序章

足元から黒い疾風が躍り出る。俺は真下から突き出された一撃を払いのけた。必殺の突きを邪魔された刺客は滑らかに後ろへ下がり、俺から距離をとる。俺は両手に持った片刃剣を正面で構える。俺を襲った相手を睨みつけながら柄の握りを確かめた。
 相手は一人。全身を真っ黒に染めた背の低い少年だ。だが、黒く染まっていると言っても、どのような格好をしているか、どのような容姿なのか、それくらいのことはよくわかる。
 耳が隠れる程度の長さの髪は黒い。幼さの残る丸みを帯びた輪郭には、これまた優しげな双眸があり、キリリと引き結んだ唇に意志の固さと負けん気が現れている。身に着けている学生服は少し大きめで、ブレザーの袖とズボンの裾が余っていた。
 見れば見るほど忌々しい姿だ。自分と同じ姿をしたモノが存在するということだけでなく、一日一回命を狙われているというオゾマシイ事実にも吐き気がする。
 俺と見合っている存在は、俺の影だ。人間が生まれながらに持つ、人と対になる生物。名を《影鬼》と言う。
「はじめようか……、陽光」
 《影鬼》は静かな声で俺の名を呼ぶ。そして、剣を後ろに引いてこちらへ駆け出した。間合いを詰めるために俺も走り出す。俺と《影鬼》の間は即座に埋まる。《影鬼》の突き上げる黒の刃が迫り、俺は剣を振り下ろしてその一撃を受け止めた。
 甲高い金属音が響き、剣を引く。俺は倍の速度で剣を水平に薙ぎ払った。《影鬼》は軽やかな足捌きで一閃した剣先を避ける。俺の振りぬいた腕を狙って《影鬼》は斬りかかる。俺は背筋を反り返ってどうにかこいつを避けた。頬を掠める風が何かを削いでいった。
 俺は横に転がって一息つく。水滴の流れでる感触に左の顔に手をやると、掌が真っ赤に染まった。小さく悪態をついて立ち上がる。
 人間と《影鬼》の間には絶対的な関係がある。それは『人間は自分の《影鬼》に勝つことができない』、という事。どれほど努力を積もうとも《影鬼》は人間の僅かに上をいくのだ。
 俺がまだ戦うと知って、《影鬼》は剣を下げる。左手をぞんざいに振って笑った。
「諦めないのは素晴らしい事だが、辛いんじゃないのか」
 嫌な事を言う。自分の《影鬼》だからと言って同じ性格をしているわけではない。俺はこいつの余裕ぶった態度が一番気に食わない。
「うるせぇな。お前は今日か明日か、明後日か。俺に真っ二つにされる運命にあるんだよッ」
 俺は《影鬼》に向かって突進していく。すぐさま《影鬼》も身構える。迎えうつ《影鬼》の頭頂に目掛けて、剣を袈裟懸けに振りぬく。上段の強撃は漆黒の刃に弾き落とされる。躊躇わず返す刃を払いぬけた。激突する刃から火花が飛び散り、降り注ぐ日差しの中に溶けていった。
 俺は死ぬわけにはいかない。かと言って、命にすがりたいわけじゃない。俺が生きる唯一つの理由は妹のためだ。俺には三つ年下の、田奈、と言う名の妹がいる。愛しているという恥ずかしい近親愛を暴露するつもりはないが、大切に想っていることは確かだ。
 打ち込まれた《影鬼》の突きを弾けない。刃を削り取って差し込まれた一突きは俺の胸元に浅く食い込んだ。ブレザーが防刃仕様であるおかげと、咄嗟に体を斜めに傾けたのが功を奏した。切っ先は布地を磨り削って空を裂く。
 刃にばかり気を取られていたせいで注意が逸れていた。俺のわき腹に強烈な蹴りが炸裂する。俺は無様に転がりながら床に這いつくばる事となった。
「まだやるのか?」
 奴は追ってこない。俺に絶対に負けないとわかっているからだ。ムカつく野郎だ。本当に殺してやりたくなる。
「うるせぇよ!」
 俺は即座に飛び起きて《影鬼》に突っ込んでいく。力任せに振り回した豪快なスウィングが黒い刃に打ち当たる。
 二年前に立て続けに両親を亡くした俺と田奈は二人で生きていく事を迫られていた。別に珍しくもないことだ。運のない人は生涯の伴侶を見つける前に、子を為す前に、《影鬼》に命を摘み取られる。だから、俺を十数年育てた両親は長生きした方だ。
 もちろん、悲しかった。二人を殺した《影鬼》も憎らしかった。もし目の前に現れたなら全身を滅多切りにして吊るしてやりたいくらいに恨んでいる。でも、そんな事は心に刻んでおけばいいわけであって日常生活を送る上で邪魔な感情だ。怨みつらみを溜め込んで生きていくのは辛すぎるし、なにより、敵討ちをしようなどとは露とも思ってはいない。
 両親は《影鬼》と一騎討ちで闘い、負けた。世界で毎日起こっている瑣末な事象に過ぎない。俺は《影鬼》を恨むより前に、生きていかなくてはならない。次は自分の番だから油断も出来ない。
 父親が殺されて追うように母親が殺された翌日。片手に収まるほどの灰の塊となった両親を前に、田奈はようやく泣き始めた。俺の背に手を回し、背中に爪を立てて泣き叫んだ。涙はすぐに頬を伝って俺の服を濡らした。俺は泣きじゃくる田奈を優しく叩きながら震えていた。
 何故か? 怖ろしかったからだ。田奈の様子に焦りすら感じた。あまりにも異常な悲しみ方だったからだ。何しろ食い込んだ爪は俺のシャツを引き裂いて背中に激痛を感じるほどだったし、奇声じみた慟哭は耳鳴りがするほど俺の耳に強く残っていた。涙だって俺のシャツがビショビショになるくらいに流していた。
 声が枯れても俺に抱きついたまま泣き続ける田奈に俺はゆっくりと泣く理由を訊ねた。親が死んだ悲しみにしてはおかしかったから、妹の不安は少しでも俺が肩代わりしてやりたかった。
 俺は《影鬼》の隙をつくる作戦に変えた。左へ回り込んで立ち位置を変えていく。《影鬼》の死角へ滑りこむように刃を打ち込んでいく。その考えに気がついて《影鬼》も同様に左回りに斬りこんで来る。
 俺と《影鬼》は旋回しながら激しい剣戟を繰り広げた。俺は荒く息をつきながら、刃の風に翻弄されていた。《影鬼》の斬撃は俺のブレザーを掠めていく。頑丈な布地で作られたブレザーは綻びて、裂けた袖の部分は白いワイシャツが見えている。縦横に奮われる凶刃を見据えながら俺は周囲のものにも注意を向けていた。
 だから、偶然その音が耳に聞こえたのは幸運だった。
 カラカラッと何かが転がっている音。俺は瞬時に空き缶が近くにあると思った。音のした場所に気をつけて足を運んだ。俺は《影鬼》の左手の方へ踏み出す。《影鬼》も習って俺の左手に移動した。
 俺が剣を振り上げる。そのとき既に、《影鬼》の剣は俺の胴に向かって振りぬかれていた。黒い刃は確実に俺のあばら骨を砕き、肺を切り裂き、右腕の付け根から飛び出すはずだった。
 《影鬼》は急に体を仰け反らせる。剣の軌道は大きくそれて俺の額を撫ぜて、前髪を数本持っていった。視界を細い黒髪がはらはらと舞い落ちる。俺の瞳は毛髪の舞い落ちる様ではなく、《影鬼》の足元に釘付けになっていた。
 《影鬼》の革靴の下に空き缶があった。コーヒーのラベルが眼に飛び込んでくる。鉄製の缶は《影鬼》に踏まれながら鈍い輝きを放っていた。なんてことはない、自動販売機で売っている缶コーヒー。誰かが捨てずに放っておいた空き缶だ。
 俺は田奈がどうして泣いているのかを訊ねて、絶対に死なないと約束した。田奈と約束した。俺は笑いながら、涙で汚れた田奈の顔を拭いて、口にした。田奈の泣いていた理由。それは、俺が死んでしまう事。田奈が独りぼっちになってしまうこと。
 俺は約束を果たす。絶対に死なないために。田奈を悲しませないために……ッ!
 俺は雄叫び上げて剣を振り下ろした。大上段の勢いで剣の先が床を砕いた。石片が爆ぜて散らばっていく。
 渾身の一振りは《影鬼》の額を割り、胴を肩から左足の膝まで切断した。両断した右腕は地面に落ちて崩れてしまう。血は噴きださない。傷口から見えるのは闇色の断面だけで、人間のような肉や内臓はなかった。
 《影鬼》は信じられないというように目を見開いていた。痛みに叫ぶ悲鳴や断末魔の言葉を吐くこともなく、呆然と口を開く。
「……こんなことが」
 俺は止めを差した姿勢のまま傲然と言い放つ。
「俺の勝ちだ」
 《影鬼》は人の形を失ってコンクリートの上にぶちまけられた。人型の塵の小山の横で、俺は肩膝をつく。倒れこむ体を支えるために両腕を突き出した。視界が真っ白に染まり頭はひどい頭痛がする。俺は空気を貪るように荒れた呼吸を繰り返していた。
 俺は《影鬼》に勝った。人間が決して勝つことのできない障害を越えてしまった。もちろん勝てないと思って勝負を挑んでいた事は一度もない。負けると思った瞬間に自分の首は《影鬼》に跳ねられているはずだから。でも、まさか、本当に勝つことができるとは俺は信じられなかった。
 俺は呼吸が落ち着くにつれて冷静さを取り戻してきた。《影鬼》であったものを今一度よく見てみる。積もった塵は風に吹き散らされていく。風に巻かれると空気に溶けていく。最後に残されたのは、一本の剣。《影鬼》が使っていた俺の持つ剣とそっくりの剣だ。俺は自分の剣を鞘に収めてから、転がっている漆黒の剣を拾い上げた。
 初めて持つ他人の剣なのに怖ろしく手に馴染む。そして、不思議と力が湧いてくる気がした。
「へぇ……スゴイのね」
 誰も居ないと思っていたから俺の驚きは相当なものだった。肩をビクリと震わせて声のしたほうへ首を巡らせる。
 屋上に設けられた鉄柵に女の《影鬼》が座っていた。長い艶やかな髪を腰まで垂らしている。黒い悪戯っぽい光を灯した眼が俺を捉えていた。彼女は屋上に降り立ち、たおやかな足取りで俺の下へ歩いてくる。女子生徒と比べても劣る俺の身長を遥かに追い抜く背の高さで、実にスレンダーな身体つきをしていた。着ているものは制服だったが、俺の学校の制服ではない。
 あれは、すでに人間を殺し自由になった《影鬼》だ。理解あるものは人間に混ざって生活しているが、そんな輩はごく稀だ。ほとんどの《影鬼》は影に潜んで生きて、何か思い出したように人を襲う。どのような理由で襲いかかるのかは知られていない。
 彼女は何が可笑しいのか花のような唇で弧を描く。
「《影鬼》に勝つなんてスゴイけど、困るのよねぇ……ただでさえ人手が少ないんだからさ」
 女の《影鬼》は屋上にあった貯水タンクの影に右手を差し込むと、中から長大な刀を引き出してきた。俺は警戒して手に持っていた黒い片刃剣を正眼にもつ。 
「なんのつもりだ? 俺と戦う気か」
 女の《影鬼》は微笑みを浮かべながら首を振る。一息で身の丈を越す刀を抜き放った。
「いいや、殺すよ」
 その言葉が俺の耳に届くと同時に女の《影鬼》の酷薄な瞳が射抜く。眼前に笑い顔があった。俺の腹部を冷たい衝撃が奔りぬける。身悶えする激痛に俺は一歩も動けなくなった。熱いものが胃に溜まり腹から流れ出るものに目を落とす。
 俺のブレザーを貫く長刀は血に濡れて妖しく光る。滴り落ちる血は瞬く間に足元に点を穿ち、血溜まりとなった。
「……ッ、お、お前は……」
 女の《影鬼》が刀を一気に引き抜いた痛みで、俺はあとの言葉を続けられなかった。
 見えなかった。俺と女の《影鬼》の間はどう見積もっても十数歩の距離があったはずなのに、疾駆する姿を視界に収めることもできなかった。強いというより次元が違った。この強さの質はどこから来るんだ。
 刀に支えられていた俺は流れ出た血の真ん中に倒れた。太陽のおかげで《影鬼》が次に何をしているのかが見えていた。クソッ、足元にある影は刀を中天にかざしている。止めを差す気だ。
「待ちなさいッ!」
 凛とした女の声が聞こえる。女の《影鬼》とは別の声。
「あははッ……運がいいね。あなたの幸運はまさに天性のものかもしれないよ」
 女の《影鬼》俺の耳元で囁いてからスッと離れていった。うつ伏せに倒れているせいでそれ以上はわからないが、とにかく彼女の気配は遠のいた。それとは別に地面を叩く駆け足が響く。誰かが走り寄ってくる。
 ダメだ。ぼやけた視界は消えて音だけの世界。耳に入ってくる世界も完全に閉ざされようとしていた。闇が、広がっていく。

君の隣に影がある 序章

novel   君の隣に影がある Next