第七章

私は叫んでいた。こんな理不尽な事をすぐに受け入れることなどできるはずがなかった。
「ラーラ! いったいどういう事なのッ、説明してよッ!」
  《月夜に踊る小鹿》亭の薄暗い裏口。私とラーラは裏通りに面した戸口で向かいあっている。私はラーラの肩を揺さぶりたい衝動に耐える。対してラーラは申し訳なさそうに目を伏せる。よく見れば細い指はドレスの裾を握り締めていた。
「悪いと思ってるわ……でも、ゴメンなさいね。旦那様からの命令だから、こればっかりはどうしようもないのよ……。しばらくはあたしの店で仕事をさせるわけにはいかないの」
  ラーラはいつもの軽口を潜めて小さく頭を垂れる。
  いったいぜんたいどういうわけか。私はオラヴィ市街で楽士としての仕事ができなくなっていた。それも、顔なじみのすべての店でだ。しかも、たった一日の間で手を回された。
  私に恨みを持つ奴がやったのだ。それくらいはわかる。でも、何故なのかがわからない。
  私は腕は立つが、所詮それだけの楽士だ。恨みを買うにしても大掛かりな仕返しができるような相手に喧嘩を売った覚えはない。恨みを覚えるにしても楽士同士のはず。もちろん、楽士のほとんどは金持ちではないし、商人の娘や息子の楽士もいるが、こんな大掛かりな仕返しをするような者に出会った覚えがない。
  一日でオラヴィ市街の店に手を回すのにどれくらいの金が注がれているのかは見当がつかない。すると、私の敵は搾られてくる。
  私の仕事を潰した相手は間違いなくオラヴィに住む一握りの大商人だ。おそらくオラヴィ市民議会にすら発言権を持つほどの大金持ちのはずだ。
「気を落とさないで、あたしからも旦那様にいろいろと伺ってみるから。大丈夫になったらすぐにまた呼ぶわ。だから……今日はコレだけ持って言ってちょうだい」
  ラーラは私の手を取ると小さな袋を握らせる。中身は、かなりの数の銀貨が収まっている。私がいつも手渡してもらっている銀貨の倍はある。
「働いていないのに、これは貰えないわよ」
  喉から手が出るのを我慢して、やんわりと手の平で袋を押し返す。すると、ラーラはおどけた仕草で頭を振る。摘んで持つ袋を振って銀貨を鳴らした。
「んっん~、なに勘違いしているの? これは貸しよ。利息もつけて返しなさい……、そうね。体で返してくれてもいいわよ」
  とんだ友人もいたものだ。
  尻を撫でようとするラーラの手をピシャリと払いつつ、電光石火の早業で銀貨の袋を奪い取る。
「謹んでお断り。金銭で返済するわ」
「あらら、つれないわね。っていつもの事かしら」
  ラーラは口元を隠して忍び笑いを漏らす。しかし、一転して悲しげに瞳を伏せる。
「でも、フィレス。この嫌がらせは明らかにオラヴィの大商人が関わってる。もうオラヴィの街でアーティストになるのは絶望的よ」
「そうね、もう、オラヴィから出るしかないのかしら……」
  オラヴィの大商人の力は絶大だ。当然、アーティストへ昇格する査定にも一枚噛んでくる。オラヴィの街でどうにかアーティストへ推薦してくれる人を見つけても邪魔されてしまうだろう。
「街から出るくらいの貯えはあるの?」
  ラーラに訊ねられて、私は力無く肩をすくめた。
「……ぜんぜん。かき集めればティファート金貨で二十枚くらいならあるとは思うけど、とても引っ越す事なんてできないわ。それに引越しなんてしたくない」
  オラヴィの街を離れたいと思う事は時々あった。しかし、他の街で住居を確保するにはまとまった金がいる。それに、レヴィンやスラムの子供たちと離れ離れになるのも嫌だった。幼い頃から変わらずに続けてきた生活をすべて捨ててしまうことに激しい抵抗と罪悪感があるからだ。
「オラヴィから出るとき言ってちょうだい。見送りにくらいは行ってあげる。でもまぁ、いまは……私の方がオラヴィから逃げだしたい気分ね」
  ラーラの頭上を仰いで倒れこむように壁に寄りかかる。私もラーラの隣で空を見上げた。二人で空を眺めて細かな星の輝きを見つめる。
「……ヴァルデマル帝国軍に攻められたらお店どころじゃないものね。ラーラの旦那様はどうするつもりなの?」
「戦うみたいよ。対岸の砦にもずいぶんとお金をつぎ込んでいたみたいだし、まったく、お屋敷の外も庭もむさくるしい傭兵だらけでイライラしそう……ッ」
  ラーラは苛立ちのあまり息を弾ませる。汗臭い粗野の男たちが何より大嫌いなラーラには大変な環境だろう。屋敷でのラーラの様子を想像すると自然と笑い出しそうになる。
「楽士の傭兵でも雇えばいいのに。楽士の傭兵ならラーラ好みの可愛い娘もいるんじゃないの?」
  私はからかい半分にラーラに話を振ってやる。ラーラは不満そうに唸り、踵の高い靴を踏み鳴らした。
「ん~、そのほうがあたしも嬉しいけどねぇ。オラヴィの市民議会で決まったのか知らないけど、楽士の傭兵はすべて対岸の砦へ送らないといけないらしいのよぅ。オラヴィの街に被害を出さないために、対岸の砦でヴァルデマル帝国軍を撃退したいのね」
「へぇ? それは知らなかったわ」
  ただの傭兵だけでなく楽士の傭兵も対岸の砦へ回してしまうのか。もし、楽士の傭兵イルシェの言う通りに単独でオラヴィ市街へ潜入してくるのであれば、手薄の商人の屋敷や工房は壊滅的な打撃を受けてしまう。
  オラヴィが戦場になればたくさんの人が死ぬ。弱いものが死んでいく。身を守る力のない人たちが真っ先に死んでしまう。
  私はふと不安駆られてラーラを見やる。
「オラヴィの街が戦場になったら、ラーラはどうするの? 楽器は使えないのよね……?」
  孤児だったラーラは、娼婦を育てる教育係に拾われてオラヴィの街の高級娼婦館に身を置いていた。単純な修行は五歳から、本格的な修行は十歳の頃から手解きを受けて、仕事を始めたのが十二歳。そして、ちょうど十五歳の頃、旦那になっている商人の妾になったらしい。
  ラーラは高級娼婦としての教育を受けていた。多種多様な遊戯に通じているし、話題も豊富で飽きさせない、様々な趣味を持った客をそれぞれ楽しませる事に長けている。けれど、身を守る力は何一つ持っていない。
  私の考えている事がわかったのか。ラーラは小さく笑う。人差し指で私の額を小突いた。
「フィレスぅ~、力を持つだけが強いわけじゃあないのよ? 楽器が使えなくても剣が使えなくても、あたしは生きていく術があるの。だいたい、人の心配していられるほど余裕ないでしょ?」
「……ふぅ、そうかもね」
  まったくもってその通りだ。しかし、そんな正論をあっさりと受け入れるのは癪に障る。皮肉をたっぷり込めて言い返しておく。
「はいはい。私が悪ぅございましたよ、ラーラさん! 私は明日の職にも困ってますよ」
「んっん~、わかればよろしい」
  ラーラは偉そうに胸をそらす。
「それにね。フィレスが心配しているような事にはならないと思うわ。オラヴィの街に火を放って、すべてを焼き払ってしまうような事はないと思うの」
  私は「どうして?」と訊ねる代わりに疑問の眼差しを送る。ラーラは指を絡めて思案顔でこちらを見やる。
「占領されたトゥルッカやロートラウトは、ヴァルデマル帝国から多額の税を徴収されているらしいわ。ヴァルデマル帝国は各地で戦争中だから、オラヴィの街の占領も戦費調達のためではないかしらね?」
  なるほど。トゥルッカとロートラウトが陥落しておかしいと思う事があった。街が完膚なきまで破壊されていたら、難民がオラヴィの街にやってくるはずだ。しかし、難民が入ってきたなんて事はない。陥落した都市国家は人々が生活できるくらいの損害だったということ。
「下手に抵抗しない方が被害は少ないかもしれないのね……」
  商人たちの作戦は二重に練られている。基本はオラヴィの街に被害を出さずヴァルデマル帝国軍を撃退する。次に敗北した時にもオラヴィの街には被害がないようにする事も考えて、対岸の砦に戦力を集中させているのかもしれない。
「わからないけれどねぇ、あたしは、戦うよりも降伏したほうがいいと思ってるわ」
  ラーラは薄く紅の塗った唇を指先でなぞり、笑みをつくる。私は首をすくめて見せる。ラーラはかしずく事に慣れすぎていると思うけれど、まぁ、それは言わないでおく。
  ラーラの言うことはもっともだと思う。でも、オラヴィを含めた都市国家を束ねる商人たちは自由を求めて王国や帝国から独立した者たちだ。商売を邪魔する侵略者に対して諸手を上げて降参する選択などありえない。
  長々と話しすぎてしまった。仕事が無いのなら早いところ家に帰ろう。ラビスが待っている。
「じゃあ、私は帰るわ。……気をつけてね、ラーラ。オラヴィの街も物騒だから」
「市街は大丈夫よ。衛兵だらけだもの」
  ラーラが店の裏口から手を振っているのを見届けてから、私は背を向けて歩き出した。
  とりあえず、明日からは採集隊の護衛でも始めなくてはならない。と言っても、アスピアの取引額は下落の一途を辿っているので、ソウル・アスピアの採集に向かう長期的な護衛を務めなければならないかもしれない。
  スラムにある酒場や宿場で楽士の仕事を探してもいいけれど……顔見知りの店でないと昨晩のような面倒に巻き込まれるかもしれない。傭兵たちのほとんどは対岸の砦に回されたようだが、オラヴィを守る傭兵もたくさんいるのだ。スラムやオラヴィ旧市街の店は物騒な客で溢れかえっている。
  閃くような考えが生まれないまま、《月夜に踊る小鹿》亭の入り口まで戻ってくる。
  そこへ、待ち構えていたように声を掛けられた。
「こんばんは、来ると思っていたよ」
  私は、その男の声を聞いた瞬間に、昨日の夜の出来事をすっかり思い出していた。
  私に声を掛けてきたライナスと言う男。ライナスはおそらく実力のある大商人である事。私を専属楽士に雇おうとしていた事。
  すべてが一点に結びつき理解したとき、私の頭は煮えたぎるような怒りの感情で染まっていた。
  こいつが、私の仕事を潰したのか――ッ!
  私は奥歯が痛むほどに噛みしめた。ライナスの姿を見つけると、刺し貫くように睨みつけながら、突進していった。
  ライナスの胸元を掴みあげて街灯の柱に圧しつけた。ライナスは僅かに眉を潜めて痛みに呻く。
「あんたが……ッ!」
  わななく唇のせいで他に言葉が続かなかった。怒りのあまりライナスを締め上げようとする力だけが強くなっていく。
  ライナスは薄く笑って私の背後に視線を移す。
「放してくれないかな? 衛兵に見つかれば市民暴行罪で一晩は牢に放り込まれると思うぞ。私が一声掛ければオラヴィの街から追放することもできる」
「……こ、のぉ……ッ!」
  大商人であるライナスと楽士の私には厳然たる壁がある。どのような屈辱や差別を受けても手が出せない。それだけの力にライナスは守られている。
  私は激情を抑えて、くやし涙を必死に堪える。理性を駆使して震える指先を引き剥がすと、ライナスから一歩だけ後ろに下がる。ライナスは乱れた服装を正すと威圧的な口調で訊ねてきた。
「君を専属楽士として雇いたい。昨日とは少しは考えが変わったかな?」
  私はぜったいに屈服などしない。ライナスを睨み据えて構える。少なくとも心だけは。
「私の働いていた店に手を回したのはあんたなのね……ッ!」
「その通りだ。私は欲しいものは必ず手に入れる性格だからね。手段は選ばないよ。どうするね?」
  答えなど決まっている。答えなど、決められてしまっている――。それでも私は覇気のない声色で答える。
「ッ、断る……」
「いずれはオラヴィの街にはいられなくなると思うが、構わないかな?」
  ライナスは私を社会的に殺そうとしている。仕事を辞めさせる、人との関係を絶つ、楽士としての資格を剥奪する、言われぬ噂がつきまとい、最後には罪人に仕立て上げるだろう。
  ライナスに敵対しながらオラヴィにいる限り見えている未来だ。ライナスに跪いて、助けて下さいと、許して下さいと、泣きながら懇願する事になるのだ。大商人を敵に回すという事はそういうことだ。
  オラヴィのスラムに音楽院をつくりたい夢。スラムの子供たちを助けたい夢。アーティストであった母さんを越える夢。私の夢見る未来はすべてオラヴィの中でだけ輝いている。
  オラヴィの街を捨てて、私は生きていくことなどできない。
  苦渋の思いに下唇を噛む。この言葉だけは口にしないと思っていた。微かな恥辱を感じながら、震える唇を開く。
「わ、かったわよ……、あんたの専属楽士に、なる……」
  ライナスの唇が喜悦に歪むのをしかと見た。笑みを見られるのを避けるためか、ライナスは手を当てて軽く咳払いをする。
  しかし、笑み崩れているのは隠しようがない。私に向けられている眼差しも勝利者のものになっている。
「さすがに賢明だね。ふっふっふ、今日は気分がいい。アーティスト級の楽器の冴えと、羨むような美しさ、それでいて頭も良い、……そんな専属楽士を手に入れたのだから。高い買い物だったが、君にはそれだけの価値があるよ」
  ライナスは懐に手を差し入れると小さな袋を取り出してきた。小さな袋を投げて寄越すのを受け取る。中身は、なんと……ティファート金貨が入っていた。
  これだけの金貨があればスラムの子供たちを一ヶ月は楽な生活をさせてやれる。
  たまげている私を無視して、ライナスはスラスラと今後の事を説明していく。
「明日の午後に私の屋敷に来てくれ。住所は昨日の名刺に書いてある。当たり前の事だが、住み込みで働いてもらう事になる。手に持てる程度の私物は持ってきて構わない。その金は身辺整理のために使ってくれ」
  ライナスは用件をすべて述べると、あっさりと背を向けてしまった。
「あ、ちょ……っと……?」
  引き止める間もなく待たせていた馬車に乗り込んでいく。馬車の扉が閉められると、ゴトゴトと車輪を回してライナスの乗った馬車はオラヴィ市街の奥へと消えていってしまう。
  首を傾げてしまう。これだけの力を使ってお気に入りの専属楽士を囲い込んだのに淡々としすぎていないだろうか。すぐさま屋敷に連れ帰るくらいの事はあると思っていただけに拍子抜けしていた。
  何か妙な違和感を覚えた。ライナスの威圧的な言動と行動に不自然な所があるような……そう、思ったのだ。だが、私は専属楽士に雇われたという衝撃的な現実に引き戻される。
  もはや、私のすべては私のものではなくなったのだ。
  ライナスに感じた違和感など、霧に隠される景色の如く、ぼんやりと忘却に帰してしまっていた。

  我が家に帰り着いても私は心ここにあらずといった有様だった。習慣で体が覚えた事を自然にこなしていくので、帰り道の用心も怠らずに安全帰り着くことができた。いまも後ろ手で扉の鍵を閉めている。
  私はフラフラと扉に寄りかかる。背中を預けながら床に座りこんでしまう。
  私の夢は潰えた。あっけない終焉。そして、無数にありふれた不幸な結末。
「は、は……あっは……っはっはっはっは……ッ!」
  笑いだした。すると、目頭が熱くなった。
「……ぅぅぅ、ぁぁぁぁ……ちく、しょう……ちくしょう……!」
  目蓋を閉じても瞳からこぼれる涙。溢れ出てくる涙は頬を伝ってあごから垂れた。
  私の十数年は一体なんだったのだろう。
  楽器工房を開いていた父さんがスラムの盗人に殺された。父さんの工房のアーティストであった母さんは生活に困り専属楽士として商人の家に出入りするようになって、そんな母さんが死病に倒れて死んだ。……私が押し入り強盗たちに蹂躙されて……レヴィンが敵討ちに奔走してはじめて人を殺して……、私は楽器の使える才能を生かしてアーティストになろうと誓って、十歳の頃からがむしゃらに生き抜いてきた。
  楽士としての腕を磨き続けてきた数年間は専属楽士になるためなんかではない。専属楽士になって妾の争いごとに巻き込まれて死んだ母さんのようにはならないと決めていたのに……ッ。
  包み込むような温もりが触れてきた。私を抱き起こすと背中から抱きしめてくれた。うっすらと目を開けると組まれた指先が見えた。
「……抱きしめてもいいのかな?」
  ラビスは耳元でそっとささやく。私は振りほどこうともせず、されるがままに任せていた。気がつけば涙が止まっている。嗚咽だけは止まらないのでしばらく黙ったままラビスの温かさを服越しに感じていた。
  ずいぶんと長い時間、身じろぎもせずラビスに抱きしめてもらった。
  涙が枯れて頬がひりひりする。泣いてしわがれた喉を動かして背後のラビスへ語りかける。
「どうして、泣いてるの……とか……聞かないの?」
「僕が聞いてどうにかできるのなら、聞いてあげるけど。フィレスは強い人だから自分で解決して乗り越えたいんじゃないのかな?」
「別に。助けてもらえるものなら助けてもらいたいわね」
「どうすればフィレスを助けてあげられるのかな?」
  どこまでも無邪気なラビスにつきあって、適当にありそうもない条件をつらつらと並べていく。
「そうね、……途方もない大金持ちで、オラヴィの街の商人たちに顔が利いて、私の後押しをしてくれる心優しい人だったら、いいかもしれないわね」
  当然。ラビスは困った声色で唸り声を漏らす。
「う~ん、それは無理だなぁ~……」
「ふぅ、……言ってみただけよ」
  すっかり胸の動悸やしゃっくりも落ち着いて、私は平静さを取り戻してきた。やんわりとラビスの腕を外して立ち上がる。台所へ向かう。瓶に汲んでおいた水で顔を洗って今後の事を目まぐるしく考えはじめた。
  専属楽士になることは避けられないのだ。諦めてはいけない。常に最善を行動していく事が大切なのだ。
  私は顔を拭いながら部屋へ戻ると、ラビスを呼び寄せた。
「ラビス……話しておかないといけないことがあるんだけど、聞いてくれるかしら?」
「僕にとっても大切な事なんだよね」
「ええ」
  私はいままでの事の顛末を話して聞かせた。専属楽士に雇われたこと。明日からここは引き払わなければいけないこと。おそらく、ここに帰ってくることはないということ。
「どのみちここは戦場になると思うの。早くヴァルデマル帝国へ行きたいのなら、今日か明日にでもオラヴィの街を出たほうがいいわよ」
  ラビスは驚きも悲しみもなく神妙に話を聞いていた。しかし、私の忠告をすべて聞き終えてから、ラビスは責めるような口調で問いかけてきた。
「フィレスは前に子供たちを守りたいと言っていたよね、それはどうするの? ここにはレヴィンもフィレスもいないんだよ。子供たちを守る人が誰もいなくなってしまうよ」
  私は言葉に詰まってしまった。低く呻いて俯いてしまう。
「それは……ッ、わかってるけど!」
  他にしようがない。敵がどこから現れるかはわからないけれど、船で上陸してくると思う。街から脱出して森に隠れているようにとでも言い含めておくしかない。
  ラビスが決意を秘めた声で言った。
「僕が残るよ」
「なんですって……?」
  私は凝然としてラビスを見つめていた。
「ヴァルデマル帝国へ行くのはすぐでなくてもいいんだ。だから、スラムの子供たちやカーヴァンクルの子供たちを守るのは僕にやらせてもらえないかな?」
「死ぬかも……しれないのよ?」
  ラビスは腕を軽く振って流麗な音律を奏でた。袖の帯が風に巻かれて浮かび上がった。ラビスは柔らかな微笑みを浮かべて言った。
「友達だと思っているんだ。短い間しか知り合えなかったけれど、フィレスは僕の事を理解してくれたいるんだと僕は信じている。だから、僕はフィレスに精一杯の事をしてあげたいんだ。友達だから……」
「ラビス……」
  ラビスが残ってくれるのならば安心できる。きっと子供たちを守り抜いてくれるはずだ。ラビスは戦いにむくような性格ではない。こんな危険なことは頼めないと思っていただけに喜びも一入だった。
  私はラビスの腕を取って礼を言った。
「……ありがとう。じゃあ、お願いするわ。お願いします」
「うん……任されたよ」
  ラビスは私の手を握ったまま佇んでいたが、思い出したように声を弾けさせた。
「いけないッ」
「どうしたの――ッ!?」
  らしからぬラビスの悲痛な声に一気に緊張が高まる。
「実はエリンが大変な事に……。〝カーヴァンクル〟が森で魔獣と出遭ったみたいで、みんな施療院に集まっているんだ」
「なんですって!? エリンが怪我をしたの!?」
「うん……怪我のひどい子もいて……、エリンがうまく隊長を務められなかったからって落ち込んでいるんだ」
「それを早く言ってちょうだい……って言っても、落ち込んでいた私が行っても何にもならないか」
  ラビスは小首を傾げてこちらを窺う。
「もういつものフィレスになれたよね?」
  私だって他人の頼りにされる事が煩わしく感じるときはある。さっきのように心が折れてしまいそうな時にエリンに会わなくて良かったと思う。私だっていつでも頼れる姉さんでいられるわけじゃないのだから。
「もちろんよ! ラビスも来てちょうだい」
「わかったよ」
  ラビスを誘って家を飛び出す。家の戸締りをしてからエリンのいるであろうボブじいさんの施療院へ向かって走りはじめた。

  ボブ爺さんの施療院はスラム街にある。私の住んでいる旧市街の外れではなく、寄せ合わせの材料で作られた粗末な住居が立ち並ぶ一角に建っている。でも、施療院は立派な柱と壁で作られているため、周囲の住居と比べて立派な『家』に見える。
  傾きかけた扉を勢いよく開けて、施療院へと飛び込んでいく。
「皆――ッ!」
  中に入った瞬間。私はあまりの光景に絶句してしまった。酷いとは思っていたけれど私の予想を大きく上回っていたからだ。
  狭い室内で〝カーヴァンクル〟の子供たちは思い思いの場所に眠っていた。粗末なベッドに横になっている子もいる。ほとんどの子は眠っていたがたった一人だけ起きている子供がいた。私の姿を見て起きている子の瞳に明るい光が灯った。
「フィレスさん……」
  起きていた子はヨロヨロとおぼつかない足取りで歩み寄ってくる。私は起きていた子を抱きしめ、ついでに首を巡らせて皆の怪我の具合を見た。どの子供も小さな腕や足に巻かれた包帯に血が滲んでいる。痛々しい有様に胸が締め付けられるようだった。
  〝カーヴァンクル〟の子供たちを見て回った後にエリンがいないことに気がついた。嫌な予感がして恐る恐る抱いていた子に訊ねた。
「……エリンは、どうしたの?」
  私が抱いている子は浮かない顔のまま施療院の奥へ目を向ける。この奥はボブ爺さんの診察と治療を行なう部屋がある。まだ治療中なのかもしれない。その部屋への扉が軋んだ音を立てる。
  扉の奥から大人しそうな佇まいの少女が顔を覗かせた。
「リフィル――!」
  リフィルは小さな手桶を持っている。ボブ爺さんの治療の手伝いをしているらしい。
  体の弱いリフィルはあまり動き回ったりしない。椅子に座ってボブ爺さんの薬草の調合をしたり、写本を読んで勉強している事が多い。
「こんばんは、フィレスさん」
  私の心配をよそに、リフィルは会釈して微笑んでいる。本当に大丈夫なのか不安になってリフィルの様子をつぶさに観察する。
「起きていて大変じゃない? 体は平気なの?」
「はい。近頃はずいぶん調子がいいんですよ」
  リフィルはラビスと面識があるようで、ラビスへ小さく頭を下げる。
「さっきも色々手伝っていただいたのに……、ラビスさんもお見舞いありがとうございます」
「気にしないで。僕は付き添いだけだから、いいんだよ」
  ラビスとリフィルがどこで出会ったのか気になって聞いてみた。
「リフィルとどこで知り合ったの? ラビスってば橋で子供たちに音楽教えていたんじゃないの」
「それもしていたけれど、施療院のボブ爺さんがどんな事をしているのか気になったからさ」
  好奇心旺盛で良いことだ。ラビスは私が思っている以上にスラムに溶け込んできている。
  リフィルは奥への扉を開けて私たちを招き入れる。そして、心配そうな眼差しを向けている〝カーヴァンクル〟の子供たちに告げる。
「エリンはこちらです。ついてきてください……皆も、エリンは大丈夫だからゆっくり休んでちょうだい」
  子供たちは用意された椅子やベッドに大人しく戻っていく。私とラビスは子供たちがベッドに戻ったのを見てから扉を閉めた。
  リフィルが薬草棚を避けるように進んでいく。床に置かれている薬草をすりつぶす器具や他のわけのわからない道具を蹴り飛ばさないように注意する。
「エリンはどうなの?」
「命に別状はないですけれど、……一日や二日で治るような傷ではないんです」
「僕が会ったときは元気そうだったけど」
  リフィルは口に手の平を当てて含み笑いを漏らす。
「やせ我慢ですよ。ラビスさんは格好いいですから、弱いところを見せたくないんじゃあないでしょうか、うふふ」
  私は嫌な事を思い出してリフィルへ忍び寄る。ラビスへ聞こえないように耳元でそっとささやいた。
「……リフィルってばさ、ラビスが男だってすぐに気がついた?」
「もちろんですけど?」
  リフィルは不思議そうに瞳を瞬かせた。
「そ、そうなんだ……」
  エリン、リフィル、の姉妹は私なんかよりも勘が鋭いようだ。ラビスが男である事を見抜けなかった人は私とレヴィンの二人だけらしい。情けなさに加えて恥ずかしいことこの上ない。
  リフィルは人差し指を唇に当てると片目を閉じた。
「レヴィン兄さんはラビスさんが男性の方だと気づいていないようですけど、面白そうなので黙っておきました」
「それは素晴らしい判断だったと思うわ」
  私は親指をグッと立てると、応えてリフィルは口元にニヤリと笑う。まさに共同犯罪を楽しんでいる時の笑い方と言うやつだ。
  薬草の鼻に沁みるような臭いがする部屋を抜けて奥まった部屋へと入る。いつもリフィルが眠っているベッドがある部屋だ。
「おじいちゃんも寝ているので静かにしてくださいね」
  人が数人やっとは入れる小さな部屋にベッドが二つ。傍に椅子が置かれていて、ボブ爺さんが壁に寄りかかりながらコックリコックリと舟をこいでいた。
「おじいちゃん、レヴィン兄さんの見送りから帰ってきてすぐに〝カーヴァンクル〟の子たちにつきっきりで……それに、ここ数日は忙しくてあまり休んでいないんです」
  リフィルはボブ爺さんにずり落ちた毛布を掛けてやる。よほど疲れているようでちょっと揺すったくらいでは起きそうにない。
  エリンはボブ爺さんの座る椅子の横で眠っていた。
  私はベッドに横たわっているエリンへ近寄っていく。ベッドの端に静かに腰を下ろして寝顔を覗き込んだ。
  エリンは頭と左腕、右足、そして細い体にも真っ白い包帯が巻かれていた。指先には擦り傷が目立つ。顔に傷が無いのが唯一の救いかもしれない。
「頭の裂傷は四針ほど縫いましたけど大したことないんです。左腕は骨折していて……右足はヒビが入っています。肋骨は四本折れていて内臓に刺さらなかったのは奇跡です。……こんな状態で魔獣を追い払って、〝カーヴァンクル〟を率いながらオラヴィまで戻ってくるんですから。エリンは凄い子です……」
「そうね……本当に」
  私はエリンの髪を撫で付けながら、命懸けで〝カーヴァンクル〟を守り抜いた勇気を称えていた。〝カーヴァンクル〟をうまく率いる事ができなかったわけじゃない。他の誰かだったのなら全滅していたかもしれない。間違いなくエリンはレヴィンの妹だ。
  〝カーヴァンクル〟を傷つけた者はいったい誰なのか。ベッドを挟んだ向かい側に座っているラビスに訊ねた。
「ラビス。エリンから魔獣のことをくわしく聞いた?」
  ラビスはエリンやボブ爺さんの眠りを妨げないように小声で答える。
「多少は聞いたけど……リフィルの方が聞いているんじゃないのかな? 治療をしているときに」
「いえ……。ひどく興奮していたので、鎮静効果のある薬草茶で落ち着かせてから手当てしましたので。ラビスさんと聞いた話しか知りません」
  リフィルが首を振るのを見て、ラビスは心得たと頷く。
「それなら僕が話すね」
  ラビスは居住まいを正すと記憶の中に残っているエリンの言葉を反芻するように話し始めた。
「エリンは森の中で無数の魔獣に襲われたっていっていたんだ。昨日のビヒモスのこともあるから、五つの採集隊と組んで行動していたんだって」
「物凄く首が長い生き物。蛇の頭で身体つきは牛とかによく似ていて、丈は大きくて見上げるほどあったって言っていたよ。動きは遅かったから逃げるのは楽だったそうだけど。石になってしまう灰色の息を吐くって」
  私は市民図書館で見た様々な本を思い起こす。石化の力を持つ生物の話は錬金術師の記録書に記されていたはずだ。
「思い出した! ……カトブレパスね――ッ。何だってこんな場所に……、普通は草原や荒野にいる魔獣なのに」
  ラビスは納得したように首肯する。
「カトブレパスって言うんだ? そのカトブレパスの他に、〝楽器の森〟の大樹より太くて大きな芋虫も背後から襲い掛かってきたんだって。他の採集隊はあっという間に芋虫に食べられちゃったみたい」
  ふたたび、頭の辞書を賢明に探す。
「うぅん……、ハッキリとはわからないけど。たぶん、キャリオンクロウラーじゃないかしら。エリンたちは戦ったの?」
「違うよ。エリンに大怪我をさせたのは、二つの頭を持つ大きな犬なんだ。子供たちが網で捕まえて槍で倒したって……皆はその犬と戦って怪我したんだ」
  わかりやすい特徴だ。すぐに双頭犬の挿絵が思い浮かんだ。そして、嬉しいような気まずいような微妙な喜びが湧き上がってきた。
「ケルベロスね……。〝カーヴァンクル〟の子供たちもとんでもないわね。ケルベロスなんて、軍隊の一個中隊くらいなら蹴散らしてしまうわよ?」
「フィレスさんとレヴィン兄さんのおかげです。〝カーヴァンクル〟が生き残れる採集隊になれたのはお二人のおかげですよ」
  私は軽く頭を振る。〝カーヴァンクル〟を結成して生き残り方を教えたのはレヴィンで、子供たちに学問や音楽の教育をはじめたのは私。でも、教わった事を実践して吸収していったのは子供たちだ。
「私とレヴィンはきっかけみたいなものでしょ。〝カーヴァンクル〟が強いのは子供たちが逞しいからよ」
  ふと、リフィルは憂い顔に手を添える。
「でも……、どうして魔獣のような秘境の生物がオラヴィ近くの〝楽器の森〟に現れたんでしょう?」
  私は楽士傭兵イルシェの話をしようかと迷ったが、やめておいた。この話をするとラビスに疑いを掛ける事になるし当人もこの場にいる。
  開きかけた口を閉じて片手を宙で振る。
「それは……わからない。わかっているのは危険が迫っている事だけね」
  会話が絶えて沈黙が続く。
  ボブ爺さんのいびきとエリンの寝息だけが聞こえている。私は話し出すには良い頃合だと思って、専属楽士のことについて伝えることにした。
「リフィル。よく聞いて欲しいの。そして、皆にも明日になったら話してあげて」
  リフィルはキョトンとしていた。明日になったら皆に直接伝えてあげればいいのではありませんか、と瞳が語りかけてくる。私がいなくなってしまうことなど欠片も考えていない絶対的な信頼があった。
  途端にリフィルの心を傷つけたくないという感情が沸き起こる。
  でも、いまここで伝えておかなければリフィルの信頼を本当に裏切る事になってしまう。頼りにされているからこそ黙って消えてしまうような事は絶対にあってはならないのだ。私は、そう考えている。
  私は弱い感情を抑えつけて、勇気を振り絞った。
「明日。私は商人の専属楽士になる。だから、なかなか会えなくなるわ」
  リフィルは始め、何のことだかわからずにポカンとしていた。しだいに意味を理解できたのか血の気が引いていく。
「え……――。どう、し、て……――ッ!」
  悲鳴をあげそうになるリフィルを宥める。ここで叫ばれたら皆を起こしてしまう。
「聞いて。魔獣やヴァルデマル帝国が攻めてきたらラビスが守ってくれる。街に敵が入ってきたら地下水道へ逃げなさい。安全に街の外へ出られるはずよ」
「フィレスさんは、どうするんですか……?」
「私は……わからないわ。雇い主の商人が決める事だもの」
  もしかするとライナスの工房や屋敷を守るために戦わなければいけないかもしれない。そうなると、オラヴィの街から脱出できるのか。それよりも生き残る事ができるのか。難しいことになってくる。
「……いつ、帰ってくるんですか……?」
「それも、わからないわ……」
  俯いたリフィルの肩を叩く。
「でもね。覚えていて欲しいの。私の帰ってくる場所はここにしかないんだから」
  リフィルは嬉しそうに目を細めると、
「……はい!」
  元気よく応えてくれた。

Sound of Soul -奏でるものたちへの賛歌- 第七章

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