第二章

風雨に磨りへった石橋が夕暮れの陽に赤々と染まっている。緩やかな川には多種多様な荷を積んだ小さな船が行き交っていた。家々の窓からは細く灯りが漏れ出し、どこからか香ばしい匂いが溢れ出てくる。
  私が子供たちに音楽を教える教室は石橋の上だ。初めての子には一通り楽器の教えをしてから、楽器の扱いに慣れた子には課題の曲を教えておいた。
  子供たちは思い思いの場所に腰掛けて楽器を片手に奮闘している。上達の仕方は様々で、ニンフの力の一部を引き出せる子もいれば、音階もままならない子もいる。
  ラビスはそんな子供たちの真ん中で軽くステップを刻んでいる。楽器の使い方は知らなくとも、演奏の手本を示す事はできる。ラビスはニンフの奏でやすい楽曲を舞いながら子供たちに教え込んでいた。
  私とレヴィンは彼らから離れて、石橋の縁に並んで腰掛けていた。子供たちも私たちが何か大切な事を話し合っているのだと感じて距離を置いてくれる。
「戦争か……」
「まぁ、何かのせいにするならば、戦争って、ことになるな」
  私のぼうっとした呟きに、レヴィンもまたつまらなそうに言葉を合わせた。
  オラヴィの街はイレミアス大陸の西南にある。大陸の西海に大口を開けるイリアス内海、そこに点在する沿岸都市国家群の主要都市だ。オラヴィより北西には、トゥルッカ、ロートラウト、といった沿岸都市がある。
  ……まぁ、ヴァルデマルに侵略されてしまって、もうないけどね。
  北の大国であるヴァルデマル帝国が、大陸中央を支配するティファート王国に対して、宣戦布告をしてから数年になる。
  その中間位置にある複数の国家はじわじわとヴァルデマル帝国の支配下に置かれてきていた。
  しかし、位置的に戦略要素のない沿岸都市国家については黙認されてきた。このオラヴィの街は船での貿易を主流とするため、国家間を繋ぐ街道からは離れている。戦争に影響のない街だと、私は考えていた……一ヶ月前のトゥルッカ陥落までは。
  そしていま、私たちは戦争の真っ只中へ放り出されようとしているのだと、遅すぎながら感じているのだった。
  私は淡々と語られるレヴィンの言葉を重く受け止めていた。
「戦争の影響で大国同士の貿易がストップして、安いアスピアが流れてきているらしい。この辺のアスピアを個々の採集隊と取引するよりまとめ買いした方が安く上がるみたいだ。ヴァルデマル帝国製の銀貨で十枚……ずいぶん、安い値で買われちまった」
  大陸で最も価値ある通貨はティファート王国鋳造の貨幣であるが、ヴァルデマル帝国製の貨幣もそれほど悪いわけではない。戦時中に限り質の悪い金・銀が出回る。
  銀貨十枚では採集隊の全員に分配すると、パンをひとつ買っておしまい。それくらいのものになってしまうだろう。
「いまの値のままだと俺は生活できない。だから、傭兵団に参加することにした。明日から対岸にある砦に行くことになる」
「傭兵! 明日ッ!?」
  あまりに急な話に声が上擦ってしまう。
  言葉を交わすのがこれで最後。そんなことになってしまうかもしれない。それを後悔する時間も、悔やまないように色々な事を話しておく時間も、今日しか残されていないなんて、あんまりではないか。
「ちょ、っと。待ってよ……ダメよ。傭兵になんかなったら、すぐに家に戻る事さえできないのよ!? エリンたちはどうするの? あなたがいなくなったら誰が家族を守るの。それに、傭兵は兵隊の壁代わりにされることだってある……生きて帰ってこれなくなるかもしれないのよ!」
「わかってるよ……」
  私はレヴィンが傭兵となるのをやめさせる素晴らしい妙案を考え続ける。頭のなかで様々な事を浮かべて端から否定されていく。
  それでも、口にすればどうにかレヴィンを呼び止められると信じるしかなかった。
「ほら、ねぇ……ソウル・アスピアを探しにいきましょう! あれは値崩れが起きないし、一つ見つければティファート金貨十枚くらいになるわ」
  ダメだ、と一蹴される。レヴィンは盛大にため息を漏らす。そして、私が考えついてしまった問題点を残らず挙げていく。
「ソウル・アスピアが採取できる秘境まで何日掛かると思っているんだ? 俺やお前はともかく、子供たちの体力が持つはずがないし、採取したソウル・アスピアが加工不能な素材だったら金にはならない。第一、数日間のあいだ採集隊を維持する装備を買い揃える資金がない」
  私はめげずに次の考えを口にする。
「私みたいに楽士の仕事をやれば……」
「とてもじゃないが、家族を養う事はできない。お前ほどの楽士なら話は別だけど、一朝一夕でなれるもんじゃないだろ」
  これ以外にもたくさんの方法は思い浮かぶ。しかし、どれもレヴィンの求める条件に見合うものはないに違いない。レヴィンが必要な金がどれほどなのか知っているからこそ口にする事は無意味だと感じ取ってしまう。
「だ、だからって……傭兵なんかッ!」
「わかってるッ、けど! コレしかもうなぃんだッッ」
  私たちはいつの間にか立ち上がって睨み合っていた。声を張り上げて向かい合っていた。離れた場所で遊んでいる子供たちがさり気なくこちらの様子を窺っている。
  レヴィンは低く唸ってから黙り込んでしまう。目頭を押さえつつ苦々しい口調で吐き捨てる。私も力尽きたように端の縁に腰を落とした。
「エリンも同じことを言いやがった……。んで、どうするんだって聞いたら、明日から《青薔薇の園》に入るってよ」
  私はつかれきった口調で言う。
「そんなのダメに決まっているでしょうが……」
  青薔薇の園は、港にたむろしている船員たちを相手に商売する娼婦館の一つである。オラヴィの港の近くにあるスラム街にあり、治安が悪く、暴行や強盗が耐えない。路地裏に死体が転がっていない夜はないといわれる。
  オラヴィ市街にある高級娼婦館とは比べるべくもなく、行き場のない女たちやスラムの中でも働く場所を得られなかった女が集まってくる安い娼婦館のひとつだ。だが、安いといってもソウル・アスピアの楽器工房の下働きや危険の多い採集隊よりも給金は高い。スズメの涙ほどではあるけれど。
  レヴィンはヒラヒラと手を泳がせて笑う。
「安心しろ。そのために俺が傭兵家業に手を出そうってわけだ。エリンにはいままで通りに《カーヴァンクル》をやっていてもらう。取り分が減っちまうが……無いよりはマシだろう」
  私は不満をあらわにして唸り声を漏らした。
  レヴィンには家族が四人いる。
  施療院を営むレヴィンの祖父ボブ爺さん、十四歳になる病弱なリフィル、その下に十二歳になるエリン、さらにその下に五歳の弟のユーリ。
  レヴィンの祖父が運営する施療院はスラム民の人々の救いとなっているが、治療代を払ってもらえるかは別の問題になっていて慈善事業と変わりはない。家族を支える収入はレヴィンとエリンの二人に頼っていた。
「そんな顔すんなよな」
  レヴィンは私の肩に軽く手を置く。
  無愛想な顔つきは夕日に少しだけ赤く染まっている。どことなく優しい気配を帯びた顔に目を奪われた。
「まだ死ぬって決まったわけじゃあない。それに、俺は不死身だぜ? どんなにヤバイ時だって絶対に帰ってきただろ?」
  レヴィンはニッと唇の端を持ち上げる。
  他の誰かが口にすればただの戯言だが、レヴィンの言うそれは重みを秘めた言葉となる。《カーヴァンクル》を組む数年前まで、レヴィンは大人の採集隊にくっついて仕事をしていた。所属していた採集隊が全滅したこともある。ただ一人、疲労困憊の呈でオラヴィの街へ帰ってきたことは一度や二度ではない。
  レヴィンは、私が思っている以上に様々な死線を潜り抜けて、生き残って、私の隣に存在している。
  だからと言って安心できるはずもない。サバイバルと戦争は違う。
  しかし、私には何も出来ない。レヴィンが選んだ選択を気に入らないから否定しているだけ。レヴィンの決心を揺さぶって邪魔しているだけだ。
  こんな最低な親友がいるだろうか。親友ならば口にすべき言葉は決まっているんじゃないだろうか。だから……心を戒めて、言う。
  私はレヴィンの瞳を真正面から見つめる。精一杯、心を込めてやさしく言葉を投げかけた。
「ちゃんと帰ってくるのよ……」
  私の台詞にレヴィンは顔をしかめる。何を馬鹿な事を言うのか、と語る瞳が瞬く。
「当たり前だ。俺がいなくなったら爺さんたちは路頭に迷う事になるからな。そう簡単にくたばりはしないさ。コイツもあるしな」
  レヴィンは自信たっぷりに言い放ち、腰に差していた碧色のフルートを取り出した。金属質の光沢をもつフルートの表面には沐浴するウンディーネの姿が彫られている。
  私がレヴィンに作ってあげたソウル・アスピアのフルートだ。
「お前に音楽を教わらなかったら、俺は生きちゃいないんだろうな……これでも、感謝しているんだぜ、俺は」
  レヴィンはフルートのキーを指でなぞりながらしみじみと漏らす。彼のらしからぬ発言に十年近くも前の自分たちが記憶に蘇る。
「そんな事に感謝されてもね。あんまり役に立ったとも思えてないんだけど」
  私がスラムの子供たちに音楽を教えようと思ったのは、レヴィンを含めた友人たちが次々と採集隊に参加するようになったからだ。私と同年代の友人はもうレヴィンしか生きていない。皆、森や山へ行ったっきり帰ってくることはなかった。
  私は楽器が使えるならば生き残る確率が格段に上がる事を知っていたから、友人には積極的に音楽を教えた。誰もが興味を覚えて楽器に取り組んだ。だが、生き残れたのはレヴィンだけだ。
  楽器の扱い方はレヴィンを含めて友人たちの上達の仕方は普通であった。それにもかかわらずレヴィンだけが生き残れたのは、私が教えた音楽以外の『何か』が助けたからに他ならない。
「私の楽器だけじゃない。あなたは、信じられないくらい強い幸運に守られているでしょ?」
「そうだといいんだけどなぁ~」
  レヴィンは頭を掻きながら苦笑いを浮かべていた。
  話が途切れると、私は周囲の暗さに気がついた。ふと、空を仰ぐ。真上には星空を包む群青の夜が迫っていた。
  石橋にある幾つかの街灯が朧な光を放ちはじめていた。街灯に照らされる薄明かりのスラム街を、多くの人影がどこからともなく現れて目の前を通り過ぎていく。
  アスピアを商人に売りにいく採集隊はオラヴィ市街の方へ向かい、楽器工房から帰ってくる下働きの人はスラム街へ戻ってくる。真逆に進む人の流れのせいで夕暮れから夜に掛けてはスラム街の一番賑やかな時刻だ。
  いい頃合だ。ズボンの汚れを叩き落としながら立ち上がる。口元に両手をあてがって、離れている子供たちへ言った。
「今日はここまで。解散よ!」
  私が一声掛けると、子供たちが残念そうに不満の声を上げる。
  仕事のある少年少女たちは名残惜しそうに楽器の手入れを始めるが、小さな子は満足いかないようだ。数人の子がまとわりついて私の服の袖を引っ張って駄々をこねていた。
  私は子供たちの頭を撫でつつ 、やさしく言い聞かせる。
「そんな顔しないでちょうだい。私とレヴィンは仕事だから、ね?」
  宥めすかして子供たちを大人しくさせるとレヴィンを手招きして呼び寄せる。
  子供たちを素直に帰らせるために、私とレヴィンは合奏する。
  合奏はいつも私とレヴィンの二重奏で行う。手本として適当な曲を演奏してニンフを奏でるのが通例だ。
  そこへ、歩み寄ってきたレヴィンはある提案を持ちかけてきた。
「今日は二重奏じゃなくて、あいつを加えて三重奏にしないか?」
  驚くべき発言に目を瞬かせた。レヴィンは親しくない人とは接したがあらない。明日は雨になりそうな予感さえしたが、意見自体に反対する理由はない。
  私は同意の意味を込めて頷いた。
「いいね、あなたらしくない発言だけどね」
  レヴィンが目だけでラビスの方を見やる。
  ラビスは子供たちに混ざって指遊びに興じている。屈んで遊んでいる姿は面倒見のいい少女なのだが、よくもまぁ……あそこまで幼年の子供たちに混じれるものだ。混じれるというよりは同化している。
  ラビスを観察する私に低い声が割り込んでくる。
「ちょっと待て、俺らしくないってのはどういうこったい?」
「言葉通りの意味よん、否定できる?」
  ハハハッ、と笑ってやると、レヴィンはムッとした表情で睨んでくる。言い返せないのが、ありありと伝わってくる。
「合奏は失敗するかもしれないけど、ちょいと呼んでくるわ」
  合奏は心を通わせたもの同士でなければ演奏にならない。音楽としては成り立っても、ニンフを奏でる力がないのだ。
  ラビスの腕前が標準以上であったとしても、その日に知り合った人と合奏を成功させることはできないだろう。でも、他の演奏者と交流を持ちたいと思うのは楽士ならば当然の事だ。
  私は屈んで子供たちと目線を合わせているラビスの肩を叩く。
「ねぇ、ラビス。合奏に混ざってほしいんだけどいいかしら?」
  ところが、ラビスは反応を示さない。驚いた事に指遊びに熱中してしまっているようだ。子供たちに言われてラビスは初めて私のほうへ首を巡らせた。
  ラビスが私に振り返ったことで子供たちはラビスからそっと距離を取る。
  その様子を見て私は呆れるやらなにやら……複雑な気分になる。指遊びに一番熱狂していたのはラビスで、子供たちはその相手を勤めさせられていたらしい。これではどっちが遊んでもらっているのかわからない。
  私は小さくため息をつく。
「ラビス……、そんなに指遊びが楽しいの?」
  すると、ラビスは勢いよく腕を振って立ち上がる。三つ編みが振り子のように揺れた。私が体を引かなければならないほど顔を寄せて、興奮した様子で捲くし立ててくる。
「楽しいよ! 小さい頃から遊ぶのは、おばあちゃんか一人だけだったから……たくさんの人と話したりするのが新鮮で面白いんだ」
  ラビスの声調がほんの少しだけ途切れて小さく霞んだのを私は聞き逃さない。違和感の感じられる言葉には心を突き刺すような悲しみが感じられた。
「そうなんだ」
  私は特に話を続ける素振りも見せず、会話を区切ってしまう。
  ラビスはおっとりしている様に見えて、実は私たちと同じように『隠す』ことに慣れている人間なのかも知れない。私はラビスの横顔を見つめながらそんな風な事を考えていた。
「まぁ指遊びのことはいいとして。合奏をやらない? 私とレヴィンに混ざる形になるから上手くいかないかもしれないけど、あなたの腕なら合わせられるんじゃない?」
  ラビスは快く了承する。
「うん、いいよ」
  私がレヴィンに合図をすると、彼はフルートをクルクルと指先で回してから口元にあてがう。
「決まりだな。それで、何を奏でる?」
  私は首を回して周囲を見渡す。そして、目に止まったものを見上げた。
「そうね……コレでいいんじゃない?」
  私は寂しそうに立つ街灯の柱を拳で叩いてやる。肝心の街灯の明かりの部分が壊れているため機能は果たしていない。これではただの石柱だ。
  灯りの代わりに光のニンフを奏でよう、と言うわけだ。
  自分の家の灯りじゃないのだから放っておけばいいじゃないか、と言うものがいたら、この南東のスラム街から叩き出されるだろうね。このスラム街では街の物は皆のものであり、気づいた人間が直すのであり、直せないのであれば直せる人を呼ぶ。それがルールだ。
  橋の真ん中にあるべき灯りがないために、石橋の段差が見えにくくなっていてとても危ない。石橋の袂にある街灯は多少生きているけれど今にも消えそうになっている。
  オラヴィ市街と旧市街に設置されている街灯は、明かりを放つソウル・アスピアで造られているため、破損しない限り半永久的に光を放つ仕組みになっている。
  でも、風雨に晒されると痛みが早くなる。
  ソウル・アスピアはこまめに手入れをしてやらないと、すぐに秘められたニンフの力を失ってしまうのだ。
  だが、ニンフの力が消えたソウル・アスピアに対して、消費期限付きで力を与える事はできる。別のニンフを奏でて、その力を宿らせる事でソウル・アスピアを復活させるのだ。
「曲は〝神曲 ミューラ・ネフェリティア 三○一〟でいいかしら?」
  私の提案に、二人は無言で頷く。私はほっと胸を撫で下ろした。
  教えているレヴィンはともかく、ラビスが知らなかったらどうしようかと思った。
  〝神曲 ミューラ〟にひとまとめにされている曲は、吟遊詩人たちが好んで演奏する曲の一つで、重奏、独奏のどちらも人々に親しまれている。伝説曰く、真の意味でこの曲を演奏する者はニンフを超越した存在を奏でる事ができるといわれている。
「僕はチェロかヴィオラで混ざればいいんでしょ? ……レヴィン、さん、はどっちの方がいいのかな?」
  おっかなビックリといった様子で、ラビスは頭一つ分高い無愛想面を見上げる。レヴィンの表情は慣れた人でなければ機嫌が悪いように見えるだろうね。
  レヴィンはフルートの持った手を振って、煩わしげに乱暴に答えた。
「好きなほうでやってくれ。それと……さん付けはよせ。普通にレヴィンと呼んでくれればいい」
  私は二人のやり取りを聞きながら苦笑を堪えていた。
  吟遊詩人の『美少女』を前にレヴィンはうろたえているようだ。無表情に見えるレヴィンにも顔の変化はある。幼い頃からの付き合いである私にとっては、彼の心を読み取る事なんて造作もないことだ。
  ラビスの正体を明かしてやるのはもっと後のほうが楽しそうだ。私はいずれ来るそのときの事を想像して、ゾクゾクした。
「それじゃあ、はじめるわよ」
  私が胸の前で腕を構える。ラビスは足を半開きにして不思議な姿勢をとる。最後にレヴィンがフルートを口元に寄せる。
  子供たちが満面の笑顔で拍手をすると、行きかう人々の視線がこちらへ向けられる。場の空気がシンとなったところで、私は滑らかに指を動かした。
  物悲しげな低い音律が薄闇の路地に染み渡っていく。
  続いてラビスが足を踏み出して優雅に腕をひらく。袖の白い絹布が突き放されるように腕から伸びて広がった。彼の服からヴィオラの音が朗々と低く流れ出した。
  重ねてフルートの音律がすべりこんで、ピアノの音色をやわらかく包んだ。寄り添うように奏でられる三重奏に足を止めた人から感嘆の声が漏れる。
  私たちの奏でる旋律は交じり合い、蛍を思わせる朧な光が舞い上がる。子供たちから一斉に歓声があがった。
  でも、ちょっと力が足らない。いきなりの合奏では無理があったかもしれない。
  ニンフを奏でる事ができるかは心の問題だ。特に合奏の場合は奏者同士の親密さや慣れが大きく左右する。
  つまり、心を預けられるくらいに信頼しているのか、ということだ。ラビスは私たちと出会ったばかり。そこまで望むのは無理というわけだ。
  でも、ラビスはよく合わせてくれる。心がちぐはぐだったなら、ただの『演奏』になってしまう。出会ったばかりの人とでもニンフの力を引き出せるラビスの技量は私を遥かに超えているだろう。才能というのは、羨ましいものだ。
  ニンフを奏でる曲、と言うのは長短起伏ともに数え切れないくらいある。戦いのときにすぐにニンフを奏でられる二・四小節ほどの短曲もあれば、長時間をかけて色々なニンフを少しずつ奏でるものもある。
  楽士の数だけニンフの奏で方があると言っていい。
  重奏曲の終局が近い。
  空を仰げば、夜空に瞬いていた星を忘れさせるほど、スラム街の空は金色の光で溢れかえっていた。
  最後の音が弾かれて、余韻を残し、消えていく。演奏が終わった。
  光の玉は姿を変える。その姿は蝶。紋様をあしらえた羽を大きく広げると、燐粉を散らしながら飛び回る。力を失ったソウル・アスピアの街頭に吸い込まれると、ふたたび光を放ち始める。その他の黄金の蝶は、ヒラヒラと舞いながら路地裏の暗がりを照らしていく。
  子供たちが大きく手を振り上げて走り去っていく。楽器を弾きながら戻る子供たちもいる。そんな後姿に私は小さく手を振ってあげる。
  サヨナラを告げながら、私は後ろ髪を撫でつけて笑った。
「光のニンフは奏でられなかったから、ちょいと予定外だったわ。う~ん……残念」
  それを遮る声がする。
「いや、上等だろ」
  レヴィンは舞いおりてきた蝶を腕に乗せて、羽を閉じたり開いたりする様子を眺めていた。
「初めてでニンフの力の一部を奏でたんだ。ふつうはありえないぞ。まぁ、凄いのは俺とお前に合わせてきたアイツか」
  レヴィンは鋭い視線でラビスを見やる。
「伝説の吟遊詩人ってのは、あんな感じだったのかもな」
「伝説ねぇ……」
  私もレヴィンに倣い、子供たちに両手を振り上げるラビスに視線を向ける。
  ぽややんとした雰囲気の少年と、伝説の吟遊詩人てのはどうも噛みあわない。凄腕の奏者である事を見せつけられれば納得もできるけどね。
  レヴィンと話している最中、私は彼が急いでいる事を思い出した。
「急ぐんじゃなかったっけ、いかなくていいのかさ?」
  私の問いかけに曖昧に答えて歩き出そうとする。しかし、私の方を見て悩むような素振りを見せる。ほんの少しだけためらってからレヴィンは私に向き直る。
  頬を掻きながら口を開く。そして、驚くべき言葉を投げかけてきた。
「重奏をやっていて気がついたんだが……お前、イラついてないか? ずいぶんと曲調が乱れてた」
  私の心臓が大きく跳ねあがった。咄嗟にわざとらしくため息をついて誤魔化してみせた。
「あっはっは、そんなことないよ。気のせいじゃないの」
  おどけて両手を軽く持ち上げる。必死で表情を歪ませないように意識しながら笑い声をつくりだしていた。
  そんな私を見てもレヴィンは表情を崩さない。少しだけ瞳を曇らせて、つま先で石畳をガリガリと蹴っていた。
「……そうか。じゃ、がんばれな」
  私の返答にレヴィンはどうといったこともなく流してくれた。くるりと背を向けると、レヴィンは軽く手を挙げて去っていく。
  まったくお笑い種だ。
  付き合いが長いのはレヴィンも一緒なんだ。私の心の中身はレヴィンにはわかってしまうらしい。
  心配してくれるのは嬉しい。それだけは本当の気持ち。
「がんばれ……か、バレバレだね」
  夜のオラヴィ市街へと歩いていく背の高い後姿。それが見えなくなってから私は息を漏らすように口に出した。
  私には夢がある。それは、《アーティスト》になること。
  アーティストはニンフを奏でて人々を楽しませる職業だ。工房の開発したソウル・アスピアの楽器を宣伝する媒体ともなるため、アーティストのほとんどは工房と専属契約を結んでいる。また、一流のアーティストともなれば、個人で活動して莫大な報酬を得る事ができる。
  資金をつくったら私はスラムに大きな音楽院をつくりたい。もちろん月謝なんか取らない。だから、たくさんのお金が必要だ。
  音楽院を作りたい理由。それは、スラム街の子供たちに未来を見せてあげたいのだ。楽器さえ使えれば自分がしたいことができるようになるってことを、知ってほしい。スラムの人間として惨めな一生を終える運命から逃れられる事を教えてやりたい。
  すっかり暗くなってしまった石橋の上に子供たちはいない。
  ほとんどが鍛冶屋・酒場の住み込みの仕事に戻ったのだろう。家の仕事がある子は明るいうちに帰っていった。
  子供たちを見送ったラビスがこちらへ歩いてくる。
「僕たちも帰ろうよ」
  無垢な笑顔をみせるラビスはその場でくるくると舞い踊る。重奏の余韻を楽しみたいのか、フルートの細い旋律が〝神曲 ミューラ〟の主律をなぞる。
  楽しそうなラビスに悪いと思いつつ、私は顔の前で小さく手を合わせる。
「ゴメンね、私は仕事があるからさ。先に家に戻っていてくれるかな?」
  当然とラビスは微笑みで答える。
「それなら僕もついていくよ」
  好奇心を輝かせた瞳が私を見つめている。困った様子を演じながら、私は言葉を選ぶ。
「それは、ちょっと無理かな……オラヴィの市民街には市民証がないとは入れないの」
  私は二の腕につけたプラチナの腕輪をみせた。蝶の照らしだす橙色の光にキラリと反射する。表面には『楽士ギルド』の署名が刻印されている。
  楽士ギルドの管轄にある都市では、この腕輪がないと楽士は正式な活動ができない。アイアン、ブロンズ、ゴールド、シルバー、プラチナ、とある楽士ランクのうち、シルバー以上の楽士には市民権が付与される仕組みになっている。
  本来、市民権は一定の税を納める者にしか与えられない。だが、楽士としての技術があればスラム民でも市民権を獲得できる、というわけだ。金と実力だけで強くなれるオラヴィらしい気質だ。
  ちなみに、オラヴィにいる楽士でプラチナランクを持つ者は九人しかいない。そしてプラチナランクを持つスラムの楽士は私だけだ。
  ラビスは口を尖らせて渋い顔を見せる。
  放っておくとコッソリと付いてきてしまいそうなので、市街を守る衛兵の話、掴まるとどうなるかの話を懇切丁寧に説明してやった。
「それなら、しょうがないや……フィレスの家で待ってる」
  ようやく納得したラビスは残念そうに萎んだ声をだす。そんなラビスに私は適当な慰めの言葉を考える。
「そんな顔しないでよ。部屋の棚にいろいろ楽譜があるから、それでも見て待ってて」
  楽譜と聞いてラビスの紫の瞳に輝きが戻ってきた。やわらかい微笑みをつくって両手を勢いよく振る。
  体が左右に揺れるほど腕を振り回すラビスに背を向ける。
  石橋を渡ってからも、彼の服から奏でられる音が聞こえてくる。顔だけで振り返ってみると、まだ私を見送っていた。少々はしゃぎ過ぎだ。
「美味しいもの買ってきてあげるから、家で大人しく待ってなさい!」
  小さくなった人影に叫んでやると、わかったぁ、と細い声が返ってきた。とりあえず、心配はなさそうだ。
  私は歩き始めるとすぐに仕事の事に頭を切り替える。すると、嫌な現実を思い出すこととなり、自然と顎が下がる。
  どういうわけか、私にはアーティストへ推薦してくれそうな有力者がいない。実力ならばその辺のアーティストに引けを取らない自信はあるのだが……私には声が掛からないのだ。

Sound of Soul -奏でるものたちへの賛歌- 第二章

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