリア姫がこちらに落ちてくる。岩に叩きつけられ、跳ね上げられた体が転がる。埃まみれのドレスはあちこちに裂け目が出来ていて、隙間から見える白い肌からは血が出ている。
「セリア姫」
 掛ける言葉が見つからず、俺は彼女の名を呼んだ。傷だらけのセリア姫に触れるように剣の体を寄せる。
 熱でよれてしまった白金の髪を顔から払ってあげる。苦しそうに息をする姿を見て、俺は瞳を閉じたセリア姫に囁く。
「……私はお父様を楽にして差し上げたいと思っています」
 セリア姫の目蓋が開く。
 紅い瞳は優しい色をしていた。強い光を宿した眼は、ほんの少し悲しそうで、決意を秘めていた。
「私はあなたと出会えてこの先を生きる目的を持てた。お父様は死ぬための目的を持って……私をここまで育て上げた。イニアスを探すように、私の心を理解できる者を育てるようにヴェルナーに命じたのもお父様なんでしょう。ですから、今の私があるのはイニアスのおかげでもありますけど。お父様のおかげでもあるのです」
 右手をだらりと下げて歩いていく。歩いているとはいえない……辛うじて動く足を引きずっているのだから。
「これがお父様の選んだ最善の策とは思いませんが、叶えてあげたいとは思うのです」
 俺は死地へ歩く背中を呼び止める。
「殺してしまう以外の方法は、ありえないのですか?」
 セリア姫は少しだけ顎を下げてうな垂れる。悩むというよりは言葉を捜しているようであった。
「お父様が死にたくないと思う心がなければ……どんな言葉を掛けても無駄でしょう? かつての私のように」
 細い背中が振り返る。すべての怪我が治癒して、つやを戻した金色の髪がサッと翻った。
「それに魂喰いの体は残っている。あなたを襲う事はなくなったけれど、次に餌食なるのはハイアットの人々かもしれない。王族の命は王族の命で繋ぐべきではないかしら?」
 そこまでいうのであれば……
 俺は我が身をセリア姫の右手に滑り込ませた。
「あなた一人にその罪を負わせるのは心苦しい。我が剣の体で持って、戦いを挑んでください」
 セリア姫は柄を握り締める。
「ありがとう、イニアス。では、私も自分の力をすべて発揮して……戦うとしましょう」 セリア姫は両手を水平に伸ばして、蒼天を仰ぐ。
 ほっそりとした指先から細かな光が溢れてくる。光の礫は細かな文字であった。文字は列を組んで形を作る。両腕を螺旋に囲う文字は、金色の腕と爪となった。
 背中に浮き出た肩甲骨の辺りから黄金の翼が生える。羽の一枚一枚まで魔術文字で構成された力を秘めた翼だ。
 全身から眩い光を放つセリア姫に、俺は一匹の≪古竜≫の姿を見た。気高い心を持った深紅色の瞳。金色の鱗を纏うしなやかな体。雄々しい翼の帳に、長い尾。
 幻を見たのは瞬きの間だけだ。セリア姫は大地を蹴ると、空高く舞い上がった。
 太陽を背に上昇。天に上り詰めたセリア姫は、一気に滑空して≪古竜≫へ体当たりを仕掛けた。
 衝撃の瞬間に輝く、二条の太刀筋。
 それらの攻撃は≪古竜≫の魔術文字を粉々に砕いた。三つの魔術防壁を突き崩された≪古竜≫は弾かれて岩壁にぶつかる。
 凄い……魔術の構成を同時に三つ行っている。俺の体に流れ込んでくる魔力の渦が剣の威力を増しているのだ。決定打ではないが、これで互角だ。
 双方一歩も退かない魔術の攻防が繰り広げられる。一部の隙が死を招くと知っている両者は、魔術の『溜め』を必要としない『速射』と『連射』を多用する。
 黒と金の翼が烈風を巻き起こし、炎の槍が無数に飛び交う。巨大な氷塊が雨のように注ぐ中を、二匹の≪古竜≫は幾度となく交差する。
 超絶の戦いを見ながら、俺は気づいてしまった。
 セリア姫には力がある。ただし、戦闘に活かす経験がない。それに≪古竜≫の体に攻撃を当てるためには、防壁を滅する強力な一撃が必要なのだ。
 魔術の構成を始めた。俺の精神力を剣に集中させて魔力を収束させる。剣の刃に一列の文字がたくさん生まれる。列は繋がって、たちまち長剣を魔術文字で埋め尽くした。
 俺の姿はすっかり姿を変える。魔術文字で作り上げた形は、騎兵槍(ランス)。大きさは≪古竜≫の爪くらいはある。
「セリア姫ッ、使ってください!」
「はいッ」
 俺は魔術を解き放ち、セリア姫は勢いをつけて≪古竜≫へ突撃していく。
 セリア姫は、まっすぐに≪古竜≫の胸板に目掛けて突き進む。≪古竜≫は右腕に魔術防壁を集中させて、防御に専念する。
 衝突の刹那。
 騎兵槍は太陽の如く光を放射した。光に視界を焼かれながら戦いの行方を見届ける。≪古竜≫の突き出した右腕の魔術防壁が蒸発するのが見えた。
 騎兵槍(ランス)は徐々に形を失いながら≪古竜≫腕を削り取っていく。そして、胸板に到達した切っ先が爆散する。
 交叉した≪古竜≫とセリア姫。両者はゆっくりと向きを変える。≪古竜≫の胸元から光の穴が穿たれている。その光が空気の中に溶けていく。≪古竜≫の体を構成する魔力が崩壊しているのだ。
 ≪古竜≫が満ち足りた口調で言葉をつむぐ。
「感謝する……セリア、イニアス。これで、ようやく……私は救われる。猛る≪古竜≫の心を抑える日々は終わる……」
 ≪古竜≫は体から抜け出た白い煙のような光と共に姿を失っていく。光はセリア姫の下へ集まっていく。
「さらばだ」
 それを最後に≪古竜≫は完全に姿を失った。
 セリア姫を守る黄金の爪と翼が、ゆっくりと、その不思議な光を取り込んでいく。あれは≪古竜≫の魂だろうか。セリア姫はあの翼さえあれば、魂を得るため肉を食べずに済むらしい。
「お父様……どうか、安らかに」
 セリア姫は一筋の涙を流す。≪古竜≫と陛下への手向けの涙は吹き荒れた風に舞う。輝ける涙は朝日の中に消えていった。

覇王姫 七章

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