頬を撫ぜる風に俺は生きている事を知った。途端に視界が開けた。意識を持つと同時に飛び込んできた世界に眩さを感じる。
横たわっているらしく、白い空が見えた。夜が明けようとしていた。森の空気が体を取り巻き、底冷えする寒さだけが不快だ。
こんな姿となっても寒さを感じるとは。間違いなく、痛みや熱さも感じるのであろう。
俺は体を起き上がらせる。視界の隅に抜け殻となったイニアス・オブシディアンが横たわっていた。昔の俺の体だ。
「イニアス……?」
いつの間にか俺の敬称は外されていた。俺はその呼ばれ方に十分に満足しているから、訂正しようとは思わない。
背後からの訊ねる声に俺は振り向く。振り返るというよりは、垂直の姿勢のまま横に軸回転したといった方がいい。
……俺は剣の姿となったのだから。
「はい……セリア姫。魔術は成功です」
おれはが地震を持って告げると、セリア姫は安堵の表情を浮かべる。
「この姿であれば、セリア姫の傍にいてもなんら問題はありません。セリア姫の心配も解決し、私の希望も叶えられる。かなり危険な賭けとなってしまいましたが、結果がすべてでしょう」
俺はくるくると体を振って飛び回る。宙に浮かぶには若干魔力を消費するが、人間の体を失った俺は、以前のように体の負担を気にする必要はない。柄で地面に立ち、跳ねるように移動するくらいなら魔法を使う必要もなかった。
セリア姫から与えられた魔力が俺の中に漲っているからだ。
「あなたは初めからその姿になるつもりだったのですか?」
俺を拾い上げる指先は、何かの感触を確かめるように剣の上を滑っていく。俺はセリア姫の温かさがとても愛おしく感じる。だが、セリア姫の指には鋼鉄は冷たさが伝わるだけだろう。
「いいえ。セリア姫の理解を得られれば、人としてお傍に仕えていたかったのですが……。ヴェルナー師匠はそれは無理だと、知っていたからでしょうか。この≪移魂≫の魔術を教えてくださったのです」
セリア姫の紅玉の瞳に翳が差す。俺は本当に伝えたかった言葉を最後に添える。
「セリア姫は≪古竜≫の血を強く受け継いでいると聞かされました。もしかすると、百年、千年の時を生きるかもしれないとも聞かされました。ですから……私はこの姿になれたことを嬉しく思っているんですよ。セリア姫と生きる時が長くなったのですから」
「私は、喜ぶべき事なのでしょうね。私は信じられる人を得た。私と共に生きてくれる人も得た。二つのものを同時に与えられるなんて……私の生きてきた時間の中で最高に幸せな事かも知れません」
セリア姫は目を細めて、やわらかく桃色の唇を緩めた。
「ありがとう、イニアス。私を助けてくれて……」
時が止まる、とはこのことか。
空を流れる雲も、風に乗る葉も、すべて停止しているかのようであった。すべての中心にセリア姫の微笑みがある。
そういえば忘れそうになっていたが、俺はセリア姫の心を溶かす事が任務ではなかった。≪古竜≫退治だ。
セリア姫は何か≪古竜≫について知っているのだろうか。俺は≪古竜≫が実在するのかも知らない。セリア姫は何かを知っているのかと思い訊ねてみると、「私は同伴した騎士を食べてよい、としか言われていないのです」と返した。
陛下……やっぱり、俺は食料だったのですか……
暗澹たる気持ちで国王に恨みの言葉を唱えてみる。そのとき。空気中を奔りぬけた緊張に注意深く周囲を見渡した。
彼方から、大地が割れんばかりの咆哮が轟いた。無数の葉が舞い落ちて、視界の端を降り注ぐ。
「こいつは……ッ!?」
ただの吼え声じゃない。魔力の波動を感じる。これは、魔術の力が込められてる。セリア姫は俺を抱きながら巨木の根に手をついた。
「この雄叫びは、≪大蜥蜴≫のものではありませんね」
もっと巨大で、雄々しい生き物だ。思い当たる生物はたった一つしか居ない。本当に、≪古竜≫なのか。伝説の存在ではなかったのか。
しだいに、激震が収まっていく。
森の先を睨みながら、セリア姫は言う。
「声は≪霧の山岳≫からですね」
「本当に≪古竜≫が……しかし、それほどの巨大な生物に気がつかないはずが」
≪古竜≫だって生き物だ、狩りくらいするだろう。その姿を森の奥地まで踏み込んだ猟師がたまたま目撃する事ぐらいあるだろう。少なくとも、≪大蜥蜴≫を越す巨大な生き物がいる痕跡が見つかっているはずだ。
なんにせよ。≪霧の山岳≫へ向かう必要が出てきたようだ。
陛下の密命は≪古竜≫の討伐。あの声は本当に≪古竜≫なのか確かめなくてはならない。また、ハイアット王国に危険な生物であるならば、同じく倒す必要がある。
「いきましょう、セリア姫」
「ええ」
セリア姫は素顔を見せる。一人ではないと分かってくれた証か、俺の傍らで、セリア姫はまた笑ってくれた。