第六章

オラヴィの港は積荷と水夫、そして見送りの人たちで溢れかえっている。熱気と港に打ち寄せる波。混じりあう人の臭いと潮の風がつんと鼻についた。オラヴィの港には商人たちの翔帆船が停泊し、物資と傭兵を乗せた輸送船がひしめき合っていた。
  太陽がしだいに傾き始める時刻なので、どこからか涼しげな風が吹いてきている。とは言え、人がひしめき合っている中に交じり合っていてはその風を感じる事は無理だ。
「ふはぁぁ~、目が回る~」
  渦巻く熱で生温かくなった潮風に酔ったせいだろうか。ラビスの足どりはフラフラと危うい動きをしていた。私はしっかりとラビスを捕まえておく。こんなところで倒れたりされたら大変だ。
「ほら! しっかりして。手を離しちゃだめよ。私の腕を抱えてなさい」
「う~む、ぅぅぅぅぅ……」
  私はラビスの腕を掴まえて人波を掻き分けて進んでいた。私とラビスはひっつくようにして目的の場所へと急いでいるのである。
「フィレスさ~ん! こっちです~! こっち~!」
  人々のざわめきと雑踏に紛れて少年の声が聞こえてきた。あれはレヴィンの弟のユーリの声。必死に目を凝らして首を巡らせるものの、人波の中で一人の少年を探し出すのは至難の業である。とてもとても見つかるものではない。
  目蓋の上に両手を当ててキョロキョロと前後左右を振り返る。
「どこなの――?」
「ここですよ。すぐ横です」
今度はハッキリと声が聞こえた。真横からの声に心臓が跳ね上がる。首を回せばユーリの笑顔が目に入ってきた。それに……。
「ユーリ!」
  走り寄ってくるユーリを屈んで抱きしめる。ついで、ユーリの後ろに立つガッシリとした体躯の老人を抱擁する。
「――ボブ爺さん、ひさしぶり」
「ふぉっふぉっふぉ、久しぶりじゃの。最近は忙しくて、顔を出せなかったのぅ」
「ええ、ごめんなさいね……」
  二ヶ月ぶりに元気な顔を見れて良かった。ボブ爺さんは私の肩を軽く叩いて離れる。
  レヴィンの見送りにきたのは家族総出だったようだ。と言っても、エリンは採集隊の仕事のため姿はなく、病気のリフィルは連れてこれなかったようだけれど……。
  私の視線に気がついたのか。ボブ爺さんは呵々と笑って言う。
「なぁに、リフィルは心配するな。歩けるくらいには元気なんじゃがのぉ、この人波じゃ。体に障るかもしれんと置いてきたのよ」
  押し合いへし合いしながら歩くような桟橋だ。休み休みゆっくりとしか歩けないリフィルには辛いかもしれなかった。
「そうだったの。また、あとでお見舞いに行くわね」
  ボブ爺さんは「リフィルも喜ぶじゃろ」と嬉しそうに目を細めていたが、ふとあごひげに手をやって港で出港を待つ帆船に目を向けた。
「それはそうと、早く桟橋へ行かないと傭兵どもを乗せた小船が出ちまうぞい。レヴィンの奴は荷積みをてつだっておったからまだいるとは思うがの」
「そうね。ここまで来て見送りできなかった困るものね。じゃあ、またあとで!」
  私は小さく手を振ってユーリたちに別れを告げる。ふたたび雑踏の中へ紛れ込んでいく。ユーリたちが人込みで見えなくなったのを見計らって、ラビスが口を開く。
「とっても温かい人たちなんだね。フィレスがまっすぐに育った理由が少しだけ分かった気がするよ」
  ラビスは脈絡もなく木っ恥ずかしいことを言う。私は右腕に引っ付いているラビスの方へ顔半分振り返る。ラビスは目を細めて幸せそうな笑みを浮かべている。
  弾力のありそうな頬を引き伸ばしてやろうか。衝動を堪えて訊ねる。
「何を言うのよ、いきなり。だいたい……私のどこがまっすぐだって言うの?」
  アーティストになるために手段は選ばないし、身を守るためとは言え人殺しもしている。口先三寸で大人と交渉した事もある。ずる賢いスラムの少女に過ぎない。私のどこがまっすぐだというんだろう。
  ラビスは左手の指を順番に立てて説明していく。
「嘘をつかないし、真面目だし、面倒見がよくて、知り合いも多くて声を掛ける人が皆幸せそうだからかな」
  実にポジティブな考え方だった。聞かされていてこちらの方が赤くなってしまう。顔を逸らして突き放すような口調で応える。
「自然とそうならざるを得なかっただけよ、偉くも凄くもないわ」
「ふつうの人はそうはならないんだよ。自然となったのなら、フィレスは素晴らしい人たちに育ててもらったってことだよ。子供を育てるのは周りの人なんだから。そしてね。きっと、フィレスが育てた子供たちもおんなじ大人に育つんだ」
  まったく、ラビスでなければ歯の浮くような世辞を並べられているように感じる。耳の先まで火照ってきたような気がする。ぼそぼそと口を開く。
「……ありがと。そういうことに、しておいてあげるわ」
  早急に話題を変えないと。思い立って話を少しずつ外していこうとする。
「レヴィンはどういう風に感じたの?」
「う~んとね、レヴィンはね……、とても怖がりだけど勇気がある人。勇気を持っている人はとても少ないから、僕には太陽のように眩しく見えるんだ」
  勇気とは前に進める事。恐怖を乗り越えられる事。そして、過ちを認められる事。どれもレヴィンには当てはまっているように感じる。レヴィンはいつも私に見せてくれていた。
「勇気か、それは言えているかもしれないわね。でも、どうして怖がりなの?」
「勇気を持つ人は怖がりなんだよ。何が怖いものか知っているから、立ち向かうための勇気を搾り出す事ができるんだ」
「へぇ……」
  ラビスの観察力に感服しながら少しだけ嫉妬めいた感情を抱いていた。私とレヴィンは十年来の仲でこそ共有できる感情が、出会ったばかりのラビスにもわかってしまうなんて、ちょっぴりくやしい。
「そんなの見てすぐにわかるものなの?」
  素朴な疑問を投げかける。すると、ラビスは目を泳がせて慌てていた。必死にいい訳を考えているのか両手の指先を絡ませながら呟く。
「あ……その、僕はわからないけど。教えてくれるニンフがいるんだ。少し変わっているけどね」
  私には直感でわかった。昨日の夜、ラビスが話していた炎の鳥を指しているのではないかと。
「私には見えないの? そのニンフは」
「見えない事はないと思うけど……ここじゃ、えっと」
  ラビスは気の進まない様子だったのか曖昧な返答をする。瞬きをするほんの一瞬だけ『誰かと意思疎通』をする。
「……あ、あっは、ははは。ゴメンやっぱり無理かも……」
  ラビスは引きつった笑みを浮かべて言葉を濁してしまった。むぅ、せっかく炎の鳥を拝めるチャンスだと思ったのに。炎の鳥は私と会うのを嫌がっているらしい。
  しかし、昨日の夜の事を話すとラビスとギクシャクしてしまいそうなので踏み込んだ話もできない。私はそれっきり話を切り上げた。
  傭兵を乗せた小船は桟橋一杯に浮かんでおり、むさ苦しい男共がひしめきあっている。オラヴィから集められた傭兵たちの見送りはその倍もいるものだから、背丈のある私でも人垣で囲まれると何にも見えない。
  傭兵の中には旅をしてきた者だけでなくスラム民の人たちも大勢いた。見送りは、傭兵の妻であり、子であり、恋人であり、または兄弟たちだった。抱き合ったり肩を組んだりして別れを惜しむ姿がそこかしこで見られた。
  でも、そのおかげで人波が止まってしまい、私たちは桟橋の中ほどで立ち往生してしまう。
「くっは~……これじゃあ、先に進めないわね。シルフに頼んで飛んで探した方がいいかしら」
  私は連れているシルフに命令を下すか迷っていた。それをラビスが退きとめようと肩を揺さぶってくる。
「だ、ダメだよ! ここじゃ、突風でみんな海に落ちちゃうよ」
  そういうラビスは熱気に当てられたのか顔が紅潮していた。熱中症になって倒れるよりも海に放り出されたほうがいいと思うのだけどね。
「いまは仕方ないんじゃあないの?」
  半ば本気でシルフを呼び出そうとしたとき、横合いから伸びた指がむにゅっと私の頬をつねった。続いて伸びた片方の手が空いた頬をつまんだ。
「何が仕方ないんだよ、馬鹿野郎め。やめろっつの」
  人垣をすり抜けてレヴィンの仏頂面が現れた。
「いふぁぃわれ! はわぁせ!」
  文句を垂れるとレヴィンは頬から指を離してくれた。
「顔が二倍増しで伸びたらどうするのよ」
  私は頬を指先で揉んで口を尖らせる。か弱い乙女の顔をもうちょっと優しく扱えないのか。
  無論、レヴィンも私の扱い方など手馴れたもので、素っ気ない態度で言い放つ。
「お前は顔がスマートすぎるから少しはぽっちゃりしたほうがバランスがいい」
「あんたこそ、そのギラついた目を何とかしないと犯罪者と間違われるわよ」
  私は鼻を鳴らし、そしてくくっと笑った。レヴィンも口の端を吊り上げる。私の拳とレヴィンの拳がガツンッと打ち合わされる。
  まったくもっていつもの通りの会話。私もレヴィンも日常と変わらない態度だった。少なくとも表面的には。私はレヴィンの事が心配でたまらないのは相変わらずだったし、レヴィンもこれから殺し合いに行く事に不安を感じている事だろう。
  親友だからこそ心地よく送り出してやりたかった。
  親友だからこそ余計な気落ちをさせたくなかった。
  私たちは親友だから……『大丈夫だ』『心配するな』と、語らなくとも伝わっているんだと思う。
  レヴィンはラビスへ向き直る。
「悪いな。こんなゴタゴタしてる場所まで来てもらってな。ラビスも疲れたろ」
「ううん、そうでもないよ。気にしないで」
  私はレヴィンの身に付けている鎧に手を当てる。ひんやりとした感触を得ながら指を滑らせる。
「しかし、また……すごい格好ね」
  レヴィンは森へ散策へ行くような軽装ではない。明らかに接近戦で人と人との戦いに適した装備をつけている。
  鉄板で補強された胸当て、胸当ての下には鎖帷子の細かな鉄鎖が見え隠れしている。左腕には私のガントレットよりも厚みのあるヴァンブレイズをはめていた。
  腰には愛用の双剣と使い古された自動弓、矢筒、さらに小道具を詰めた皮袋をぶら下げている。レヴィンの格好はそこらの傭兵と変わりない姿になっている。
「鎧や自動弓、矢なんかは全部知り合いの店で格安で買ってきたんだ。好きなもんを持っていっていいらしいから、ま、適当に見繕ってな。こんな感じになった」
  レヴィンは両手を広げて訊ねる。
「変か?」
「……変と言えば変ね。似合わないし、おかしい」
  レヴィンは苦笑いをしつつ、具足を踏み鳴らす。
「まぁ~た、その話かよ。もういいだろ? 決めたんだよ」
「わかってる。嫌味よ」
  荷を積み終えた小船が次々と帆船へ向かう。桟橋に泊められていた一隻から一人の傭兵が身を乗り出す。レヴィンに声を掛けてくる。
「おい、兄ちゃん! 船を出すぞーー!」
  レヴィンは大声で応える。すぐに小船には向かわず、ちょいちょいと指を招いて私を呼び寄せる。素直にレヴィンへと歩み寄る。
「なによ?」
  レヴィンはいつになく落ち着きのない様子で言いよどむ。
「いや、まぁ、なんだ? なんか……こう……ほら、別れの挨拶と言うか、景気づけと言うか、勇気を分け与えるとか、そんなものがあるだろ? とびっきりのさ」
「…………しろっての、私に?」
  レヴィンは鼻息荒く頷いた。
  私は『しゅーもない願い』を察して小さくため息をつく。レヴィンのさり気ない『しょーもない願い』に呆れつつ、『しょーもない願い』について現実的に考えてみて恥ずかしくなったからだ。
  桟橋では恋人たちが抱き合って別れ際にくちづけを交わしている。オレンジ色の陽が桟橋を照らしだし、人々の影を強く印象付ける光景は、どこか絵画に描かれた世界のように感じる。
  私は盛大に舌打ちをしてやる。そりゃあ、小さい頃は遊び半分でスラムの仲間とキスしたりしたけれど……この歳になるとやっぱり恥ずかしい。
「ふん……。それじゃ、目を閉じなさい」
  レヴィンは言われるままに目蓋を落とす、そして、頼んでもいないのに体を屈めて私と背丈を合わせる。用意周到なことだ。
  私はレヴィンの頬を手で包み込むように押さえる。しかし、普通は逆なんじゃなかろうか。どうして女の私から男のレヴィンへ……しなくてはいけないんだろう。そう考えるとムカムカと腹が立ってきた。
  私は狙いをしっかりと定めると、頭を後ろに引いて……! 額に強烈な頭突きを食らわせてやった。レヴィンはたたらを踏んでよろよろと下がる。
「いっ――てぇ~……おまぇ、ちょ……」
  レヴィンは鼻と額をさすりながら呻いている。涙目のレヴィンを蹴飛ばして、傭兵たちの乗った小船を指差した。
「とっとと行けッ、このスケベ!」
  この一連の流れを見守っていた小船の傭兵たちは、割れんばかりの声で爆笑している。
「はぁ~、わかったよ……」
  レヴィンはガックリと肩を落とすと、トボトボとした足どりで傭兵たちの乗った小船へと歩いていく。罪悪感はあるけれど、私とレヴィンはそういう関係じゃないんだ。少なくとも私はそう考えている。
  そこへ離れた所で私たちのやり取りを見ていたラビスが走ってくる。私の隣に立つと残念そうに語りかけてきた。
「あれれ? ちゅーしないの?」
  私は桟橋のボロボロになった縁から、ズルリと転げ落ちそうになるのを堪える。塩水に当てられて滑りやすくなっていた所を踏んだらしい。ヨロヨロとバランスを保ちながら立ち上がる。
「ちゅーって、あんた……。子供か!? もうちょっとマシな言い方してよ」
「そう? 僕は気にしないけどな。ともかく、しないの? レヴィンも元気が出るんじゃない」
  私はわしゃわしゃと髪を掻き混ぜながらぼやく。
「あのね~、私とレヴィンは恋人同士じゃないの。親友よ。親友とキスするのは変でしょう」
「変なのかな。フィレスのしたいようにすればいいんじゃないの?」
  私はぜぇはぁっと、荒々しくため息を吐き出した。
「したいようにねぇ……」
  レヴィンたちの乗った小船は桟橋から出る最後の船の一つらしい。レヴィンの乗った小船と並んで数十隻の小船が桟橋から離れていく。レヴィンは小船に腰を下ろしたままオラヴィの街の方角をじっと眺めている。
  ちっとはこっちに手を振るとかしたらどうなのよ、と憤慨してみるが……こんな風に腐っている事が私らしくない事に気がつく。
「フィレス……?」
「ふん、したいようにすればいいんでしょ? ラビス」
  私がニヤニヤ笑いを堪えながらラビスを見やる。ラビスは首を傾げて私の様子を窺っていた。
  私は桟橋から海へと飛び出した。シルフの力を使って空を翔る。ゆるやかな山を描いて、レヴィンの乗る小船へと軽やかに舞い降りる。
  レヴィンは気がつかない。
  小船に乗っていた他の傭兵や船員たちも思考が追いつかないようで、ボケッとした顔で私を見つめている。時が止まったような流れの中で私だけが素早く動いていた。
  私は小船に肩膝をついて屈む。レヴィンの顔を両手を添えて引く。目を見開いているレヴィンに狙いを定める。目蓋を閉じつつ、柔らかく、それでいて正確に唇を寄せた。
  私の唇とレヴィンの唇が触れ合った。ついばむような口付けをしてやった。
  瞳を閉じている間、辺りから囃し立てる声と歓声が上がる。目を開くとレヴィンは微動だにしないまま固まっている。私はレヴィンに何かを言われる前に小船から跳び立った。
  後ろ向きに高くジャンプして、宙で一回転すると桟橋へと舞い戻った。小船のレヴィンはいまだに呆けたままだった。私はレヴィンが気がついてくれるように大きく手を振ってやった。
  小船の連中にど突かれて、やっとレヴィンが我に返る。船から落ちんばかりに両腕を大きく振って応えてくれた。
  最後の小船が停泊する帆船へとたどり着くと、桟橋に集まっていた人々は少しずつ離れていく。幾人かの女性は呆けたように帆船を眺め続けていたが、しだいに桟橋から名残惜しそうに去っていく。
  私も桟橋に止まっていたが、夕暮れの涼しい風に当てられて、身震いをする。ラビスも両腕を抱いて潮風から背を向けている。
「寒くなってきたね。これからどうするの、フィレス?」
「ん~~、私は仕事があるからオラヴィ市街に行くけど……一人で帰れる? 家まで一緒に帰るくらいの時間はあるけど」
  ラビスは風に弄ばれる髪を押さえながら首を振った。
「ううん、平気だよ。ところでさ、昨日の子たちは今日も橋の近くにいるのかな?」
  ラビスの瞳はキラキラと輝いており、スラムの幼い子供たちが見せるような『遊びたくて仕方がない』といった顔をしている。私は苦笑をかみ殺しつつ言ってやる。
「どうかしらね。たぶん、あの辺りで遊んでいるとは思うけど」
「そっか。じゃあ、僕は帰って子供たちと遊んでるね」
  ラビスがスラムの子供たちと仲良くなってくれるのは助かる。昨日の疑惑が晴れたわけではないけれど、私が昨晩に経験したような危険から子供たちを守ってくれるはずだ。
  いや、たぶん……私はラビスの事を信頼しているんだと思う。ラビスはヴァルデマル帝国の斥候などではないと心で悟っているのだ。
「おや、君は昨日の夜にあったな……忘れてはいないだろうね?」
  桟橋で別れようとする私とラビスが次なる言葉を口にしようとした時だ。ふいに横手から声を掛けられた。忘れもしない声で。
  髪の毛が根元から逆立つような危機感を覚えていた。圧倒的な力の気配にギクシャクとした動きで声の主を探した。私の視界に強烈な存在感を放つ人物がいた。
「あなたは……」
  桟橋から立ち去る人の流れを滑るように避けて歩いてくる人。一足踏むごとに木琴の音が鳴り、肢体を包むローブが揺れるたびにウインドチャイムの透き通るような金属音が聞こえてくる。
  声を掛けてきたのは、スラム街の屋根の上で出会った、あの傭兵の女性だった。
  傭兵の女性は昨日のようにフードを被っていない。傭兵の女性の顔を始めて拝んだわけだが、私やラビスよりも年上だがそう変わりのない年齢に驚かされた。しかし、レヴィンに負けず劣らず鋭い眼光と冷たい微笑みは、男の声色を真似たしゃべり方とよく似合う顔立ちといえた。
「イルシェ。イルシェ・ブーランジェだ」
  傭兵の女性は私の目の前で立ち止まると素っ気なく名前を述べた。名乗られたからには返さないわけにもいかない。
「フィレスよ」
  イルシェと名乗る女性はつつっと視線を私の肩先を越える。体を逸らして視線の先を追うと、予想通りと言うかラビスがいた。イルシェは微かに困惑の表情を滲ませてラビスに声を掛けた。
「そちらの……女性は、女性なのかな。友人か?」
  イルシェの反応にラビスは頬を膨らませて両手をバタバタと振り回す。その拍子にラビスの着ているソウル・アスピアの服から騒々しい音色が溢れ出た。
「僕は男です! 僕はラビス。よろしく、イルシェさん」
  イルシェはスッと瞳を細める。ひんやりとした緊張感のある空気が垂れ込める。私が勝手に感じているだけかもしれないけれど……できればイルシェと名乗る女性とラビスは引き合わせたくなかった。ソウル・アスピアの服は何か特別な意味があるのではないかと思っているからだ。
  二人の様子を冷や冷やとしながら見守る。
  先に口を開いたのはイルシェだった。両腕を柔らかく組んで、ラビスの服装を丹念に観察していた。
「君は変わった服を持っているな。ソウル・アスピアの服か?」
  さきの憤激はどこへいったのやら。ラビスは踊りだすかのような楽しい笑顔で応える。
「そうですよ。イルシェさんも同じものを持っているんですね?」
  奇妙な沈黙が流れる。イルシェもラビスも何かを探るように互いに視線を交わしている。私が薄々感じているように、イルシェもラビスも言葉尻に含まれた『嘘』を見抜いているのかもしれなかった。
  私は、ラビスもイルシェも隠された秘密があると、重大な共通点を持つ秘密を共有していると、じっとりとした汗を拭いつつ考えていた。隠された秘密はいったいなんなのか、まったく想像つかないのだけれどね。
  沈黙を破ったのは、やはりというかイルシェだった。
「……フッ、そうだな……、高い買い物だった」
  短くため息をついてから笑みを浮かべる。たったそれだけで不快な空気は溶けるように消え去ってしまった。ラビスは笑みを湛えたままイルシェと向かい合っている。
「これから雇い主の所へ行かなくてはならんのでね。これで失礼させてもらうよ。フィレスもラビスも気をつけてな……、情報ではヴァルデマル帝国はもうオラヴィ市街に入ってきているかもしれん……」
  最後の忠告だけは声を潜めて私にだけささやく。桟橋の人影は減っているものの、まだ多くの人が残っていたからだ。私はアゴだけを小さく動かして頷く。
  イルシェはサッとローブを翻すと雑踏に紛れてオラヴィ市街へと歩き去っていった。長い髪を揺らした後姿が消えてから私はラビスへと向き直る。
「仕事に遅れてしまいそうだから、私もいくわね。子供たちのこと、よろしく頼むわ」
「うん。まかせておいて」
  ラビスの元気の良い声を聞くと心地よい気分になれる。軽やかな心で歩くと、オラヴィ市街でのアーティストのスポンサーの事や専属楽士への執拗な勧誘などの不満はたちどころに吹き散らしてくれた。
  そうだ、いまの私は、ここ数年感じる事のできなかった幸福感に満たされているのだ――。

Sound of Soul -奏でるものたちへの賛歌- 第六章

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