序章

森を覆う梢からいっせいに鳥が飛び立った。
 静けさに満ちた樹海に甲高い笛の音が鳴りわたった。笛の音は湿った空気を伝わって葉を震わせる。瑞々しい葉脈に沿って雨露が滴り落ちた。
 私は手を休めて耳を澄ます。あれは採集隊の撤収の合図だ。
 猛獣か魔獣か。剣や弓矢で相手にできない獣に採集隊が襲われている。立てて続けに笛の音が響く。切羽詰っているようだった。
 ――急いで戻らないとね。
 私は集めていた《アスピア》を肩に担ぎやすいように紐でまとめる。《アスピア》は世界のあらゆる場所に生えている植物の〝楽器〟だ。綺麗な音色を出し、不思議な力を奏でることができる。人がこの世界で生きていくためには欠かせないものだ。
 ぃよっ、と気合を入れて《フルートの幼木》を背負い上げた。十数本の幼木はさすがに重たいけれど、私は体も鍛えていて背丈もある。大した苦にはならない。
 採集用の短刀を鞘に収めて周囲の様子を窺う。森はいつもと変わらない表情を見せている。むせ返るような土と草の臭い。鮮やかな蝶が茂みから飛び立ち、地面を覆いつくす大樹の根の間を小さな動物が潜り縫っていく。
 風が吹くたびに、ささらのようになった葉がウインドチャイムの煌びやかな音を鳴らす。応えるように、ハート型の葉が仄かに揺れてヴァイオリンに似た深みのある律を奏でる。風は渦を巻いて幹に穴の開いた大樹を駆け巡り、フルートとオーボエの音律が続く。最後に、樹木の上に房をつくる花々がホルンの賑やかな音で締めくくった。
 《アスピア》の森はいつも賑やかで、心地よい旋律で溢れかえっていた。
「いったい、何が出たのかしらね……」
 今日は猛獣に襲われる心配はないと思っていたから、予想が外れた事にいささか戸惑っていた。悔しいとも思う。私の勘が外れたことなんて、この数年の間は一度もなかったからだ。
 この周辺の《アスピア》の森は比較的安全な方だ。私の住むオラヴィの街から一日で往復できる範囲にあって、グレートキャットやウルフといった猛獣はいるけれど、人の手に負えない魔獣はいない。だから、警戒していればそれほど怖ろしいものでもない。
 森に響く音は途絶えない。耳に痛い角笛の音がビリビリと鼓膜を震わせる。
「はいはい……いま行くわよッ、と」
 私は両腕を水平にして構える。重みのある金属音が鳴った。指先から肘まで防護する金属製の手甲の擦れあう音だった。これは一見するとただの防具だけれど、私にとっては最高の武具になる。
 私は構えた腕をユラリと持ち上げて軽やかに指を躍らせた。すると、透き通るような旋律が手甲の中から零れでる。紋様の彫られた金属板から軽やかなピアノの音色が広がっていった。曲名は特になく、短い旋律の繰り返しだ。
 どこからともなく風がまとわりはじめる。私の短い黒髪を撫でていく旋風。その中に輪郭の薄い透明な少女の姿が浮かび上がる。
 風と大気のニンフ、〝シルフ〟。
 《アスピア》で奏でることができる最もポピュラーなニンフの一人だ。その性格は気紛れで惚れっぽい性格。一度気に入った人であればいちいち奏でる事がなくとも力を貸してくれる。
 私の体を軸にをくるくると舞うシルフは風に姿を隠す。彼女は消えてしまったわけではなく目に映らなくなっただけだ。彼女だけでは不安なので、もう一人ニンフを奏でる事にする。
 先ほどとは打って変って低い音階に指を落とす。滑り出した指は物悲しげな曲調をつくりだした。
 大気に広がっていく音が木々を覆う葉に沁みこんでいく。音に応えた無数の葉がヒラヒラと舞い落ちてくる。若草色の葉が視界を斑に覆うほどに降り注ぐ雨の中、いつの間に現れたのだろうか、木の葉の渦を割って一人の乙女が姿を見せる。
 葉と樹木のニンフ、〝ドライアド〟。
 ドライアドは自分の体に巻きついていたツタを解くと丸めて掌に収めた。柔らかく包んだ手に唇を近づけて、小さく息を吹き込んだ。すると掌からツタが生き物のように飛び出して私の足元に波を描いて這ってくる。
 蛇の嫌いな人ならば卒倒するかもしれないが、私はツタの為すがままに任せておいた。ツタは私の足に螺旋を描くと深緑色の葉を茂らせていく。私の両足に幾何学的な紋様を編み上げたツタは紅く色を染め上げる。
 ドライアドは自分の仕事は終わったというように姿を消した。
「よし……」
 軽くその場でジャンプすると、驚くほど体が持ち上がる。ドライアドの力が筋力を強化しているのだ。と同時に、私の体に倦怠感がのしかかってくる。ニンフを操る奏者は彼女たちに気力や体力を吸われていく。ニンフ達がこの私たちの住む世界で形を保つためには霊的な力が必要なのだ。
 軽く頭を振って気だるい感覚を追い払う。ニンフを奏でるのは五人くらいまでならなんとかなる。これくらいで音をあげてはいられない
 私はフッと息を吐くと力強く大地を蹴る。
 湿り気を含む腐葉土を蹴散らして私は高く跳びあがった。大樹の枝に両足を折り曲げて着地する。今度は加減をしない。両足のバネを思い切り伸ばして体を前へ押し出した。
 耳元で風が唸りをあげる。視界が光と緑の斑紋となって後ろへ流されていく。正面に張り出した枝に激突しないように、シルフの力を借りて直線の軌道を変化させる。光指す樹冠の合間を疾風となって駆け抜けていく。
 遠くの方で地響きが聞こえる。幹の爆ぜる音に重なって、怒号と悲鳴が聞こえてきた。
 誰かの発した絶叫に、私は低く唸り、緊張を高めた。
 私の護衛してきた子供たちの採集隊は無事だろうか。心臓が潰れるような不安に息苦しさを覚える。
 私のように《アスピア》を使う術は心得ているけれど、まだまだ未熟だし、それに幼い子供だ。目の前の脅威に怯えてしまって、竦んでいるかもしれない。
 そのとき。私の跳躍する真下を何者かが駆け抜けていくのが見えた。その数は瞬く間に十人を数える。
 あれは……子供たちだ。
 シルフを従えた子供たちは採集したアスピアを持てるだけ背負って逃げ出していた。私の教えたとおりの機敏な行動だ。
「エリンッ!」
 風となって走り抜けていく子供たちの後ろ。最後尾を走っていく少女を呼び止める。エリンと呼ばれた少女は声の主を探そうと足を止めて首を巡らせていた。私はそんな少女の真横に羽毛のように舞い落ちる。
 降って湧いた私にエリンは少し驚いたようだが、すぐに笑みを浮かべて瞳を緩めた。
「フィレスさん!」
 金色の輝く髪を揺らしてエリンは私の名を呼ぶ。少女の青い瞳には安堵の光が灯っていた。しかし、エリンの表情はくしゃりと崩れて泣き顔になってしまう。エリンは私の胸に縋りつき悲痛な声で叫ぶ。
「お兄ちゃんが! お兄ちゃんが一人で魔獣と戦っているの。はやくッ、行って上げてください!」
 エリンの指が私のシャツを引き裂きかねないくらいに引っ張る。引っ張られるくらい強く抱きついてくる。
「おっとっと……ちょっと、落ち着きなさい」
「だ、だって……」
 エリンの狂乱ぶりに驚きながら、私はエリンを抱きしめて背中を優しく撫でてやる。
 エリンは採集隊に参加するようになってからすでに四年もの月日がたつ。彼女の兄が隊長を勤め、その妹であるエリンが副長である。近辺にいる猛獣の類で取り乱すはずないのだけれど……。
 まさかとは思うけれど、バジリスクでも出たんじゃないだろうか。
 私はエリンを強く抱き寄せてから耳元で囁く。小さな肩が私の腕の中で小刻みに震えていた。
「いい。あなたは副隊長なのよ。いま子供たちを連れて行けるのはあなただけなの。心を落ち着かせて、すべての事に覚悟を決めるの……」
 出来るだけ優しい声色でゆっくりと言い聞かせる。
「あなたが最年長よ。子供たちを森の出口まで頼むわ。皆、待っているんだから」
「はぃ……」
 抱き寄せていたエリンを解放する。別れるついでに、戦いで邪魔になりそうな荷物をすべて預けた。フルートの幼木を背負いながら戦うのはさすがにしんどい。
「頼んだわよ」
 エリンは小さく頷いてから力強く走り出した。一度だけ振り返って心配そうな顔を見せたが、すぐに駆け出した。大樹の陰にエリンの姿が消える。
 一際大きく樹の砕け散る音が轟く。バキパキっと幹の折れる音とザザーッと大樹の傾ぐ音が森の梢を揺らす。まだ、戦いは終わっていない。
 私は一息で巨木の枝へと跳びあがる。
 ついで腰のベルトに付けていた背嚢から、金属と木材で組み合わされた武器を引き出す。片手で広げると、カッシャンと金属質な異音を発して『長弓』へと変形した。
 森の屋根を作る枝を足場に採集隊が荷車を置いていた場所へと急ぐ。私の目には樹木の間から見え隠れする巨大な生物の姿を捉えていた。筋肉の浮き出た赤銅色の体が見えたとき、その魔獣が何であるかを理解した。
 あれは、〝ビヒモス〟だ。
 頭に捻じれた角を持ち、体の大きさは大岩ほどもある巨大な生物だ。獰猛な肉食性で雪山の奥深くや未踏の密林に棲息している。私も一回しかお目にかかったことはない。こんなところに現れるはずのない魔獣だ。
 だだ、現実にビヒモスは目の前にいる。そんな事を考えている暇はなかった。
 私は矢筒から三本の矢を引き出して弓に番える。目の前で傾いでいく巨木を足場に戦場へ飛び込んでいった。
「シルフッ、肩を狙って!」
 私の呼ぶ声に薄手のローブを纏った少女が傍らに姿を見せる。その瞬間、まだ距離のあるビヒモスの体に向かって矢を放った。山形の軌道を描く矢は、生え延びている枝に当たって地面に落ちてしまいそうだ。
 しかし、矢の軌道は突然変わる。無数に生え伸びている枝を直角に曲がりながら避ける。そして威力は距離を伸ばしていくたびに上げ、矢を包む旋風は枝葉を千切り、時には樹皮を引き剥がして突き進んでいく。
 矢は狙い違わずビヒモスの肩口に刺さった。放った三本の矢はビヒモスの体と比べれば小さな棘くらい。しかし、威力はとてつもない。ビヒモスは苦痛の悲鳴を上げる。ビヒモスの巨体は木々をなぎ倒しながら転がっていった。
 私はビヒモスの暴れまわった場所に降り立つ。無数の樹木が倒されたせいで森の屋根が消えていた。太陽の日差しがこの場所にだけ降り注いでくる。
「遅かったじゃないか。危うく死ぬかと思ったぜ……ッ」
 たった今までビヒモスと死闘を演じていた青年が声を掛けてくる。言葉の割りに余裕のある息遣いで、疲れた様子など微塵もない。顔には笑みさえ浮かんでいた。
 青年の背後にはドライアドの姿があった。ニンフの力があってこそビヒモスと戦うことができるのだ。
 私は鼻を鳴らして応える。
「私がいなくても倒せていたんじゃないの? 血相変えて飛んできて損した」
 私が露骨に不満をぶつけてやると、青年は両の手にそれぞれ長剣を握ったまま肩をすくめる。青年が子供たちだけの採集隊、《カーヴァンクル》を率いる隊長であり、スラム街に住んでいる私の幼馴染でもある。
 名を、レヴィンと言う。
 私の長身を遥かに追い抜く背丈と、鍛えられた頑健な体はしなやかな筋肉が張っている。しかし、精悍な顔つきやほっそりとした体躯からそれほど男臭さは感じられない。美青年ほどではないものの採集隊の隊長という肩書きが似合う人相に見えない。
 エリンが必要以上に世話を焼きたがる気は分かる。
「……大人たちは、全滅みたいね」
 私は森の空気にたまっていた生臭さに顔をしかめる。
 足元には角笛を持ったままの右腕が転がっていた。周囲の倒木や木の幹には肉片がこびれつき、仰向けに転がっている肉塊からは臓物がはみ出ていた。流れ出たおびただしい血は辺り一面を真紅に染め上げている。
 レヴィンが率いてきた採集隊《カーヴァンクル》に、三隊の採集隊がくっついてきていた。それはレヴィンの隊についていけば生存率が上がるからである。さらに私が護衛につくことで生存率は格段に上昇する。
 私とレヴィンはオラヴィの採集隊の中では知れ渡っており、護衛としてついてきて欲しいという声はよく掛けられる。まぁ、今回は《カーヴァンクル》の採集活動に便乗する形で大人たちはついてきていたので、護衛の義務はなかったのだが……気分のいいものではない。
 憤怒の雄叫びが森をつんざく。大気を震わせる咆哮に森の葉が騒がしく揺れた。強襲に不意を突かれたビヒモスは瞳を真っ赤に燃えさせて、私を睨み据えていた。
「レヴィンが痛めつけたから怒ってるわよ」
 私の言葉にレヴィンは喉を鳴らして笑う。彼は逃げる準備のため、長剣はすでに鞘に収めていた。
「人のせいにして言い逃れすんな、お前もここに転がる事になるかもしれないんだぜ。早いところ逃げちまおう……何か変な感じだ」
 レヴィンの瞳が鋭さを増す。青い瞳が睨みつけているのは私が警戒しているものと同じかもしれない。
「やっぱり気づいているんだ」
 私はレヴィンのように隠れている気配を探るような勘は持っていない。ただ、ビヒモスの様子が尋常でない事に気がついていた。
 ビヒモスの肩にほんの一瞬だけ見えたニンフ。あれは、〝サキュバス〟だった。
 サキュバスは普通のニンフとは違って素直に命令を聞いてくれない。しかも、下手をすればサキュバスの勝手な行いで奏者が殺されてしまう事だってある。しかし、その力は悪意ある者にとって使い勝手のよいものだ。
 サキュバスは心を読んで惑わす力を持つ。人間を問わず、魔獣や猛獣を思うがままに操る事ができるのだ。
 ビヒモスは何者かに操られている。そして、糸を引く人間がこの近くに潜んでいるはずだ。レヴィンが感じているのは恐らくその気配。
「しょうがないわね。私がビヒモスを惹き付けるから、レヴィンは隠れている奴を見つけてよ」
「逃げるよりその方がいいか……と言いたいところだけどよ。お前が危険な役を引き受けるってのは――」
 レヴィンが言葉を言い終わるより先に地響きが迫ってきた。吼えるビヒモスが大きく腕を振りかぶる。私とレヴィンは申し合わせたように左右に飛び退いた。私たちの立っていた根が弾ける。細切れになった木片が散って視界を流れていった。
 けん制に矢を数本、ビヒモスに速射する。
 距離が近すぎたせいでシルフの力はほとんど掛かっていない。そのため筋肉のよろいに阻まれて矢は弾かれてしまう。威力のない攻撃だがビヒモスの目が私を追う。怒気を孕んだ瞳と視線がぶつかり、低く唸る声が聞こえてきた。これで標的は完全に私となった。
 私はウインク一つレヴィンに送る。彼は何かやりきれない表情を見せながらも従ってくれた。レヴィンの姿は森の茂みに溶け込んでいく。
 木々を揺さぶる勇ましい叫び声に私は耳を押さえる。
 もうビヒモスは私だけしか見えていない。突き出た岩も、倒木も、何もかもを払いのけながら私に向かってまっしぐらに突き進んできた。ビヒモスの進路を誘導すべく、私は森の深みへと走り出す。
 樹木の幹を蹴って三角跳びの要領で空を翔る。軽業師のように森の木立の中に身を躍らせた。宙返りをしてビヒモスが追ってきているかを確かめる。大丈夫。レヴィンの方には見向きもしない。
「よしよし……ちゃんと付いてきなよ」
 大木の根が波のようにうねっている場所だけを選びながら誘い込む。いちいち確認しなくとも体が向かう方向に手頃な枝が生え伸びている。もちろん都合よく枝が生えているわけない。一目見て、記憶した枝や葉の位置、樹木の立ち位置をイメージするのだ。
 幹を蹴る音が軽快に響き、一息遅れてビヒモスの一撃が轟く。私が足場にする樹木が一息遅れて粉砕された。
 付かず離れず、届きそうで届かない。ビヒモスにとって歯痒い距離を保ちながら追いかけっこが続く。
 時折、ビヒモスは激しく転倒して大地に体を打ち付けていた。この魔獣は獲物を追うときに二足歩行になる。だから安定性が悪いのだ。
 苛立ちの頂点に達したのか。
 ビヒモスは私の何倍もあるような岩を拾い上げると力任せに放り投げてきた。背筋にヒヤリとしたモノが伝い落ちる。風を使って体の進む方向を無理やり捻じ曲げる。
 風の唸る音が耳元で聞こえた。目と鼻の先を岩塊が通り過ぎていく。私は短く口笛を吹く。森に似つかわしくない轟音がこだまして、大岩は森に破壊の傷跡を残しながら転がっていった。
 振り返って見ると、ビヒモスは少しだけ走る速度が落ちてきている。
 操られていてもビヒモスの体力や精神に変わりない。走り回れば息も上がるし筋肉も痛む。しかし、操るものの性格はよほど悪いらしい。ビヒモスは追跡をやめない。そのせいで牙の間からは泡を吹いており、目の焦点が合わなくなっている。あのままではいずれ死んでしまうに違いない。
 そのとき。
 私の目が一瞬だけ不自然な色に気がついた。樹冠に見え隠れする一点だけの純白。嫌な胸騒ぎを覚えて首を巡らせた。私の瞳がソレを見極める。
 森を誰かが歩いている。私が逃げている進路上をゆったりと散歩でもするように、少女が気ままに歩みを進めていた。
 どうしてこんなところに人が歩いているのか……ッ!
 まったくの誤算。このままでは巻き込んでしまう。私は風を操って地上に降りる。そのまま少女の所まで一気に滑空する。
 少女が気がついたのは一般人の聴力としては普通だったのだろう。
 しかし、気づいたときには、私は彼女の目の前に走り寄っていたし、ビヒモスは急に速度を上げて私のすぐ真後ろにまで迫ってきているのを感じていた。
 私は少女を抱きすくめると大きく左手に飛び退いた。遅れて、ゴウッと風が吹き荒れて、朽ちた倒木に豪腕が振り下ろされた。苔に覆われた木片が舞い上がり視界を流れていく。ビヒモスは地面を抉るように乱打を繰り返す。掘り返された大量の湿った土が降りそそぐ。
 私は傍の大木に回り込んで気配を殺す。このままビヒモスが諦めてくれれば良いのだけれどね。
 そんな事を考えながら、抱えている少女を地面に下ろした。少女が足を動かすと、鈴を鳴らすような音が小さく聞こえた。
「だいじょうぶ? ……怪我は、ないわよね?」
 私が少女に尋ねると、彼女は小さく顎を動かした。菫色の大きな瞳が瞬いていた。
 このおっとりとした雰囲気のある少女が一人旅とは、とても想像が難しかった。近くに護衛や付き人がいる様子はないが、貴族の令嬢と言われても大商人の一人娘と言われても、一も二もなく納得できる容姿と佇まいである。
 そして、少女の格好を改めて見直して、ひどい眩暈を感じた。
 足に絡む裾の長いスカートは沢山のフリルで飾られている。スカート同様にヒラヒラの上半身は肩口から二の腕までバッサリと切れ込みが入り、リボンで飾られた袖からはほっそりとした掌が見えている。まるで踊り子のドレスだ。
 腰の辺りまで伸ばされている髪は亜麻色で、横髪は左右共に綺麗に編んで垂らし、後ろの髪は毛先のほうで水晶の髪飾りでまとめている。なんとも可愛らしい姿で頭痛がしてきた。
 どうしてこんな格好で森の中を歩いているのだろう。
 こんな所を歩いているのだから旅でもしているのかもしれないけれど、頭を捻ってしまう服装だ。
 頭からつま先までジッと観察していると、少女が不意に口を開いた。
「ねぇねぇ、お姉さん。ビヒモスを追い払うのを手伝おうか?」
 私は咄嗟に言葉が出なかった。
 小さな唇から飛び出した言葉は、『失礼』と言えるくらい遠慮のないものだったからだ。初対面の人間に対して馴れ馴れしい奴だ。しかも『お姉さん』とは……まるで私が年上のように聞こえるじゃないか。
 私はある語彙を強調しながら口を尖らせる。
「私は『お姉さん』じゃないわ、フィレスよ。だいたい、手ぶらでビヒモスを戦えるわけないでしょう。引っ込んでいなさい」
 不機嫌さもあいまってピシャリと言い返す。これで落ち込んで話しかけてこないものと思っていたら、少女は邪気のない笑みを向けてくる。
「フィレス、僕は武器を持っていないけどビヒモスを止める事くらいわけないよ」
 少女は立ち位置を変えずに軸足を使って一回転する。踊り子が舞台の前で礼をする仕草に似た優雅な動作。それに合わせて透き通るような旋律が聞こえてきた。その音色は少女の着ている衣服から流れていた。
「その服は……、《アスピア》の……?」
 私の言いたい事を汲んで少女はニコッと笑みを零す。彼女が口にするからにはビヒモスを撃退する事ができるのだろう。どのみち私にはビヒモスから逃げる事しかできないのだ。
 私は数秒で納得すると見上げてくる円らな瞳に問いかけた。
「ほんとうに大丈夫なの? 出来るっていうのなら……私が囮を引き受けるけど」
 少女は胸を張って答える。
「まかせて、ほんの少しだけ注意を向けてくれれば僕が何とかする」
 終始微笑んでいた顔が真剣みを帯びたものに変わった。可愛らしい顔を見せるかと思えばひどく大人びた表情を見せる。初対面で名前もわからない相手であるはずなのに、私は少女を信頼してみようと、彼女になら命を任せてもいいような気分に囚われていた。
「ダメかな?」
 しかし、次の瞬間には少女の顔になっている。声色を萎ませた声といい、上目遣いの眼差しといい、おねだり上手な奴だ。
 私は魅惑的な顔を振り切って小さく声を返す。
「……いいえ、お願い。頼むわね」
 小さく手を振って少女に別れを告げると、私は大木の陰から飛び出した。
 ビヒモスは姿を見せた獲物を前に歓喜の声を上げ、腕を振り上げて猛然と迫ってきた。
「シルフ!」
 何をしろッ、と叫んでいる暇はなかった。それでもシルフに意思は伝わる。
 私は迫り来るビヒモスを前に一歩も退かず、矢筒の中身をすべて打ち放つ勢いで矢を放ち始めた。
 早射ちにそれほど威力は望めないが、山なりを描く矢の連射にシルフの力が宿っていく。失速しそうになる矢はふたたび鏃をもたげて飛翔する。
 矢は数本逸れてしまい、枝の葉を千切りとっただけに過ぎなかった。それでも無数の矢がビヒモスの正面に浴びせられる。
 ビヒモスは右腕を大きく振りぬいて、飛来する矢をすべて打ち払った。シルフの力が宿る矢程度では足止めにもならない。私は作戦を変更する事にした。弓を折りたたみ背嚢に押し込む。緊張から肺から息を搾り出す。
 集中して、神経を尖らせながら私は魔獣の次の行動を迎えうつ。ビヒモスは私に覆いかぶさるように左腕の一撃を真上から振り下ろす。巨大な爪の動きを見据えて、私は巨体を左から回りこみ腕の届く範囲から逃れる。
 逃がすまいとビヒモスは両腕を滅茶苦茶に振り回す。私はシルフを連れて巨腕の生みだす暴風の中を私は走り抜ける。
 言葉はなくても私の思念が伝わったシルフは姿を風に戻す。シルフは私の体を軸に、木の葉や土を舞い上げるくらい強い風を作り上げた。ビヒモスの懐に潜り込んだ時、風は完全な球状に形を整えていた。
「……ッ、せーのッ!」
 私は胸元を抱きしめるように体を丸めて、気合と共に四肢を大きく広げた。景色がユラリと歪み、私の意志を汲み取ったシルフが力を最大限に解き放つ。
 風が吼えて、森の溢れる緑を慄かせた。私の体から放射状に広がった突風が周囲のあらゆるものを吹き飛ばす。
 ビヒモスは凄まじい風の猛威を受けて、高々と宙に上げられる。驚きの吼え声が遠のいていき、すぐに真上から降り注いできた。空中を二回転ほどしたビヒモスは背中から木の根に叩きつけられる。
 私は時間稼ぎを終えて少女の傍らに舞い降りる。豊かな重奏は聞こえていたが、いったいどうやって演奏しているのか。目だけで彼女を探した。
 私は彼女を見て驚愕した。
 少女は踊っていた。瞳を閉じて、軽やかな足捌きで体を回し、しなやかな腕を伸ばして指先で漂う文字を撫ぜていた。少女は楽器を持っていない。それなのに、少女は二つのヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、の音が幻想的な旋律を奏でていた。
 私は少女の一挙一動を食い入るように見つめた。
 腕の振るわれる軌跡をリボンの帯がなぞる。足が交差するたびに、真っ白な飾り布が舞いに合わせて揺れ動く。スカートが風に舞い上がり、鈍い輝きを放つ文字が浮かび上がる。
 奏でられたのはドライアドと三人のシルフ。ドライアドを中心にシルフたちが飛び回り、ドライアドの纏う花弁を散らせていく。
 ニンフを同時に四人奏でることはそれほど難しいものではない。だが、四つの楽器を同時に扱い四人のシルフを同時に奏でるという技術。そんなものははじめて見た。
 風に乗った花弁は起き上がろうとするビヒモスを柔らかに包み込む。巨獣は花弁を煩わしそうに腕で払っていたが、次第に動きが鈍くなり、ドウッと倒れ伏した。すべてが終わり、静寂を取り戻した森の中には盛大な寝息が聞こえていた。
 少女は舞い終えると、シルフを一人残して奏でたニンフたちを解放した。平然とした様子からニンフを数人連れる事くらい造作も無い事なのかもしれない。大した精神力だ。
 こちらへ歩いてくる何者かの足音が聞こえてきた。顔だけそちらへ向けると、レヴィンが剣を携えたままこちらへやってくる。
「そっちも終わったらしいな」
 どことなく憮然とした表情から察するに、敵に出遭えなかったか一杯喰わされたらしい。戦士としても凄腕であるレヴィンを煙に巻く相手とは……やっぱり私がビヒモスの相手をして正解だった。
「怪しい奴は見つけたの?」
 レヴィンは苛立たしげに両手を振り上げる。
「気配を追いかけていったんだが……上手く逃げられちまった。後姿も見てないから本当にあの場所にいたのかもわからないぜ。凄腕の楽士だったら奏でたニンフで幻影をつくるくらい簡単だろうしな」
 私はチラリと少女の方を見やる。私とレヴィン以外でこの森にいた見知らぬ存在は彼女だけだ。それに楽士でもある。合致する特徴はたくさんあった。
 少女は私の目線に気がつくと、朗らかな笑みを浮かべて首を傾ぐ。演技とも思えない自然な仕草だ。
 疑いの目を向けるにはちと早すぎる……か。
 だが、レヴィンは私の傍らに立つ少女に対してすでに疑惑の視線を投げかけていた。私は慌ててレヴィンと少女の間に立つ。レヴィンにだけ聞こえる声で囁く。
「ピンチの私を助けてくれたのよ、悪い人間じゃない。私が保証するって」
 私の説明にレヴィンは警戒心を緩めようとはしない。それでも私に合わせるように口を開く。
「……そっか。わかった」
 レヴィンは少女への興味を薄れさせて私たちから距離を置く。傍の苔むした倒木に腰を下ろす。後は勝手にしろということだろう。
 少女は自分の存在について悪く思われていることに気がついていないのか、小声で言葉を交わしていた私たちに話しかけてくる。
「実は道に迷っちゃって。この辺りに街があるなら連れて行ってほしいんだけど、お願いできる?」
 この森は北東にそびえる山脈へ続く広大な樹海の一部だ。私たちがいるところは森の浅い場所。奥地まで入り込むと一週間くらいは掛かる。道に迷うのも不思議ではない。
「別に構わないわよ。まぁ、この辺りは森の入り口に近いから案内するほどでもないけどね」
 この森にもう用事はない。私は少女を招いて踵を返す。少し離れた場所で自前のフルートを弄っていたレヴィンもスッと腰を上げる。
「それじゃあ、行くとするか。森の入り口でエリンたちも待たせているからな」
 森の出口へと向かおうと足を踏み出すと私の後ろで素っ頓狂な悲鳴が聞こえた。私とレヴィンは揃って背後を振り返る。
「ゴメン、忘れていたよ。僕の名前はラビス。よろしくね」
 確かに、私は少女に名前を訊ねていなかった。釣られて私が改めて名乗り、レヴィンがぶっきらぼうに倣った。ラビスと言う少女は満足そうに笑って、私たちと並んで歩きはじめる。
 レヴィンに語る相手を移したラビスは先を歩いていく。レヴィンは見知らぬ可愛らしい少女の相手に少しばかり戸惑っているようだ。
 離れた位置でレヴィンの困り顔を堪能していて、ふと気づいた。気づかされたといった方がいいのか。
 私は寝息をたてているビヒモスを見やる。なんだってこんな浅い森にビヒモスなんて魔獣が現れる? 
 それは、ビヒモスを操っていた人物がいるから。でも、ここからが繋がらない。何故、ビヒモスを連れていたのか? どこへ向かうところであったのか?
 私は言い知れぬ不安を感じて背筋を震わせた。勘が冴えるというのは嫌な特技だ。危険があることはわかっているのに、実際に目の前に現れなければ何が危険なのかわからないのだから。
 やれやれ、とため息をついてから二人の後ろを追いかけていく。また、不安の種が一つ増えることになった。悩みのない人生というのも一日だけでいいから過ごしてみたいものね。

Sound of Soul -奏でるものたちへの賛歌- 序章

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