第八章

オラヴィ市民の住む街はオラヴィの港から一直線に伸びる大通りを中心に造られている。大通りに面した場所には商人ご用達の食料品店や細工物屋が立ち並び、大通りから路地へ逸れると庭付きの商人の邸宅がずらりと並んでいる。
  特に大商人と称されるほどの者になると屋敷の広さや大きさもとてつもない。屋敷の屋根や壁は職人の石工彫刻で惜しげもなく飾られている。門扉には屈強な門番が立ち、盗賊の監視もおこたらない。庭の木々は綺麗に整えられ、人工の河川を作り、木陰にいくつものテラスを造る。有り余る金を湯水の如く注いでいるのが一目でわかる。
  しかしながら、私の目の前にあるライナス・オルブライトの屋敷は大商人と呼ばれる人々の屋敷とは趣きが異なっていた。
  まず、門番がいない。鉄柵を編んで造られた鉄門があるだけだ。鍵は内側から空ける仕組みになっているようだけれど、屋敷を囲う壁は私の背丈を二倍にしたくらいなので、乗り越えられない事もない。
「おや? お前さん……この屋敷に何の御用かね?」
  しばらく門の前で立ち尽くしていると、屋敷の庭のほうから声を掛けられた。庭の低木を剪定していた庭師が声を掛けてきたのだ。腰の曲がった老人で腰に細長い袋を提げている。
「私は雇われた専属楽士だけれど、誰か話のわかる人を呼んでもらえるかしら?」
「ああ、話は聞いとるよ。フィレスだったか。わしについてきなさい」
  庭師は納得してすんなりと門を開けてくれた。私は微かな驚きをもって庭師の行動を受け止めた。
  庭師は教養や作法なども教えられていない人が多い。それは庭師の仕事が『庭の手入れをすること』だからだ。来客を出迎える事などないし、ましてや屋敷の来客が誰であるか知っているはずもない。
  商人の屋敷には無数の使用人や世話人がいる。門番や庭師もそうだけれど、屋敷の中を整えるメイド。メイドを指揮するメイド長。馬車を動かす御者。料理人もいるだろうし、献立を決める料理長も当然のようにいるはず。さらに、すべての使用人を管理する執事もいる。
  それぞれに役割があって商人の屋敷で働いている。専属楽士となると屋敷の中では妾と同等の地位がある。執事辺りが直接で迎えると思っていたから少々拍子抜けしてしまった。
「おかしいかね? わしのような老いぼれ庭師が執事の真似事をするのは」
  前を歩く庭師の老人が頭だけこちらを振り返る。庭師の老人の顔には私のような反応をする客人が初めてでないことを物語っている。
  私はあけすけなく言い放った。
「かなりね。商人の屋敷らしいとは言えないんじゃないの?」
「っほっほっほ、正直な娘じゃ。この屋敷は常に人手不足だからの、庭の管理と門番、そして話のわかる御仁の案内役もこの庭師の爺が勤めさせていただいておる」
「話のわかる御仁ね……」
「お前さんはいままでの客人の中では珍しいほうじゃ。大抵は頭ごなしに罵るか、無視して通り過ぎてしまうもんじゃ」
「はは、そりゃどうも……」
  庭師の老人と他愛なく話している合間も忙しなく周囲の様子を観察していた。
  清涼な涼しさを感じる庭は品のあるつくりになっていた。木漏れ日のある石畳の道が続いていたり……、足を休ませるテラスの傍に芳しい花の寄せ合わせをつくっていたり……、透き通るような水が溢れてくる大きな水瓶を置いていたり……、豪勢ではないけれど見るものを和ませる空気が生まれている。
  この庭造りを庭師の老人一人であれば賞賛に値する技術だろう。先程から他の庭師を見かけないことから察すると、この庭は庭師の老人の〝作品〟ということになる。
「気に入ってもらえたかの?」
「え? そうね。とても感じのいい庭だと思うわ。でも、一人でこれだけの広さを手入れするのは骨が折れそうね」
  庭師の老人はあからさまに失望した仕草でため息をつく。
「お前さんはほんとに楽士かね? わしが一人で手入れをしているように見えるのかね?」
「え――?」
  いま歩いてきた木漏れ日の道を見返る。
  樹木の枝に押しかけたドライアドの姿があった。手の平に載せた深緑の葉を吹雪のように散らせていく。水瓶からはウンディーネが泳いでいて舞い落ちた葉であそんでいる。葉と花弁と森の香りを運ぶシルフたちが風を巻いて木々をそよがせていた。
  庭師の老人はニカッと子供のように笑って、ソウル・アスピアのクラリネットを振って見せた。腰に提げていた袋は笛が入っていたのだ。
  私のように子供たちに無償で楽器を教えてあげるような人がゴロゴロいるはずがない。この庭師の老人は少なくとも裕福な家庭に生まれ楽器の手解きを受けられるような身分を持っているに違いなかった。楽士としての腕前は言わずもがな、というやつだ。
「あなたは……庭師なんかじゃ……――」
「いんや、わしはただの庭師。ただし。ここの商人の目利きは確かってことだけは保障できるの」
  庭師の老人は呵呵と笑いながら先を歩いていく。私はしばしの間、呆然とそれを見送ってしまった。呼ばれて我に返りあわててあとをついて行く。
  庭師の老人を追いかけて走っているとき、屋敷の窓ガラスに人影が見えた。窓際に立っているのは若い女性だった。
  絹糸を思わせる髪を垂らしている。菫色のドレスをまとう姿は華奢で儚い印象を受けた。手にはヴァイオリンを持っている。楽器を使う嗜みがあるのだろう。ライナスの妻かもしれないと思い、目線を外して小さく頭を下げた。
  この屋敷は普通の商人の邸宅と考えると戸惑うのがよくわかった。庭師からこの有様なのだから、メイドや執事はどんな人物が出てくるのか。私は底知れない不安を抱えつつ屋敷へと足を踏み入れた。
  庭師の老人は屋敷へは入ろうとせず、私を中へ押し入れると扉を閉めてしまった。出迎えはない。私は広大な玄関で一人取り残されてしまった。
  床は斑模様の滑らかな石材が敷き詰められている。傷一つない、汚れ一つない、輝くように磨かれた床だ。私は汚したりしないだろうかとビクビクしながら歩みを進める。どうにも綺麗な場所と言うのは苦手だ。
  誰もいないのでどうすればいいのかわからない。とりあえず待つ事にした。
  玄関口から二階へ上がる階段が大きく開けており、大きく弧を描く木製の階段はまるで翼を広げる鳥のようだ。奥へと続く廊下は角で折れているため、先に何があるのかはわからない。ただ目に見えている廊下には十の扉がある。少なくとも十部屋はあるということだ。屋敷の広さを考えるといったいどれだけの部屋があるのだろうか。
「来てくれたか! 遅いから迎えを出そうかと思っていたぞ」
  二階の階段からライナスが現れた。ゆったりとしたローブを羽織っている姿だった。この格好がライナスの普段着なのだろう。
「遅いっていわれてもね。オラヴィ市街の時計塔だって三時は指していないわよ。もしかして、私が来ないとでも思ってた?」
「ん、いや、そうではないがね」
  私の指摘にライナスは笑いながら首を振る。笑顔を引き締めて真顔に戻る。真剣な眼差しで私の姿を上から下まで見る。それから、困ったようにアゴを撫でる。
「しかし……もう少し色気のある格好はしてこれなかったのかい?」
「うるさいわね。持ち合わせがないのよ! ……スラムに住む人間がドレスなんて買う必要がないの――ッ」
  私は憤然と言葉を返す。
  いまの服装は採集隊に同行するときのような動きやすい格好だ。生地の厚い頑丈なノースリーブシャツに柔軟で動きやすいパンツズボン。胸元には鉄板で補強した革の胸当てを装備している。足は踵まで防護するブーツ。腕はいつものようにガントレットの形をしたソウル・アスピアのピアノを装着している。腰には色々な道具を入れたポーチ。折りたたみ式の長弓、手製の矢、矢筒。愛用の片刃の短刀。
  パッと見れば傭兵のように見える服装だった。理由は単純。楽士の仕事をするときのドレスを着て訪問すれば、喜んで専属楽士に雇われるようで嫌だったのだ。ライナスに対する反抗心というやつだ。
「それはそうだがね。ふ~む、やはりそれっぽい服装をしてもらう必要があるかもしれないな」
  ライナスがポケットから小さなベルを取り出すと一振りする。すると、廊下の奥から黒髪の女性が歩いてきた。ライナスは傍に控えた黒髪の女性に耳打ちをする。
  黒髪の女性は小さく頷くと、懐からオカリナを取り出す。熟練の楽士のような振る舞いでウンディーネを奏でる。ここの使用人は全員楽器を扱うことができるのかもしれない。
「湯浴みの用意をさせるから体を洗ってくれ。適当な服を用意させておく」
  私はギクリとして身を強張らせた。
  体を洗えと意味する事、そして洗った先の行為も説明は不要だろう。覚悟はしてきたつもりだけれど、いざ前にすると気持ちが鈍る。足が震えないように自然とつま先に力を込めてしまう。
「おいおい……、ちょっと待ってくれ」
  ライナスは苦笑いを貼り付けたまま、私から一歩後ずさる。両手を振って否定の仕草をした。
「身構えるなよ。私には妻がいるし君を妾にするつもりはない。専属楽士についての詳しい話は着替えてもらったあとにするよ。……湯浴みの部屋は、彼女に案内してもらってくれ」
「んな――ッ、妾にするつもりがない……って」
「あとだ」
  ライナスが私の言葉を遮る。絶妙なタイミングで黒髪の女性が横手から進み出た。
「どうぞ、こちらへ」
  私に選択権はない。こうなったら細かい疑問は一切忘れて開き直って考えよう、体を洗ってサッパリするのもいいかもしれない。
  浴びれるほどの湯を沸かすのは金持ちだけの特権だ。湯殿を使うにはたくさんの水が必要だし多くの薪がいる。スラムの人々や中流の家庭では、水浴びをしたり体を拭いたりして身奇麗にしている。
  湯浴みができるのは楽しみだ、そのように私は考えることにした。

  湯殿は立ち上る湯気で満たされている。湯殿ももともと広いため湯気に視界が覆われると壁が見えない。まるで、霧の中にいるような気分だ。
  湯殿を照らしだすのはソウル・アスピアの小さな照明だけ、陰影の濃く出る明かりは神秘的な空間を作り出していた。壁には彫刻があり、湯の噴き出口には大きな壷が置かれていて、調度品にも気を使っている。商人というものはどこにでも金をかけるものなのだとしみじみ理解した。
  私は湯船の縁に寄りかかりながら長々と体を伸ばしていた。
「はぁ~~~、いいなぁ……コレ」
  湯に浸かりながら自然に出てきた言葉だった。口では説明しにくいのだけれど、とっても落ち着く。さらに気持ちがいい。体の芯から疲れが溶きほぐれていくようだ。
「気に入っていただけて何よりですわ」
「ひぃ……ッ!?」
  湯殿に突然響いた美声に情けない悲鳴を上げてしまった。誰もいないと思っていたときに受ける不意打ちほど驚くものはない。
「あらあら、ビックリさせてしまいましたね」
  私のいる湯船の反対側から誰かがいざり寄ってくる。湯気を割って現れた人はさきほど窓際に立っていた女性だった。
  体を包み込むヴェールを思わせる髪が湯の中でゆらめいている。緩やかな曲線を描く肢体は惚れ惚れするようで、湯殿の彫像の一つが歩き出したかのような錯覚を覚えた。楽士傭兵シェイラのような芸術品と呼べる美しさを身に着けている。
  一糸纏わぬ姿であるからか、肌の触れ合う距離にある艶かしい体に落ち着かない気分になってくる。上気する頬は湯のせいだけではない事に気がついて意識を引き戻す。
「あの……あなたは?」
  訊ねると、女性は淑やかな笑みを浮かべる。 
「わたくしはライナスの妻、アイディス・フォルトゥナート。アイディスと呼んでください。主人から話は聞いておりますわ、よろしくね……フィレス」
「ライナス様の、奥方様ですね……」
  私は姿勢を正してアイディスと名乗るライナスの妻へ向き直った。私が最も注意を払って接しなければならない人がいるのだ。おそらくアイディスは私の品定めにやってきている。アイディスの人柄によっては、無礼な態度も控えめすぎる態度も悪い印象を与えてしまう。
  どういった言葉を使えばよいのか苦心しながら挨拶をする。
「はい、こちらこそ……アイディス様。今日よりライナス様の専属楽士として雇われる事になったフィレスと申します」
  アイディスはゆっくりと首を振る。
「様なんていいの。アイディスって呼んでくださいな。わたくしとあなたは同い年くらいのはずでしょう?」
「しかし……、私があなたのご主人様に叱られてしまいます」
「ここは普通の大商人の屋敷と同じに考えないほうがよいですわ。主人も堅苦しい事は嫌いな性質ですから」
  そういえば。ライナスに対しては出会い頭から屋敷での顔合わせでもまったく敬意を払わなかった。敵愾心をむき出しにした生意気口調だった。すっかり忘れていたけれど冷や汗ものだ。
  でも、ライナスは何も言ってこなかった。むしろ好ましい態度として歓迎してくれていたような気さえする。
  色々と考え抜いた末に、私は結論を下した。
「……わかりました……。いえ、わかったわ。よろしく、アイディス」
  アイディスに表裏の顔があるのかはわからない。でも、妻と専属楽士の順位は歴然としている。黙って従っておくことにした。
  湯殿から出てくると、私が着ていた衣服は洗濯され、装備はかごの中にひとまとめにされていた。衣服は代わりに置かれていたドレスを手に取ってみたのだけれど、うむむ……複雑な構造でいったいどうやって着ればいいのか皆目見当がつかない。
  困り果てている私を助けてくれたのはアイディスだった。
  アイディスは手早く着替えを済ませてしまうと、私のドレスの着付けを手伝ってくれた。続いて、軽い化粧もしてくれる。
  髪を綺麗にくしで撫で付けて、唇に薄く紅を差し、素顔に薄く白粉を叩く。漆黒の薄生地に銀の意匠を凝らしたドレスは体にピッタリと張り付いているため動きやすい。ドレスの裾は花のように広がったものではなく、足のラインに合わせて沿ったものになっているため、足に絡むけれど歩きやすかった。
「へぇ……けっこう、化けるものなのねぇ……」
  私は等身大の鏡を前にして、映りこむ〝別人〟に素直に感心していた。
「元が良いですから飾り甲斐がありますわ。大商人の皆様方がこぞってフィレスを専属楽士に雇い入れたかった理由がわかりますわね」
  アイディスは世辞のつもりで述べたのだろうけど、私にとっては嬉しくもなんともなかった。顔が良い事で得をすることはある。でも、美人であるからうれしいかと言うとそうでもない。気苦労と妬みと嫉み、煩わしい厄介ごとを引き受ける事を考えるとそれほど良いものとは思えない。
  いまの状況も私の容姿のせいで起きたものだしね。
「私はちょっとした珍獣ってわけね」
  私の口から知らずに失笑が漏れる。皮肉を込めた口調で呟いていた。
「いえ、そんなつもりでは……ごめんなさい。わたくしったら余計な事ばかり……」
  つい、いつもの調子で会話してしまう。アイディスは同い年といったけれど、実年齢で私は十八歳、アイディスは二十歳といった具合だろう。精神年齢的には私が十八歳なら、アイディスは十五歳くらいに感じる。ラビスやレヴィン、ラーラに接するような付き合い方ではアイディスには辛いかもしれない。
「あっはは、冗談よ冗談。そんな気にされると私のほうが困るわ。聞き流してちょうだい」
「はい……」
  アイディスは沈んだ気分を吹き散らすように明るい声を上げた。
「そうでした! ライナスは仕事があるようですし、わたくしと合奏して下さらない? 楽士ならば言葉は交わすよりも、奏でるものではないかしら」
「いいわね。やりましょう――」
  私はアイディスの申し出を快く受けた。
「フィレスはどんな楽器を使えるの?」
「別に、なんでも平気よ。ソプラニーノリコーダーからユーフォニアム。バイオリンからハープまで……ほとんどかしらね。なかでもピアノが一番好きかも」
「それならピアノのある部屋へ行きましょう。そこにはソウル・アスピアの楽器がすべて揃っているからなんでもできますわ。早く行きましょう」
  アイディスは私を誘って部屋を出る。連れだって廊下を歩いていく間、私とアイディスは熱心に談話をしていた。
「ここの屋敷に使用人は何人いるの?」
「ライナスとわたくしを含めて六人ですわ。庭師が一人とメイドが二人、御者が一人。四人でこの屋敷の雑務をこなしてもらっているのわたくしやライナスも自分でできることは自分でやってしまいます」
  私はパッと見えるだけでも二十は下らない扉を見渡してから口を開く。
「それでも人手が足りないんじゃないの。この屋敷の部屋をメイド二人で掃除するのって無理があるわよ?」
「ええ。ですから、使わない部屋は鍵を掛けて閉め切っていますの。お客様を招く部屋やいつも使う部屋だけは片付けと掃除をしてもらっているわ」
「この屋敷の人は楽士だったの?」
「そうですわ。でも、どのようなお仕事で楽士の力を使っていたのかは存じませんわ。それは聞かないのが約束ですから」
「ふぅん、そうなんだ」
  言葉を交わすうちに廊下が途切れる。廊下は丸天井の広間へと繋がっていた。広間は八本の石柱で支えられていて、柱の立つ土台から段差が設けられており、緑の溢れる庭へと降りられるようになっていた。
「う、っわぁ……」
  広間の丸天井と壁には色鮮やかで煌びやかな壁画が一面に描かれていた。壁画は物語の形で順番に描かれている。全世界の子供たちが寝物語に聞かされるおとぎ話、〝女神アスピアの創世神話〟だ。世界に群生する〝楽器〟の名前は創世の女神から由来されている。
  神話は次のような語りがある。
  〝女神アスピアは神々の戦いに嘆き、神の国を出て世界の闇へと足を踏み入れた。世界の闇には、水も、土も、火も、風も、なかった。
  そこで女神アスピアが右腕を振るとホルンの音が鳴り風が吹いた。
  左腕を振るとフルートの音が流れ水が湧き出た。
  右足を踏み鳴らすとティンパニの音が響き土が盛り上がった。
  最後に左足を軸に一回転すると、ハープの音が広がって火が噴きあがった。〟
  女神が使っていたとされる楽器はすべて世界に生えている。そのため神話は真実であると世界では固く信じられている。
「わたくしもここを初めに目にしたときは大変驚きましたわ……、夢見心地で立ち竦んでしまいましたもの」
  私は黙ったまま頷く。アイディスの気持ちがよくわかる。ソウル・アスピアの照明の眩さに目が痛いのも忘れて天井を見渡していた。
  広間の中央にはソウル・アスピアのグランドピアノとパイプオルガンが設置されていた。壁画の邪魔にならないように他の楽器も飾られている。すべてシンフォニア工房製のソウル・アスピアの楽器だ。どの楽器もティファート金貨二十枚は下らない。
「フィレスさんはどの楽器をお使いになりますか?」
「そうね……、やっぱりピアノかしら」
  黒い滑らかなピアノに触れるとひんやりと冷たい。鍵盤に指を滑らせると広間に音色がこだました。素晴らしい一品だ。音の一つ一つが心に染み入るようだった。私が愛用しているガントレット型のピアノとは質が違いすぎる。
  アイディスはヴァイオリンを取った。弓を構えると弦の上にのせる。
「何を合奏いたしましょうか」
  私は天井を見上げて即断する。
「絵もあることだし、創世神話の曲がいいんじゃない。〝神曲 ミューラ 一〇一二〟とか」
「ではそれでやりましょう。主旋律はフィレスさんにお願いしてよろしいのかしら?」
「わかったわ――じゃ、いくわよ」
  深く息を吸うアイディスの呼吸音が聞こえてから、私は鍵盤に指を落とした。
  〝神曲 ミューラ・ネフェリティア 一〇一二〟
  いまから千年以上前に世界を旅していたといわれる伝説の吟遊詩人、ミューラ・ネフェリティアの作った曲だ。一〇一二というのはミューラのつくった曲を区別するための番号であって正式な名前ではない。ミューラは即興で曲を演奏して、名前もつけず、同じ曲は二度と演奏しなかった。
  ラビスとレヴィンとで合奏した曲も〝神曲 ミューラ〟だった。どうしてミューラの曲が無数に伝えられているのかと言うと、ニンフを奏でやすい旋律だからだ。ニンフを奏でるためには奏者のイメージと精神力に左右される。炎であったり水であったり、ニンフをイメージしやすい旋律をミューラは容易く作り上げる事ができたのだ。
  私も作曲はするけれど、構成や並びをよく考えないとニンフを奏でることはできない。また、せっかく上手に奏でられても予想外のニンフを呼んでしまうことがある。
  世界にいるすべての楽士はニンフを奏でやすい曲を持ち歌として使っているはずだ。その方が手っ取り早いし、ニンフを早く奏でられる。いまのような事を踏まえると吟遊詩人ミューラがどれほど偉大な人物だったかも理解できるだろう。
  私とアイディスの奏でる律に誘われて一筋の風が吹いてきた。風に巻かれた青い花弁も一緒に舞いこんでくる。旋律に誘われてシルフとドライアドが姿を現した。
  前奏も終えていないのにニンフを奏でることができるなんて。私は鍵盤を叩きながらアイディスの実力を認めていた。というよりは、ありえない事態だった。私とアイディスは出会ったばかりなのに……信頼も信用もないアイディスと私の関係を支えているものはなんだろう。
「何も言わないんですのね……」
  アイディスは弓の弾きにあわせて左右に体を傾けている。
「何も……って?」
「不思議でしょう? どうしてこんなにも合奏が上手くいくのか。心が通っているわけもありませんのにどうして合わせられるのか」
  アイディスはこちらを窺うように瞳を瞬かせた。私は鍵盤に指を踊らせながら自然に受け応える。
「別に。不思議だけど、どうでもいいことじゃない?」
「あら? どうしてかしら」
  アイディスは目を丸くして首を傾げていた。
「良い合奏ができるなら相手が誰でもいいわ。上手くいかなくても上手くいってもどちらにしても、合奏をしている間だけは幸せだから。アイディスが演奏が楽しくないの?」
「もちろん楽しいですわ」
「なら、別にいいんじゃないの?」
「私が何者でも気にしないってことですか?」
「そうよ」
  アイディスは嬉しそうに目を細めると幸せそうに笑う。
「……そうですか。ありがとうございます……」
  アイディスの弓がピタリと止まると、空気を震わせるような小さな音がしだいに消えていく。私が鍵盤から指を浮かせる。アイディスが弓を弦から離す。
「素晴らしい合奏だな、感動したぞ」
  パチ、パチ、パチ、と小気味のよい音が広間に響いた。私とアイディスが揃ってそちらへ振り向いた。いつの間にか広間の入り口でライナスが拍手をしていた。
  柱に寄りかかっていたライナスがこちらへ歩み寄ってくる。私はピアノの椅子から立ち上がろうと腰を浮かしかけるが、ライナスは手を振ってやめさせた。
「ああ、座ったままで構わないよ」
  ライナスは部屋の隅に置かれていた木彫りの椅子を持ってきて二つ並べる。アイディスを招いて先に座らせると三人で輪になって向かい合った。
「仕事が一段落したのでね。君を専属楽士に雇った話をしようと思っているのさ。楽にしてくれ」
「さっき、妾として扱うつもりはない、と言っていたことと関係があるのよね」
「そうだ。君を専属楽士に雇った理由は……妻を、アイディスを守って欲しいからだ」
  ライナスは横に座るアイディスを見やる。アイディスは申し訳なさそうに肩を落とす。
  私は深々とため息をついて、昨晩の苦悩と決心を思い返して不満をぶちまける。
「それなら楽士傭兵として雇えばいいじゃない。まったく紛らわしいわね。どうしてそんなに回りくどい……ッ! ……そうか。楽士傭兵は対岸の砦に集結させるのよね」
  ライナスは眉間を押さえながら、喉を震わせるように笑っていた。
「情報は漏れないように商人たちの間で徹底したはずなんだけどね……。驚いた地獄耳だ。その通り、楽士傭兵として雇うとこの屋敷にはおいておくことができない。だから君を専属楽士として雇ったわけだ。専属楽士は『楽器も弾ける妾』の印象が強いから目暗ましにはちょうど良い」
  確かにライナスの考え方は妙案だ。しかし、根本的な解決策としてはずいぶんと抜けている気がする。私はその部分を指摘してやった。
「そんなにアイディスが大切ならオラヴィの街から逃がせばいいじゃない。あんたなら屋敷をいくつも持っているんでしょ」
  ライナスは躊躇い、すぐには口を開かなかった。
「……そうしたらヴァルデマル帝国軍までついてきてしまう。なんとしてもここでヴァルデマル帝国軍を撃破したいのだ」
「……どういうこと。ちゃんと説明してよ。まるでアイディスがヴァルデマル帝国に関係があるみたいじゃない」
「話さないと駄目なのか」
「隠さずに話す気がないのなら専属楽士の仕事を断らせてもらうわ。それに受けるにしても、知らない事があると護衛が失敗するかもしれない」
  ライナスはため息をつく。観念したようにすべてを語り始めた。
「ヴァルデマル帝国軍が都市国家群に攻め込んできたのはアイディスを追ってきたからだ。アイディスはヴァルデマル帝国の最新鋭のソウル・アスピアの技術を持っているんだ。だから、抹殺しにきた」
「……なんですって……ッ!」
  私は声を押し殺して叫んでいた。
  子供たちが怪我をしたのはアイディスのいたから。〝カーヴァンクル〟を解散してレヴィンが傭兵になるしかなかったのはアイディスのいたから。私が専属楽士に雇われなければならなかったのはアイディスがいたから。オラヴィの街やほかの都市国家が攻撃されたことだってすべてアイディスがいたから。
  私は掴みかかりたい暴力的な衝動を抑えて、刺すような憎しみを罵声に変えた。
「どうしてそんな技術を持って逃げてきたのよ!?」
  アイディスは端正な顔を歪めて反論する。眉を取り上げて叫ぶ。
「好きで持っているわけではありません……! わたくし自身がソウル・アスピアの技術を結集して造られた〝楽器〟なんです。私だって好き好んでこんな体になったわけではありませんのよ……ッ!」
  私がわけがわからないと仕草を見せる。すると、アイディスはやおら立ち上がって構えた。
「百聞は一見にしかず……見てもらったほうが早いですわ」
  アイディスは両腕を水平に姿勢をとって片足を高く上げた。片足を踵から振り下ろし、軽やかな足捌きで踊り始めた。
  激しく小刻みにカスタネットが打ち鳴らされ、ギターの低い音律がリズムをとる。情熱的な音楽とダンスが繰り返された。
「それはソウル・アスピアか何かの服を着ているんじゃないの?」
「では、これならいかが?」
  私の言葉にアイディスは仰天するような行動に出た。アイディスはドレスの紐を片手で振りほどいて脱ぎ捨ててしまった。白磁のような肌が灯りの下に晒される。
  ライナスは静かに背中を向けて文句を言う。
「はしたないぞ、アイディス。淑女たるもの人前で易々と肌を晒すべきではないよ」
「信用してもらうには一番早い方法ですのよ。あなただって女の裸をみて赤くなるような年頃ではありませんでしょう?」
  アイディスは下穿きから靴まですべて脱ぎ捨てて部屋の隅へ放り投げた。人前で布一つ見につけていない裸になることは並々ならぬ勇気がいる。アイディスの言葉を信用しないわけではないけれど、裸になるように強要してしまった事に罪悪感を覚えていた。
  居心地の悪い気分を味わっていると、アイディスがふたたび踊りの構えを取る。
「これでわたくしは何も身に着けていないですから。踊りますよ」
  先程とはテンポの違う静かな踊りにするようだ。アイディスが直立の姿勢から両腕をゆっくりと広げていく。両腕からヴァイオリンの細い音が聞こえてきた。滑るような足運びで動いて、舞い踊る。
  私はアイディスの肢体をまじまじと見つめていた。何も持っていないし、着ていない、隠し持っている事もできない。それなのに……、心を震わせる美音がアイディスの全身から奏でられていた。
「ゴメン、わかったわ……信用する。アイディスの言う事を信用するわ」
  アイディスは踊りをやめて服を着ていく。
「私は〝オートマター〟ですわ。人間の内臓や骨をソウル・アスピアの楽器に入れ替えて造られた人造の人間。ヴァルデマル帝国の兵器なんです」
  沈黙に場が静まる。アイディスの衣擦れの音だけが広間に聞こえている。そこへ、足音が近付いてきた。廊下から現れたのは、私を湯殿まで連れて行ってくれた黒髪のメイドだった。
「ライナス様。大商人のメローネ様がいらしています。玄関口ですぐにお帰りになるようですが、いかがいたしましょう?」
  ライナスは盛大に嫌な顔をしてみせる。どうやら会いたくもない客なんだろう。私もそういった経験がある。
「さっそく監視に来たようだな……まったく、あの女好きめ。フィレス、ちょっと来てくれないか」
「私? どうしてよ?」
「メローネは君が専属楽士として働いているかどうかを確かめに来たんだよ。着替えてもらって正解だった。なかなか似合っているぞ」
「ありがとうございます、ご主人様」
  私はおどけてドレスの裾をつまんで一礼してみる。ライナスは手を招いてついて来るように促してきた。
「ふざけてるな。ついてきてくれないと私も君も困るんだ。私が楽士傭兵を無断で雇っていると知れたのなら、組合から追放される。財産没収や工房撤去の命令が下されるんだ。君の要望も叶えられなくなる」
「わかったわよ……」
「いってらっしゃい、がんばって下さいね」
  アイディスは柔らかな微笑みで小さく手を振っている。無理やりに送り出されてしまった。こうなったらライナスについていくより他はない。黙ってライナスに付き従うことにした。
  ライナスと私は並んで廊下を進んでいく。
  ライナスのほうが背が高く、ちょうどレヴィンと同じくらいの丈がある。歩幅はライナスの方が大きいため私は小走りでついていかなければいけなかった。
  だが、ライナスがそれに気がついたのか歩調を落としてゆったりと歩いてくれるようになったため、並んで歩いているのだ。なかなか紳士的な男だ。
「君の友人にレヴィンと言う名の青年がいるだろう。採集隊〝カーヴァンクル〟に所属していると聞いている。いまから呼べないか?」
「いるけど、対岸の砦に昨日から傭兵として詰めているはずよ。どうしてそんな事を聞くの?」
「強い味方が一人でも欲しいからだ。君やレヴィンはオラヴィの中ではかなりの有名な戦士だった。声を掛けに言ったものは何人もいると思うがね」
  私やレヴィンが頼りにされる戦士だなんて笑ってしまいそうだ。私に護衛の話はきたことがない。レヴィンはどうなんだろう。あんまり自慢や悩みを話さないからね。でも、レヴィンの剣の腕前は保障する。
「ところで、本当に対岸の砦にいったのか? 確かなのか?」
「当たり前でしょ。見送りまでして、船に乗ったのを見たのよ」
「レヴィンは対岸の砦にはいない。今日の昼間に全員を確認させたからな間違いない」
「数え間違いじゃないの?」
「ありえん。私の部下は優秀だ。人の確認程度の仕事でミスはない」
「そんな……レヴィンは臆病者なんかじゃない。戦いが嫌だからって逃げることなんて考えられないし、砦にいないにしたって一体どこへ行くって言うの」
  もしかすると、〝カーヴァンクル〟全滅の事を聞いて砦から駆け戻ったのかしら? いやいや、レヴィンは仕事を放り出すような男じゃない。
「いない男に論議をしても意味はない。何か思い出したら教えてくれ」
「あ、そうだ」
  私は閃くように思い出した事があった。とても大切な事なのに忘れていたなんて驚きだ。
「思い出したのか?」
「違うわよ。ねぇ、私がアーティストになれない訳は教えてもらっていないわ」
  私が話を振ると、ライナスの横顔に翳が差した。
「そうだったな。しかし……君にはこの上もなく辛い話になるぞ。できれば話したくはない。私も話しているだけで気分が悪くなる」
  吐き捨てるようにライナスは言葉を並べたが、私はまったく躊躇しなかった。たとえ後悔したとしても潰れてしまうような事はあってはならない。私がどう向き合うかが大切な事なのだ。
「話すのが約束でしょ?」
  私はライナスを見上げて真摯な気持ちで瞳を合わせた。ライナスは、長い話になると断った上で結論から触れた。
「……原因は君の父上だよ」
「父さんが!? どうして?」
  ライナスは歩く速度をさらに落とす。散歩でもするような足どりで進む。
「君の境遇もすべて父上が原因だが……まぁ、悪いのは商人たちだな。君の父上の工房で製造されるソウル・アスピアの楽器は大変な出来映えだった。いまの私や他の工房も造れないだろうくらいにね」
「そうなんだ……父さん……」
  ライナスが絶賛する楽器を父さんが造っていた。それを聞かされると心の中が温かくなっていくような気がした。記憶に残る父さんを誇りに思う事ができた。
  ライナスは先を続けた。
「オラヴィの街では楽器工房を持つ商人の組合がある。取引や商売のやり方、場所や航路なども決められる。特に技術面では公開することが基本だった。オラヴィの街では共に工房を大きくするのが基本だからね。ところが君の父上は組合に入らなかった。君の父上は楽器を作ることが趣味であり生き甲斐であったから商品として売り出すことはほとんど考えていなかったのだ」
  確かにそうだった。仕事よりも私に楽器の造り方や演奏を教えている時間の方が長かった気がする。造ったものを工房に並べておくのが常で、たまに吟遊詩人やアーティスト、専属楽士の人に売っているのを見ていた。
  ライナスは声のトーンを落としていく。
「組合はそれが許せなかった。工房の技術が欲しかったこともあるし、商人によっては君の父上を雇い入れたいと考えるものもいた。だが、君の父上はどのような条件にも首を縦に振らなかったのだ……だから、殺された」
  ライナスの声は震えていた。話しているだけなのに、行われた所業に心の底から憤っていた。静かな怒りを湛えながらライナスは話し続ける。
「君の父上は妬みの強い商人に殺されたのだ。そして、商人はアーティストであり若さと美貌も持ち合わせていた君の母上を脅迫し、専属楽士になるように強要した……。下種の考える事だ。口上はだいたいわかる……『娘の命と将来はないぞ』とでも脅したんだろう。君の母上は商人の専属楽士になることを選んだ。君の母上を手に入れるついでに工房の技術も手に入れたかったようだが、それは手に入らなかった。君の父上は殺される前に口を割らなかったし、君の母上は知らなかった。唯一、君が教わっていたようだけれど商人はそこまで頭が回らなかったらしい、誤算だったな」
「母さんが……私のせいで」
「商人の誤算はまだある。君の母上を専属楽士に雇い入れたのは良かったが、他にいた妾と争いになってしまい毒殺されてしまったのだ」
  母さんの死に際の光景はいまでもありありと目の前に蘇ってくる。
  古びたベッドに横たわる母さんはひどくやつれていた。体は痩せて細くなり、肌は白蝋のようだった。時々咳き込むとシーツを真っ赤に染めるほどの血を吐いていた。あんなに健康だった母さんがどうしてそんなになってしまったのか、八歳だった私には理解できなかった。
  私はベッドの傍に座り込み、ずっと母さんの胸元に縋っていた。母さんはそんな私を抱き寄せて頭を撫でてくれていた……「ごめんね、フィレス。ごめんね……」と、ずっと、ずっと、ずっと、死んでしまうその時まで私に謝り続けていた。
  何を謝ることがあるのよ。死んでしまったのは私のせいなのに、謝る事なんかなかったのに。謝らければいけないのは私のほうだったのに。
「商人は君の母上が死んでからこんどは君に目を向けるようになった。そこで攫ってこようと考えたわけだ。母親が美人ならば娘も美人になると考えたんだろう。君を襲った強盗はその商人の差し金だ。だが、商人は三度目の誤算が起きた。強盗の人攫いは上手くいかず、さらにスラムのギルド連中から釘を刺されたのだ。さすがに商人も無茶をやりすぎたと思い手を控えるようになった」
  あの強盗たちも商人の差し金だったとはね。まったく気づかなかったわ。レヴィンが来てくれなければ私は誘拐されていたんだと思うとゾッとしてしまう。
「それから八年が経ち、君は成長しアーティストを目指していることを商人が知った。商人は君を一目見て妾として雇おうと決めたんだろう。三年ほど前からアーティストの推薦候補に上がる君を選考から外すように圧力をかけるようになった。若すぎる、とか、センスがない、とか色々難癖をつけてね。そして君が働く店に足しげく通い、専属楽士に雇う書状を贈り続けている……」
  ライナスは目蓋を落として長々と息をついた。
「これがすべての顛末だ。ここまでの話は私が調べた事と、推測も入っている。誓って言うが私はこの事柄に関しては一切知らない。私が商人としてこのオラヴィに住み始めたのは四年前だからね」
「私のすべてを壊した商人の名前はなんていうの?」
「復讐をする気なのか?」
  私はのろりと頭を振る。
「しないわよ……、たぶん」
  母さんを殺した妾はどうなったのかは知らない。目の前にいるならば殺したいかもしれない。私を襲った強盗はレヴィンと一緒に皆殺しにしたから恨みは晴らした。すべての黒幕である商人に怒りをぶつけたい気持ちはあるけど、激情に突き動かされるような気分にはならなかった。
  私は虚脱感に崩れ折れそうだった。
「どちらでも構わないが、私の専属楽士でいる間だけはやめてもらいたいな」
  私とライナスは玄関口へと到着した。玄関口には小さな椅子と机が用意され、三十歳くらいの女性がお茶を飲んでいた。格好は派手で、髪を結い上げて黄金のくしを差し、衣服もひと財産はありそうな宝石を散りばめた豪勢なものだった。あの女性がメローネらしい。
  ライナスは見えないように指を差して言った。
「君を欲しがっていたのは、大商人メローネだよ」
  私の心臓がドクンと跳ね上がった。血液が逆流していくような悪寒が這い回っていく。ライナスが歩き出してもしばらく私は立ち尽くしたまま動く事ができなかった。
「メローネさん――!」
  玄関口へ進み出たライナスは両腕を広げて歓迎の意を示す。外面だけは好意的に大商人メローネへと歩み寄っていった。
「わざわざお越しいただいてありがとうございます。部屋にお通しするように伝えたはずですのに……玄関口で待たせてしまうとは申し訳ない」
  大商人メローネは扇でパタパタと自身を扇ぎながら立ち上がる。
「気にしないでちょうだい。アタシもすぐにお暇するから、アタシはライナスくんが買い付けたものに興味があるのよ~、どうして横取りするのよぅ! ひどいじゃない?」
  口調は甘えたようなものでありながら瞳の鋭さが違う。いつの間にアタシの物に手をつけるようになったのかしら? まったく油断も隙もない、と顔に書いてある。獲物を横取りされた虎のように敵意を潜ませていた。
「せっかく他の商人に手を回して譲ってもらおうとしていたのに、ライナスくんが店から締め出すやり方にでるんですもの。先に手を打たれて驚いちゃったわぁ」
「はっはっは、いや、申し訳ない。楽器好きの妻の要望もありましてね。是非ということで少々強引に話を進ませてもらいました」
  メローネはライナスと話しながら私の前に立つ。メローネは女性でも小柄な体躯をしてため、私と比べると頭一つ半は違っている。私の周りを歩きながら無遠慮に眺め回す。
  私は目を合わせないようにしながらメローネの動きを注意深く見守っていた。
「ふぅん、飾るとかなりのものねぇ……思っていた通り――」
  私は思わずぎゅっと拳を握り固めた。よく似ている、などと言われたのなら、私は場をわきまえず掴みかかっていたかもしれない。
  メローネが私の肩に手を伸ばす。反射的に指先を払いのけてしまった。パシンッと痛々しい音が異様なまでに玄関に響いた。ひゅ~っとメローネが口笛を吹く。叩き落とされた掌をさすりながら半歩下がる。
「…………ごめん、な、さい……」
  私は冷や汗を流しながら、かすれた声でやっとそれだけ言えた。
  メローネはまったくの無表情のまま私の瞳を覗き込んでいたが……歯を見せて笑うとクルリと踵を返した。
「お帰りで?」
  ライナスが訊ねるとメローネは扇で口元を隠しながら笑っていた。
「ちょいと悪戯しようかと思ったけど、やめとくわぁ。噛みつかれそうだものねぇ。怯えた顔が見れただけでも満足よん」
  玄関口から退出するとき、メローネは捨て台詞のように言い放つ。
「あなたが何かヘマをやって借金をつくったら、真っ先にその娘を貰いにくるとするわ。……じゃあねん」
  扉が閉まってメローネが立ち去ったのを感じ取って、ようやく私は緊張を解いた。ライナスが申し訳なさそうに口を開いた。
「すまないな。もう少し強気に出れればいいんだが、メローネは実力者でね。私も頭が上がらない」
「いいわよ……あんたが私を専属楽士にしなかったら、あいつが私を買いとっていたんでしょ? 考えるだけで吐き気がするわ……」
  むしろメローネのような接し方が〝正しい専属楽士の扱い方〟なんだろう。あんな目にあわないですむこの屋敷は天国のようなものだ。
「そういって貰えると気が楽になる」
  壁に掛けられた水時計は夜の十一時を差そうとしていた。この屋敷に来たのが午後も半ばだったから六時間ほど過ぎた。意外と時間が経つのは早いものだ。
「今日はもういいから休んでくれ。君の部屋は用意してある。ヴァルデマル帝国が攻め入ってくるまでは君の仕事は特にないからね。ゆっくりしていてくれ」
「そうさせてもらうわ」
  体はそれほど疲れている感じがないけど、休めと言われたのならゆっくりとしていたい。
「ああ、でも」
  階段に足をかけた私に声が掛かる。ライナスへと振り向く。
「私は仕事で屋敷を離れている事が多い。アイディスが寂しいらしくてね……使用人をからかって遊んでいるんだ。使用人たちに平穏な日常を与えてやりたいと思うのならば、アイディスの相手をしてやってくれないかな」
「それくらいならお安い御用よ」
  そう言って私はあてがわれた部屋へと引き上げていった。いや、実はそう見えるように行動しただけだった。私はアイディスにすぐにでも確かめなければならないことがあった。
  アイディスの部屋を訪ねると、すでに寝室に潜り込んでおり眠りに入ろうとしているところだった。真夜中の訪問にアイディスは嫌な顔一つせず、寝間着のまま酒肴を調えてくれた。
「オートマターについて、ですか? さきほど説明したこと以外にはあまり知っている事はありませんけど……」
「オートマターについて、じゃないの。アイディスみたいにオートマターになった人はどんななのかを聞きたいのよ」
  アイディスは薫り高いワインで舌を湿らせる。
「そう言えば……フィレスは妙な事を言っていましたね。〝ソウル・アスピアの服〟と」
  私は小さく頷いてみせる。
「ええ。私はアイディス以外に〝ソウル・アスピアの服〟とやらを持っている人を二人知っているわ。二人ともこの街にいる」
「名前はご存知ですの?」
「一人は楽士傭兵と言っていたわ。名前は、イルシェ・ブーランジェ」
  アイディスの変化は劇的だった。柔和な表情が一気に険しくなる。
「イルシェ――ッ!? 冷たい感じのする、男前の女性じゃないかしら?」
  素晴らしく的確な表現だ。説明を受けたからイルシェを見たのならば、誰もが得たりと納得するに違いなかった。
「知り合いなの?」
「ヴァルデマル帝国軍、オートマター軍団の連隊長です。この都市国家を攻撃しているのが連隊規模のようですから事実上の最高指揮官ですわ。わたくしと同期で、かつては親友でした」
  私の切り出してきた話題がオラヴィの街に係る大事だと感じて、アイディスは身を乗り出して訊ねてくる。
「もう一人は誰なのです?」
「森の奥であった旅人よ。名前はラビス」
  今度のアイディスは首を左右に振った。
「……聞いたことがありませんね。でも、オートマターの製造は数千体にも上るはずです。わたくしの存じ上げない方がいらしてもおかしくはありませんわ」
  ここで会話は一旦打ち切られた。私は得た情報を正確に整理してまとめておきたかった。アイディスも思うところがあるようで黙っている。固めたチョコレートを摘みながらワインに浮かぶ波紋を眺めていた。
  ほろ苦いチョコレートを齧りながら疑問を口にする。
「オートマターの脱走兵は多いものなの? 仮にラビスもオートマターだとして考えると、ヴァルデマル帝国軍からかなりの数のオートマターが逃亡している事になるんじゃないの?」
「逃亡はほぼありえません。オートマターは人間を改造して作り出します。改造中に死んでしまう人が多いので人は少ないのですけど……、志願者を募るのです。わたくしやイルシェは家族に裕福な暮らしを提供してもらう事でオートマターに改造されました」
  ヴァルデマル帝国は難民や移民が多いと聞いている。アイディスやイルシェの境遇はわからないけれど貧しい生まれだったに違いない。手っ取り早く職を得るためには、男なら兵士になり女ならば体を売るのが常だ。オートマターへの志願も似たようなものなのかもしれなかった。
「でも、何で逃げたのよ? 家族は?」
「逃げたわけではありません。輸送船団が襲撃されて船外へ放り出されたのですから……、戦死扱いであったはずです。生き残ったのは本の偶然ですわ。家族ですが……、わたくしには十歳になる弟が。イルシェには九歳になる妹がいました。いまもヴァルデマル帝国で暮らしているはずです」
「話を戻すわね。ラビスがオートマターの逃亡兵である可能性はあるのかしら?」
「ないとは言い切れません。しかし、オートマターには個人差があって、絶大な力を秘めているために単独行動をしている兵士もいるのです。そのラビスと言う方が任務を帯びたヴァルデマル帝国兵である危険もありえますわ」
  ラビスの楽士としての力は並じゃない。絶大な力を持っていると言っていい。あの巨大な炎の鳥も従えている。ヴァルデマル帝国の単独行動中の兵士であったとしても不思議はない。
  でも、……ラビスがそんなことをする人なのか、と問いかける心の声があった。たった数日間の交流だったけれど、ラビスは優しかった。無邪気に笑いかけてくれた。慰めてくれた。私を理解してくれようとしていた……私もラビスを理解しようとしていた。
「私は……」
  それなのに、ラビスを疑うの? 信用できないの? 見殺しにするの? 内なる声に胸が締めつけられる。頭がグラグラと揺れて、気持ち悪くて吐きそうになる。
  ラビスとイルシェは接触している。もし、ラビスがオートマターの逃亡兵なら危険が迫っている。イルシェはラビスを捕らえようとするだろう。昨日に出会っているのだから行動を起こしていてもおかしくない。
「私は……ッ」
  迷っている暇などないはずなのに! 行動できない。もどかしさに奥歯を噛みしめて焦燥に耐えていた。
「フィレス。考えないで」
「わたくしの事やライナスの事、あなたを取り巻くすべての事は考える必要はないわ。ラビスの事だけを考えるの。フィレスが見てきたラビスだけを思い出して……どうしたいかを決めるのよ」
  ラビスは言ったじゃない。私を親友だと思っているんだって……親友ならいつだって、どんなときだって、伝えられる言葉がある。
  信じている、って――!
「ラビスを連れてくる……ッ」
  私は隣室に用意された部屋へと進んでいく。扉一枚を隔てた部屋は私に宛がわれた部屋になっている。部屋に戻ると籠に入れられていた武器を残らず取り出して寝台にぶちまけた。
  着替えている余裕はなかった。装備だけを素早く身につける。
  腰にベルトを巻きつける。ベルトには短刀と折りたたみ式の長弓と矢筒とポーチをそれぞれ固定して収納した。両腕にガントレット型のピアノを装着してアイディスの部屋に戻ってきた。
  アイディスは寝間着に上着を羽織っている。廊下側の扉に手を掛けていた。
「ライナスにはわたくしが言い伝えておきますわ。それと、イルシェの事だから罠を張っているかもわかりません。十分にお気をつけて」
「ありがとう、アイディス」
  私は微笑みかける。アイディスは手を振ってくれた。
「どういたしまして」
  窓を開け放つと夜風が吹き込んできた。ドレス一枚だから肌が冷水につけられたように寒い。アイディスは上着をきつく寄せている。
  窓枠に足をかけると、私は風に身を躍らせた。付き従うシルフが私の体を舞い上げる。
  一陣の夜風となって私はスラム街へ翔け戻っていった。

Sound of Soul -奏でるものたちへの賛歌- 第八章

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