仄かな明かりが部屋を照らしている。豪奢に飾られたガラスのランプは柱に均等にすえつけられていて、六角形の大きな部屋を薄闇程度に和らげる燭台は、店の雰囲気をどこか艶かしく魅せる。
オラヴィ市街にある高級料理店、《月夜に踊る小鹿》亭。上流階級の人々が足を運ぶ南方産の幸をふんだんに使った料理店だ。客の囲む木目の目立つテーブルには、赤や黄色の鮮やかな色を持つ野菜を合わせたサラダが並び、香ばしい肉と貴重な香辛料の食欲をそそる匂いが流れてくる。
私は店の中央部に位置する舞台でピアノを弾き鳴らしていた。しかし、音色はピアノだけではない。チェロ、ヴァイオリン、フルート、オーボエの旋律が交りあう。奏者は、私が奏でたニンフ達だ。ニンフ達は力を持った戦士であり、楽器に精通した楽士でもあるのだ。
正直……かなり、苦しい。
私は冷や汗を流しながら鍵盤に指を滑らせていた。戦うために奏でられるニンフの数は三人が限度。普通に奏でるにしても五人がギリギリといったところだ。
私は歪む意識を叱咤しながら神経を集中させる。
演奏を失敗するとバーやレストランから報酬は受け取れない。逆に客のリクエストに応えて評価を得られれば好印象を得られる。客もいい演奏を聴くために同じ店に足を運び、結果として店の利益も上がるからだ。もちろん料理店の食事が美味いことが前提になるのだけど。
今日こそは……ッ、と願って私はピアノを弾き続ける。
アーティストに選ばれるためには有力者が必要だ。アーティストはソウル・アスピアで製造される楽器の宣伝媒体として、工房や商人に雇われる。ある程度名前が売れてきたら独自の活動で生計を立てることも可能だ。
どのみち私には演奏する事だけが生き甲斐なのだ。他に何かしろといわれても、やれる事は楽士だけだ。
それに、アーティストになれなくとも、楽士のランクアップは通常通りに行われるはずだ。ランクアップすれば楽士としての給金が上がる。生きていくためにも金を貯める事は重要である。
楽士のランクアップを行ってくれるのは店を取り仕切るオーナーだ。オーナーは演奏をした楽士に対して票を入れる権利を持ち、その票の度合いによってランクを上げるか下げるかを楽士ギルドが決定する。
とは言え、いまの私はプラチナランク。下がらない事を考えていればいいんだけれどね。
今日は私に対してリクエストが入っていないので、自分の実力の限界点に挑戦しているわけである。こんな無茶をする理由は、もちろん私の腕前を知らしめるためだ。
私は視線を僅かに持ち上げて客を見渡してみる。視線が合わないように気を配りながら人を探していく。
誰かが私を見ていることはわかる。演奏をしているのはどんな人物なのか、品定めをしている目線をいくらでも肌で感じる事ができた。しかし、感じられる気配から心地よいものではない。向けられるどの視線も冷め切った蔑みに満ちたものだったからだ。
どうしてアーティストに選んでくれる有力者が現れないのか。
いま着ている黒い薄手のドレスが、アーティストであった母のお古である事がバレているからなのか。それとも、私がスラム出身である事が問題なのだろうか。
だが、この場所はオラヴィだ。王族・貴族の肩書きで人生を左右されるティファート王国ならともかく、ここは自由を謳歌する商人たちの街である。実力と金以外に何も求められるものはない。
曲目の最後の音色を弾き終える。耳に残る音律が消えてから、シルフを一人残してすべてのニンフ達を解放した。拍手は起こらない。
ここにいる人々は、私の演奏を聞きに来たわけじゃないからだ。
私は椅子から億劫に立ち上がる。一人の楽士が演奏する曲はだいたい十曲程度。時間にして四時間くらいだ。お尻は痛いし、腰に疲れがくる。
ハッとする。手を軽く打ち鳴らす音が聞こえた。誰かが、拍手をしている。驚き、ふと、顔を上げた。
私の視線は客の一人と真っ向からぶつかった。普通ならば軽く会釈をして視線を逸らすべきだが、私は男を見つめ続けた。
男は若い商人に見える。黒っぽい派手ではない服装をして、質素なたたずまいである。おおよそ商人らしくない出で立ちだ。
撫でつけた黒髪、鷹のように鋭い黒目。オラヴィでは珍しい東方の人種。もしかすると私と同郷なのかもしれない。
男は始めから私を注視していたのか。私と目が合ってもそのままであった。しばしの間、私は男と視線を見合わせたまま立ち尽くしていた。
「ねぇ、退いて貰える?」
唐突に肩を叩かれて振り向くと、次の楽士が立っていた。交代の時間だ。私はとりあえずステージから降りて店の楽士部屋へと戻ることにした。
横目でもう一度男を確認すると、彼の興味はすでにステージの上の楽士へと移っていた。
彼は手頃な楽士を探しているのかもしれない。もしかしたら、と言う希望が、私の中に灯る。私に拍手をくれたということは、実力だけをみている可能性もある。それならば期待できる。
ここにいる楽士たちはシルバーランクばかりで技術レベルは私より下だ。教え込まれた旋律をなぞるだけで独創性の欠片もない。選ばれるなら私! そういった確信めいたものさえ感じてしまった。
私は勝手な空想に心躍らせて店の奥へ戻っていく。
廊下に狭しと並べられた木箱を避けながら、楽士にあてがわれている控え室へと入る。軋んだ音を立てて扉が開かれると、中にいた者たちが一瞬だけこちらを振り向いた。そして、すぐに皆の視線は外れる。
これから演奏のある者や帰り支度を始めている者もいたが、演奏待ちの数人がなにやら楽しそうに談笑をしていた。
「あ、フィレスさん。聞いてください!」
その中の一人が私の姿を見ると手を挙げて私を呼び止めた。その娘は私より三つほど下の年齢の、旧市街に住んでいる楽士だった。名前はリーサ……だったかな。間違えていると悪いので名前は呼ばないでおく。
リーサは編んで垂らしている金髪を揺らしながら、弾むような足取りで私の下へ歩いてきた。
「どうしたの? 嬉しそうだけど、何かいいことでも会ったの?」
相好を崩すリーサに私は控えめに訊ねてみた。おそらく、どこかの商人の専属楽士にでも雇ってもらえる話が舞い込んできたのだろう。私はそんな予想をしていた。
「私、専属楽士に雇ってもらえることになったんです! ミランダさんて言う商人の奥方なんですけど……」
思ったとおりだ。しかも、なるほど。喜んでいる理由もよくわかる。
『専属楽士』と言うのは名の通り、雇われた主人の館に住まい、主人のために演奏をする楽士の事だ。商人たちの間では腕の良い楽士を雇い入れることが一種のステータスにもなっている。楽士にはアーティストになるか専属楽士になるか……例外を除いてそれら二通りの生き方しかない。
リーサは楽士として人生に一つの区切りを迎え、一本の道筋にのることができたのだ。彼女の飛び上がって喜ぶ様は至極当然の反応だった。
私は自然と笑みこぼれるように振る舞い、リーサの肩を軽く叩いてやった。
「おめでとう。良かったわね」
すると、リーサは勢いよくお辞儀をして礼を述べる。
「はい! フィレスさんも、色々楽器のこととか教えてくださって、ありがとうございました」
「――そんな気にしないでよ」
リーサの態度に驚きと申し訳なさを感じながら、私はヒラヒラと手を振る。周囲の視線が集まっている事に気恥ずかしさを覚えながら彼女に頭を上げるように促した。
私はリーサに対してそれほど世話を焼いたつもりはない。ちょっとヴァイオリンの弾き方や曲調を直させたくらい。しかし、リーサの方は深々と頭を下げるくらいに恩を感じてしまっているらしい。
私は控え室に置かれていた机の上から手荷物を探し出すと肩に担ぎ上げた。この場で着替えてもいいのだが、オラヴィ市街の夜は何かと視線を感じる事が多い。普段着よりもドレス姿の方がまだ様になるだろう。
一番の理由は着替えるのが面倒だったからだけど。
「それじゃあ、私は先に。頑張ってね……」
リーサが元気よく返事を返すのを見届けてから、私は扉を閉めた。ふぅ、と疲れた息を吐き出した。礼を言われることは嫌いではないが、くすぐったいものだ。
と、そこへ。甘く熱っぽい声が掛けられる。
「お疲れ様、フィレス」
楽士の控え部屋の前で待ち構えていた影があった。暗がりから進み出た影は店内の証明に照らされて姿を現す。真っ赤なドレスに黒いショールを垂らした女性は、嫣然と微笑みながら私に視線を絡ませてきた。
女性は、この《月夜に踊る小鹿》亭を含めた、いくつかの料理店と娼婦館を統括するオーナーだ。正確に言うと、大商人の妾であり、夫におねだりして頂戴した店舗らしい。
オーナーの名はラーラと言う。
世渡り上手のラーラは、意外にもまだ私と同じ十八歳だったりする。だから、立場に関係なく良い友人としてつきあいがある。人目がないときには敬語も使わない。
私は小さく目礼をしてその場を立ち去ろうする。ところが、狭い通路をラーラは手を壁に添えてガッチリと塞いでくる。これでは帰れない。
何の用だと訊ねる前に、ラーラが手に何かをつまんで差し出してくる。
「忘れてるわよ? 今日のこれが報酬ね」
ラーラは絹の袋に納まった小袋を私に手渡してきた。掌に載せた途端、そこそこの重さを感じる。楽士に渡される報酬としては多めだ。
だが、銀貨の枚数を増やすならば有力者へ推薦状を書いてほしい。報酬が増えた所で子供たちに手渡す楽器の代金として消えていくだけだ。
「……ありがと」
私は小さく謝意を述べた。早いところ退散しなくてはならない。
報酬の支払いをオーナーのラーラが直接手渡してくる事はまずあり得ない。それを、わざわざ時間を割いて会いに来る、と言うことはろくでもない話を私に持ってきたんだろう。そうに違いない。絶対にそうだ。
体当たりする勢いで、ラーラの横をすり抜け……させてくれない。ラーラは笑みを浮かべたまま私の進路を妨害してくる。
「急いでるから、失礼するわ」
強引に通り抜ける。突き飛ばすような力でもって押し通る。ラーラの体がよろめいてほんの少しだけ通路が開いた。
私は忙しなく足を動かして裏口へ逃げだした。そこへ、ラーラが不満を滲ませた声を投げ掛けてきた。
「痛ぁ、もう! ちょっと! つれないわねぇ……。オーナーのあたしが声を掛けているってぇ言うのに、そんな態度はないじゃあないの? 明日から仕事を頼まなくていいのかしら?」
私は観念して足を止める。憂鬱な気分を払うように目蓋を閉じて……開き、観念してオーナーを見やる。
「じゃあ、何の御用ですかオーナーさん?」
「はい、コレ」
ラーラは艶やかな微笑みを浮かべると、銀の紐でまとめた手紙を押し付けてきた。手紙の真ん中には『フィレス殿へ』と綺麗な達筆で走り書きされている。一番上の手紙を開いてみれば、延々と私に抱いた感想と最後に用件が短く綴られている。
文字の読み書きが出来るものは少ないため、書いてある内容を知る事ができるものはほとんどいない。
しかし、楽士に名指しで渡される手紙は二つの種類しかない。
金の文字で書かれていればアーティストに雇う。
銀の文字で書かれていれば専属楽士に雇う。
文字の判読ができなくても意味は分かるようになっている。
私は無理やりに渡された手紙を両手で抱え込むと、げんなりとした調子で口を開く。
「私は専属楽士にはならないから、商人からの誘いはすべて断っておいてって言ったはずだけど」
私が低い声で訴え、責めるように睨みつける。ラーラは顎に人差し指を当てて悪びれた様子もなく言い放つ。
「そんなこと言われてもねぇ。皆、私の店のお得意様だから。そんなことできるわけないでしょ?」
ラーラは片目をパチッと閉じる。私は短く嘆息を漏らした。
《月夜に踊る小鹿》亭で楽士の仕事をさせてもらっている以上、強い口調で言う事はできない。私はただただ沈黙するより他なかった。
ラーラは先の丸まった髪を指先で解きながら、言葉を続ける。
「あなたも意地を張っていないで、専属楽士の仕事を請けてみたらどうなの? それだけの仕事が舞い込んでくる年齢はあっという間に過ぎてしまうわよ」
私は憤然と、声を低く抑えつつ言う。
「私は専属楽士にはなりたくないの」
ラーラは私に意味ありげな視線を向けて、上から下まで眺め通す。そして、口元に手を当てて低く笑った。
「あなたの場合は、体目当て、の商人が多そうだからね。楽器を持つことよりも夜の相手をする方が多いでしょうね」
ギョッとする。目の前にラーラの顔が迫っていた。あわてて後ろに下がろうとするものの、間に合わず……ラーラの腕が私の首に巻きついた。
首筋に熱い息が触れて、耳に歯の感触がカプリと喰いつく。ぞわりと寒気が奔る。
「ぅわ!? ちょ、くっつかないで! ……離れてッ!」
蛸のように絡みついてくる腕を振り払う。へばりついているラーラの体を引っぺがした。
「赤くなっちゃって……可愛いわねぇ、フィレスちゃん」
「~~~ッッ」
私は喉を鳴らして笑い続けるラーラを不満げに睨みつける。私が専属楽士の仕事を受けない理由は、コレだ。
専属楽士として雇われるものは容姿の際立った美男美女が多い。商人の妾として扱われる事が多い。商人たちの間でそれを公言するものはいないが、まぎれもない事実だ。
リーサが喜んでいたのは『奥方』の専属楽士になれるからだ。特殊な趣味の持ち主でなければ、リーサは真っ当な専属楽士として仕事をしていくことが出来るだろう。
ちなみに私に専属楽士の仕事を寄越してくる商人は、男ばかりであり風評の良くない商人の名前もよくある。ごく稀に女性の商人からの依頼もあるが、あまり信用できそうにない噂を聞く事ができたので断っている。
それでも、専属楽士になろうと考えた時期はあった。
専属楽士になればアーティストほどではないにしても、相当額の小遣いを商人から渡されることになる。その金で音楽院を作って子供たちに楽器の扱い方と音楽の素晴らしさを教えることはできるだろう。過程に問題はあるが私の夢はあるていど達成される。
しかし、私が若々しい肉体を失えば当然の如く捨てられる。音楽院を維持していくだけの資金を専属楽士の間に稼げるかは疑問だ。ラーラのように主人のご機嫌伺いを上手くやって、専属楽士を解雇された後も収入を得られるような店を譲ってもらうような事は……まぁ、まず無理だろう。私は舌のよく回る『可愛い女』にはなれない。
だからこそ、専属楽士ではなくアーティストになることを切望しているわけだ。
「でもねぇ、私はあなたの事が心配なのよ」
ラーラは他の楽士たちとは違う視線で私を見ている。契約している仕事上の存在ではなく、私の姉のような先輩のような、とても親身な立場で接してくる。今日のラーラは特に口数が多かった。
私は真摯な態度でその言葉に耳を傾ける。
「専属楽士からアーティストになった人も多いわよ? 専属楽士が嫌な仕事なのはわかるけど……、底辺から這い上がるには、他に手段はないわよ。それに知ってる? あなたが専属楽士の依頼を選り好みしていることで妬んでいる楽士がいるコト」
ラーラの忠言に深く深くため息をついて、両腕を組む。立ち尽くしていると疲れるので壁に寄りかかった。
「知ってるわよ、それくらいは」
苦々しい気持ちに吐き気を覚えながら、平然と言葉を返した。
いつものことながら、控え室では少なからず敵意のこもった視線を感じている。私の性格を知ってか、嫌がらせをしてくるものはいない。だが、女と言うものは噂話が大好きな生き物だ。好き勝手な噂をよく流してくれる。
噂話に翻弄される性格でもないが、悪い話がつきまとえばアーティストの話は難しくなる。困ったものだ。
「もう十八でしょう。身の振り方、よく考えておいたら?」
最後にそれだけを告げると、ラーラは小さく手を振って店の中へ戻っていってしまう。
「身の振り方、ね」
私は誰もいない通路で独り言つ。なんにせよ、こんな場所にいて考えていても仕方がない。
空の木箱が積み上げられた通路を抜けて裏口へと向かった。裏口から出ると薄暗い通りに出る。冷たい外気が入り込んでくる。
大通りから外れた路地は、物寂しい雰囲気が垂れ込めていた。野良犬の荒らしたゴミを避けて大通りの明かりの方へ進んでいく。
裏路地から大通りに踏み出すと、様々な色彩の光が視界を覆いつくす。私は眩しさに思わず瞳を伏せた。
大通りはソウル・アスピアを使った灯りで煌びやかに飾られ、宝石箱の中に街があるような有様である。沿岸都市の中でもっとも発展していると言われるオラヴィならではの光景だ。
夜も遅いと言うのに大通りを馬車がひっきりなしに行き交っている。夜遊び好きの商人やその奥方たちは朝方まで賭け事や酒宴で忙しいのだろう。通りの端には御者たちが煙管を吹かしながら、主人の帰りを待っている。まったくご苦労な事だ。
「ちょっと、いいかな?」
私を待っていたというようなタイミングで声が掛けられた。声のするほうへ体を向けると、ちょうど《月夜に踊る小鹿》亭の前に長身の男が佇んでいた。
「あんたは……」
私はその男に見覚えがあった。闇よりも深い黒髪と、漆黒に彩られた瞳、暗がりに溶け込むような衣装を纏う若い男。先程、舞台で私に拍手をくれた男に間違いない。
「私の名前はライナス、ライナス・オルブライトと言うものだ。オラヴィで楽器工房を仕切っている。《シンフォニア工房》という名前を聞いた事はないかな?」
男は口元にだけ僅かな笑みを浮かべてスラスラと自己紹介をする。実に商人らしくない立ち振る舞いで、まるで執事のようなキビキビとした動作と声調であった。
シンフォニア工房は、オラヴィを含めた都市国家群では代表的なブランドを展開している工房だ。名乗られた瞬間、私の脳裏にはシンフォニア工房製の意匠を凝らしたソウル・アスピアの楽器やシンフォニア商船団の姿が浮かび上がってきていた。
前にもこういった待ち構えていた商人の使いに会った事がある。次に言う言葉などすでにお見通しだ。
私は片手を軽く宙に振って、おどけた仕草で訊ねる。敬意も礼儀もあったものじゃない。
「それで? ライナス・オルブライトさんが私に何の御用なんで?」
男は私の態度に機嫌を悪くしない。起こった様子もなく簡潔に答えを投げて寄越した。
「君を専属楽士として雇いたい。報酬も君の望むままに支払おう」
私は気分の悪さに露骨にため息をついてしまった。期待はしていなかったけれど、少しだけならと考えていた事も事実である。
「悪いけどお断りね」
私は会釈もなく踵を返すと、一息に吐き捨てる。
「それでは、君は永遠にアーティストになりたくないわけだ」
立ち去ろうとするからかうように呼び止める声がした。どこか迫力のこもった男の声に踏み出していた足を止めてしまう。
「君はアーティストになりたいのだろう? その実力でアーティストになれないのはどうしてか教えようか」
背中越しに聞こえてくる男の声は私の心をひどく揺さぶった。私は無意識のうちに男の方へと振り返っていた。
どうして、アーティストになれない事に悩んでいると知っているのだろう。私は弱音を吐かない主義だから、このことを誰にも話したことはない。私以外に知っているものがいるとすれば、アーティストへの斡旋を邪魔している人物に他ならないではないか。
「そんなに怖い顔をしないで貰いたいな。私が指示しているわけではないのだから」
私は知らぬ間に男に詰め寄っていたらしい。ハッと気がつけば私と男の距離は瞳の色がわかるほどの距離まで縮まっていた。私は勢いのままに、男に言葉を突き立てる。
「私が、アーティストになれない理由を知っているの?」
男は眉一つ動かさない。真顔で小さく頷いてから口を開く。彼は手振りを交えながら一つ一つ言葉を連ねていく。
「知っている。君が専属楽士になるのであれば教えよう。報酬も通常の倍額を出す。悪い話じゃないと思うがね」
私は両腕を掻き抱き、寒気のする肌をさすり上げる。
専属楽士にならなければならない、こいつは十分に悪い話だ。けれど、私には断る一言が告げられずにいた。アーティストになれない理由がわかれば、改善策を見つけ出せる。
私は男の目を見据え、彼の意図するものがなんであるのかを見極めようとしていた。
「どうしてそこまでして、私を専属楽士に雇い入れたいのかしら? あなたも体が目当てなの?」
男は口元をほころばせた。いや、嘲笑と取ってもいい嫌な笑い方だった。
「悪くない理由だ。ま、君に対して求めるものは一つではないがね」
男は懐から一枚の金属板を取り出して私に手渡した。シンフォニア工房と彫り込まれた名刺である。
「どうかな? できるならば……いま、返事を聞きたいな」
私は冷やかに男を見据える。
「返事? もちろん、断るに決まっているわ。そんな話を信用すると思うの? 私はいままでだって実力でここまで這い上がってきたのよ。スラム出身の楽士でプラチナの称号を持つ楽士が一人しかいないのは知っているでしょ?」
私の強気の姿勢を突き崩すように男の言葉が刺さる。
「だが、それが限界だ」
男は困ったように眉を落とした。どうしてわかってもらえないのだろう、と考えあぐねているようだった。弱った表情のまま口を開いた。
「君はぜったいにアーティストにはなれない、少なくともオラヴィではね。一生をただの楽士として過ごすつもりか?」
私は指を突きつけながら、男に詰め寄る。
「だからその理由はなんなのよ? そいつを教えてくれたら考えてもいいわ」
「申し訳ないがそれは無理だ。本来ならばこの話をすることすら、商人たちの取り決めで禁止されている。君にこの事を教えてあげるのは私からのささやかな好意だ」
私は苛立ちを隠さない。はぁ、とため息をついて一息で言い放つ。
「じゃあ、嫌よ。あなたの話なんか信じない」
そっぽを向いて男から距離を置いた。男は肩をすくめて残念そうに笑った。
「専属楽士になればアーティストと代わらない報酬を貰えると思うのだけどね……。君がそこまで拒むなら、仕方ない」
男はあっさりと引き下がると、止めてあった馬車へと緩やかに歩いていった。男の乗った馬車がカラカラと音を立てて遠のいていく。馬車がオラヴィ市街の奥へと消えてから、ようやく私は手元にある名刺を見た。
住所から見当をつけると、男はオラヴィ市街の最も奥に位置する場所に邸宅を持っているようだった。オラヴィ市街の奥に住居を構えるという事は、オラヴィの法を決定する《オラヴィ市民議会》において強い発言力をもつ人物を証明する。
私は、さっきまで対面していた男を思い出していた。
アーティストになれない理由が本当にあるとするならばいったい何故? 商人たちの取り決めと言っていたから、商売敵や工房の営業妨害とかの理由しか思いつかない。もちろん私がそんな事をするわけがない。
私は軽く頭を振って思考を払った。
わからないものを考えても仕方ない。それとなくラーラにでも聞いてみよう。私の噂についても調べてみればヒントがあるかもしれない。
嫌な事を頭の隅に追いやって楽しい事を思い浮かべる。
さて、家に帰ったらどんな夕食をつくろうか。ラビスがいるから今日は奮発した料理にしよう。炙った豚肉、玉葱のスープ、じゃがいももあったかな……家に帰るのが楽しみだ。ささやかな楽しみを胸に、私は旧市街へと帰途についたのだった。