第五章

私の家の窓から明かりが漏れていた。ラビスは、まだここにいる。胸を撫で下ろしてから何かがおかしいことに気がついた。
  ランプの明かりが強すぎる。
  しかも、炎の影が室内でゆらめいているように見えるではないか。もしや、小火でも起こしているのでは……。
  不安に駆られて扉の所まで走る。だが、取っ手を掴んで思いとどまる。私は家の中に駆け込みたい衝動に耐えた。
  あれほどの炎が室内にあって、沸き立つような煙がないのは変だった。いったいラビスは部屋で何をしているのだろう。炎のニンフ、サラマンダーを奏でているのかもしれないけれど……。
  疑問を解消するためと言い訳しながら、私は屋根の上に飛ぶ。胸の端がズキリと痛む。下唇を噛みしめた。私はラビスを疑っているのだ。先ほどの傭兵の話などを真に受けてしまっている自分が情けなかった。
  ちょうど屋根の上には換気をするための窓がある。そこから中の様子を覗いてみよう。
  屋根の上で中腰になると、服を汚さないようにそろそろと窓まで歩いていく。埃で白く曇ったガラスを指先で擦る。中を覗き込んだ。
  そこには、驚くべき光景が広がっていた。
  鳥……、猛る炎の翼をもった灼熱の鳥が鎮座していた。時折、落ち着かなさそうに羽を広げて体を動かしている。ラビスは炎の鳥と向かい合って座っている。耳を澄ますと、話し声が聞こえてきた。
「いってぇ何してやがるんだ、ラビスよぅ? テメェはやることあんだろうが。あぁ? 」
  無頼者の使うような言葉遣いが部屋に聞こえている。少し苛立っているようで口調に棘がある。これはラビスの声ではなく、炎の鳥の発している言葉なんだろう。
「もう、せっかちなんだから」
  それにラビスが答える。私と話すときと変わらない、夢でも見ているかのようなやんわりとした口調。
「ねぇ、フェニックス。まだ森を出てから一ヶ月も経っていないんだよ? もっと世界を見て回ろうよ」
  炎の鳥は一変して鋭い口調で捲くし立てた。
「ざけんな! オレサマがテメェに力を貸してやってるのは、遊覧紀行するためじゃねーんだよ!」
  炎の翼が膨れ上がり轟々と渦巻き始める。口振りから感じられるように短気であまり思慮深さのある性格ではない。とても高貴な存在とは思いがたいのだけれど、普通のニンフとは違う力を持っている。
  ラビスは炎の翼の怒りにまったく動じた様子がない。飄々とした姿勢を崩さずに、にこやかな表情で受け答える。
「世界中の綺麗なものと美味しいものを探すことだよ」
「テ、メェ……」
  炎の鳥は言葉にならない唸り声を上げる。呆れてものもいえない。その言葉を当てはめるにふさわしい。
  炎の鳥はくちばしから迸るようなため息をゆっくりと吐き出す。糸のような火の筋は空気の中に解けていく。
「テメェはな、重大な仕事があるんだよ! オレサマを奏でたときからな! この世界を破壊してオレサマたち精霊の住みやすい世界を創りなおす仕事がよ!」
  世界を、破壊する……ッ。
  私は驚きのあまり体が反射的に跳ねてしまう。ガリッと足が屋根を削った。尻餅をつきかけた腰だけはどうにかバランスを保つ。思いのほか騒々しく感じた物音に全身を強張らせた。冷や汗が伝う。心臓が激しく脈動する。
  室内の会話は、ない。
  気づかれているのか、怪しまれているのか、たまたまラビスが答えないだけなのか。私は緊張のあまり何度も生唾を飲み込んでいた。
「……ッけ、もうすぐあの女が帰ってくるだろうからな。オレサマは消えておくぜぇ」
  炎の鳥は吐き捨てるように告げると、体をすぼめてたちまち姿を小さくする。掌ほどの火の玉となった炎の鳥は、ボッと松明が燃え尽きるような音を立てて姿を隠した。
  炎の鳥は私のことに気がついたのだろう。人に見られると困るていどには考えているのかもしれない。
  私は薄汚れた窓から離れる。シルフを操って夜風に舞い上がった。宙返りをして、少しだけ家から遠い場所に着地する。いましがた歩いて帰ってきたようにと思わせるつまらない工作だ。
  私はトボトボと歩きながら、いま見た光景を反芻していた。あれは、いったいなんだったのだろう。あの巨大な炎の鳥は。
  あの雰囲気や纏う気配は、ビヒモスやその他の魔獣といった類に似ていた。しかし、ニンフのような温かみのある力も感じ取っていた。
  ニンフと同様に、ラビスが奏でたものなんだろう。ラビスは普通の楽士とは何かが根本的に異なっている。演奏の仕方も、風俗的な観念も違うような気がするのだ。
  だから、あの炎の鳥は特別なもので、ラビスしか知らないニンフの一つのような気がする。少なくとも私は聞いたことがない。もちろん見たこともない。
  見知った景色が遠のいていくのを感じて足を止める。考えに耽りすぎていたせいで、我が家を通り過ぎる所だった。
  家の鍵を探す。鍵を回して扉を開けると、元気の良い声が飛びだしてきた。
「おかえり~!」
  罪悪感に心が苛まれ、ぎこちない声でラビスに応じた。
「あぁ、うん……ただいま」
  私の様子がおかしいことに気がついたのか。ラビスは瞳を開いて私の顔を覗き込んでくる。不思議そうに首を傾いだ。
「どうしたの? 元気ないよ……もしかして、風邪?」
  ラビスは額を合わせようと、おでこを寄せてくる。
「か、顔が近いって……ッ、そんなに心配しなくても、大丈夫だからッ」
  あわててその場を取り繕い、ラビスの肩を掴んで押し戻す。本人にその気は無いのだろうけど、迫られると恥ずかしくて顔が赤くなりそうだ。
  思う傍から顔が火照りだす。
「お、おおお腹、空いたでしょ? 何か作るから――ッ」
  上擦った声で叫ぶ。慌てて調理場に改造した部屋の奥へと逃げだした。忙しなく動かす膝が当たって、積み上げていた写本を崩してしまうが、構っていられない。
  台所に飛び込んだ私は、鬱屈した気分を吐きだした。
  さっさと夕食を作ろうと、壁に突き立てられていたナイフを一本引き抜いた。もう片方の手は天井から吊り下げられた袋の中へ。袋の中をまさぐって適当なジャガイモを掴み取る。
  ついでに燻製にした豚肉を持ってきて数枚切り取る。豚肉とジャガイモの油炒めにでもするとしよう。野菜が足りないので転がっている赤・黄のパプリカを刻み始める。
  私はポンと手を打つ。火も起こさなくては。かまどに火を入れるべく積んである薪を手に取る。自然と鼻唄を歌っていた。いつものように……でも、いつもと違う二人分の夕食を作るのは楽しくてたまらなかった。
  小一時間。
  楽器や工具、写本の山で埋め尽くされた部屋に、香ばしい匂いがたちこめていた。
「わぁ、おいしそうだね~」
  並べられた貧相な食事を、ラビスは歓声を上げて迎える。
「そんなに喜ばれると逆に恥ずかしいんだけどね……温かいうちに食べましょう」
「は~い」
  私が促すと、ラビスは待ちきれないと言うように席についた。私も続く。
  テーブルの上に載せられているのは、豚肉と玉葱のスープ、ジャガイモとパプリカの炒めもの、そして硬いパン。最後に安物のぶどう酒。来客用に少しだけ奮発した食事だ。
  私一人だけならスープとパンだけだ。
  私たちは口をきかず、しばらくの間は食器を動かすことに専念していた。
  ふいにラビスが口を開く。手に持ったフォークで私の手を指差した。
「ねぇ、フィレスの使っているその棒はなんなの? ナイフとフォークよりも便利そう」
「棒? ……ああ、これね」
  ラビスの言う棒、それは『箸』のことだった。
「私の国では、この『箸』で食事をするのよ。使ってみる」
  私の誘いに、ラビスはコクコクと忙しなく首を縦に振る。ラビスの仕草が微笑ましく自然と笑みが出てしまう。くすくすと笑いながらもう箸を持ってきて手渡した。
  ラビスは覚えるのが早く、見様見真似と簡単な使い方を聞いただけで持ち方だけは様になった。
  しかし、上手く使えているかと言うと、そうでもない。私の指先と自分の箸の持ち方を比べながらジャガイモと格闘している。
  ラビスの持つ箸から、ポロリとジャガイモが零れ落ちる。ラビスの口にはなかなかジャガイモが届かないようだ。
「うぅぅぅぅ、難しいよ……指が疲れてきちゃった」
  食事はほとんど終えて、私たちは安物のワインを二人して飲んでいた。すでに酔いが回りはじめ体が火照っていた。私はテーブルに肘を付いて、半泣きのラビスの様子を見ている。
「フィレスは大変じゃなかったの?」
  聞かれて、ずいぶんと昔の事を思いだす。
「そうね。私も苦労したわ。父さんは箸を生まれたときから使っていたみたいだけど、母さんは箸の使い方を覚えるのに大変だった、みたいな事を聞いたわね」
  ジャガイモを挟む事を断念したラビスは、箸に突き刺して食べ始める。もぐもぐと口を動かしながら訊ねてくる。
「フィレスのお母さんはこの辺りの人だったの?」
「……ヴァルデマル帝国の貴族だったそうね。あまり詳しい事は知らないけれど、アーティストになるために家を飛び出して……楽器職人だった父さんに出会ったんだって。それから、二人であちこち旅をして、苦難を乗り越えながら愛を深めていったとかなんとか」
  五歳になるかならないかの私に、惚気話を聞かせる母親はどうなのだろう。私は胸に抱きながら椅子に座る母と苦笑いをしている父の顔が過ぎる。
  この数年間、昔を振り返ったことなど皆無だったにもかかわらず、思い出は色褪せることなく脳裏に繰り返される。
「ロマンチックだねぇ」
  ラビスはしみじみと呟いていた。私は眉間を押さえつつ、喉にものを詰まらせたような笑い声も漏らす。
「ははッ、そうね、ロマンチックよね……っくっくっく」
  私も、ラビスに倣って呟いていた。
「ラビスは、両親の思い出とかないの?」
「あるよ。小さい頃の話はおばあちゃんからの又聞きだけど、覚えている事もあるんだ」
「へぇ? どんな?」
「父さんと母さんは二人で長い旅をしてね。吟遊詩人をしながら世界を巡り歩いていたんだ。その途中で、僕が生まれた。そこで、おばあちゃんが住んでいた村に、父さんと母さんは住むことにしたんだ。僕を育てるためにね」
「父さんはとても力持ちで、木々に渡された橋を直したり、雨漏りした屋根板を取り替えていたよ。いつも物静かであまり笑わないから怖かったけど、僕を背負ってくれるときはとても優しかったかな」
「母さんは心配性でね。いつも僕を傍においておかないと気が済まないんだ。僕が一人で外へ歩いていこうとすると、すぐに抱き上げて邪魔するんだ。僕が暴れると、ゆらゆらと僕を抱き上げた腕を揺らして、落ち着かせようとしていたっけ。母さんの腕の中が温かくて、すぐに眠ってしまうんだけど」
「そうだったの」
  ラビスは忙しなく口と手を動かしていた。懐かしさに喜びを露にしている。柔和な笑みを浮かべているラビスの瞳には、語られる過去の光景が映し出されているようで、私は自然と惹き込まれていた。
「僕が旅をしているのは、父さんと母さんに会うためなんだ。ヴァルデマル帝国に住んでいるって聞いているからね」
「え? もしかして、ヴァルデマルの首都に住んでいるの?」
「住所はエスメラルドって書いてあったから……そのはずだけど」
  ヴァルデマル帝国の首都、エスメラルドといえば高い城壁に守られた城塞都市として有名である。また、ソウル・アスピアの力を利用した技術によって雪と氷の大地でも住みやすい環境をつくっていると聞いたことがある。
「エスメラルドにはソウル・アスピアの商人とかヴァルデマル帝国軍人とか、一定以上の税を納めている人しか住むことができないみたいだけど、あなたのお父さんとかは商人……なわけないわよね?」
  ラビスはコクリと首を縦に揺らした。
「うん。父さんと母さんはヴァルデマル帝国でソウル・アスピアの技術を研究しているって聞いたよ」
「あなたの着ているソウル・アスピアの服も、あなたの両親が作ったものなの?」
「うん、そうだよ。僕だけしか持っていないんだ」
  私は首を傾げそうになった。ラビスの言葉にひっかかりを覚えて、返す言葉で訊ねた。
「だけ? って……あなた以外は誰も持っていないの?」
「……たぶん。もう、僕だけしか持っていないんじゃないのかなぁ」
  ラビスはどこかもの悲しげに瞳を伏せた。私はますます訳がわからなくなった。どういうことなのだろう。
  屋根の上で出会った楽士の傭兵。あの女はソウル・アスピアの服を着ていた。楽士の傭兵は重宝されるため、少しばかり報酬を多くもらえることがある。少々値が張ってもソウル・アスピアの服を買ったということがあるかもしれない。
  しかし、ラビスはソウル・アスピアの服を持つ者はいない、と言う。
  どちらかが嘘を言っている事に間違いない。嘘をつかなくてはならない理由があるに違いないけれど……まぁ、これ以上は考えていても仕方ない。
「しかし、あなたの両親も凄い楽器をつくったものね。扱いは難しそうだけど、私も使ってみたいもんだわ」
「フィレスはこの服を楽器だって言ってくれるんだねぇ……」
「どういうこと?」
  ラビスは食事を終えて、ワインに口をつけた。
「僕はフィレスに会う前にいくつか隊商に出会ったんだ。彼らはね、僕の着ている服を見て『何て素晴らしい武器なんだ、売ってくれ』と言ったんだ」
  青い瞳を翳らせてラビスは目蓋を伏せる。
「街にも少しだけ立ち寄ってみたけど、楽器は武器として造られて、売られて、使われていたよ。道端で演奏をしている人なんかいなかった。オラヴィの街にも楽器は武器のように扱われていたと思うんだ」
  使い手は限られているけれど、楽器は技術さえ見につければ無双の武器になる。私はニンフ達を従えていれば、ヴァルデマル帝国の一中隊くらいなら相手にできると思っている。思うだけでなくできると考えている。
  各国でも楽士だけで編成された部隊がある。傭兵の中でも楽士は大変重宝されているのは言うまでもないことだ。楽器は戦争になくてはならないものになっているのだ。
「私も楽器を武器として使う事があるけど?」
「僕はフィレスのことを楽器を武器としてしか使わない人だと思ってた。でもね、フィレスは子供たちに楽器の使い方を教えてた。楽器は演奏をするために、人を楽しませるためにあるんだって理解してくれていた。僕はね、村を出てから初めて出会えたんだよ……僕と同じ考え方をもっている人にね」
「嬉しかったよ、フィレスに会えて」
  幸せそうに笑みをこぼれさせたラビスは魅力的だった。胸の動悸が一際高鳴ってこそばゆい。私はラビスに悟られないように、さりげなく顔を伏せて熱くなる頬を隠した。
「面と向かって言われると照れくさいわ……」
  安物ワインの酔いが頭の奥まで回りはじめていた。ほどよい眠気が目蓋を落とそうとしていた。目をこすり、ラビスに声を掛ける。
「そろそろ寝るわよ。それとも、ラビスはまだ起きてる?」
  普通の家ならばランプの油がもったいないので夕食を終えたらすぐに寝入ってしまうものだが、私の家のランプはソウル・アスピアで造られている。
  油の心配はない。点けたければ一晩中でも大丈夫だ。
  しかし、ラビスは欠伸をあぅあぅとかみ殺しながら言う。
「ううん。僕も寝るよ、フィレスは明日も早いの?」
  早い、と口にしかけて止めた。早起きする理由はもうない。
「いいえ。明日からは暇だから……昼前にでも起きればいいわ。レヴィンの見送りも午後だしね」
  採集隊《カーヴァンクル》の護衛は必要ない。レヴィンの代役として隊長を務めるエリンは用心深い子だ。アスピアの森の浅い所を探索しようとするはず。私がわざわざ同行する必要はない。
  それに報酬の事で私に気を使って欲しくないこともあった。私がついていくとなると、必ず分け前に私のことも勘定に入れてしまう、エリンはそんな子だ。
「そこのベッド、使っていいわよ。あんまり綺麗じゃないけどね」
  部屋の隅においてある傾いた寝台を指差す。丸まった毛布としわのよったシーツは客人に貸し与えるには不適切だけれど、泊まらせてあげるだけありがたいと感じて欲しい。
  ラビスはいそいそと寝台に横になる。私は机においてあったランプを消す。大きな部屋はガランとした空虚な闇に包まれ、窓から降り注ぐ仄かな月光だけが室内を朧に浮かび上がらせていた。
「フィレスはどこで眠るの?」
「私は椅子で寝るわ」
  予備の毛布を体に掛けると、椅子に座る。腕を組んで眠る体勢に入ろうとした。だが、ラビスがとんでもないことを言い始めた。
「この寝台は広いんだから、ふたりでいっしょに寝ればいいじゃない」
  冗談じゃない、と口を開きかけた。でも、ラビスは行動は驚くほど大胆で、俊敏だった。反論の余地すら与えなかった。
  私の腕を掴むと、ぐいっと引っ張った。為すがままに体が引き寄せられていた。ごろりと、ラビスに折り重なるように寝台に転がる。このときラビスが本当に男なんだ、と自覚していた。
  そして、寒気を感じていた。ゾッとしていた。
「――ッ!」
  闇の中でハッキリと平手を打つ音が響いた。私はラビスの頬を思い切り張っていた。
ラビスは打たれた頬に手を当ててこちらを呆然と見つめていた。
「ゴメン……」
  突き放すように謝るとラビスに背中を向けて寝台に体を横たえた。ラビスは何も言わない。やんわりと体を寝台に沈めたのだけ感じた。
  私は背中を向けて窓の外を見上げたままそっと口を開いた。
「私はね……、男が嫌いなの。付け加えれば女も嫌い。人間が嫌い。子供は好きだけどね……。昔は外を歩くのも気分が悪くなった、いまは鳥肌が立つくらいだけど。やっぱり触られるのはダメなの……」
  ラビスは不思議そうに疑問を口にする。
「それじゃあ、どうして僕を泊めてくれたの? 僕は男の子だよ。レヴィンだって男の子じゃない?」
  レヴィンの顔を思い浮かべてクスリと笑いを漏らす。
「レヴィンは親友だから。いつでも傍にいてくれて……信頼できる最高の仲間だから、いいの」
「僕は?」
「ラビスはね……とても男には見えないから。子供みたいだし」
  声色を落として真剣にいってやる。すると、ラビスは自尊心が傷ついたようで、声をすぼませて文句を述べる。
「ひどいなぁ、僕だっていちおう青年なのにな」
  しばしの沈黙の後。ラビスが口を開いた。
「こんどからフィレスに触るときには聞くことにするよ。手を握ってもいいのか、いっしょに寝てもいいのか、抱きしめてもいいのか」
  少しだけ気分がほぐれた。引きつったような笑みに頬がむずかゆかった。
「抱きしめられるのは困るわね……」
「抱きしめられると嬉しくない?」
  どうだっただろうか。誰かに抱きしめられた記憶はあるけれど、嬉しかった記憶は掠れてしまっていた。思い出すことはできなかった。
「わからない……もう、ずいぶんと抱きしめられた事はないから」
  部屋の暗がりに私の声が吸い込まれていった。ラビスは一体どんな反応をするのだろう。ところが。
「ラビス?」
  返事はなかった。聞こえてくるのは規則正しい寝息だけだ。ラビスは長旅のせいか疲れて眠ってしまったようだった。
  私はやれやれと呟いて、ため息を漏らす。寝台の隅に追いやられていた毛布を広げると、私とラビスの上に広げた。毛布を掛けると肌寒い夜風の吹き込む部屋でも少しだけ温かくなる。毛布を掛けた寝台は、いつもより人一人分温かくて、寝心地がよく感じることができた。

Sound of Soul -奏でるものたちへの賛歌- 第五章

novel  Back Sound of Soul -奏でるものたちへの賛歌- Next