第十三章

問題の場所は食料品から工作機械まで所狭しと並べられた店に変わっていた。俺はでかでかと書かれた店名の看板を見上げて、一言呟く。
「帰るぞ……」
 その俺の首根っこを持ち上げる綺麗な腕がある。晴香は店の概観を見回して言う。どうして止めるんだ? 建て替えられている以上完全に入り口は塗り固められている事は間違いない。下手すれば電気配線を通していたりして、撤去できないものが設置されていることだってあるだろう。
 晴香は俺の口に出さない問題を気にしていないようだった。
「たぶん、大丈夫だと思う。店の外側は変わってないから内装をいじられているだけなんじゃないかしら。中に入って確認する価値はあるわよ」
 俺は引きずられて店内へと入っていくことになる。後ろ歩きに苦戦しながら自動ドアを潜り抜ける。
威勢のいい店員の声が途中から違和感があったのは気のせいではあるまい。《影鬼》が人間社会に浸透している事は知られているが、道端で会う確率は相当低い。その場にいた店員や客の多くは晴香の姿を見るのが初めてだったんだろう。喉の奥に何かを詰まらせるような悲鳴をあげていた。
 奥から転がるようにして年配の男性が出てくる。店長か何かだろう。
 こういうときに《武聖》ってのは役に立つよな。
俺は携帯電話を取り出してから、店員や客に触れ回る。携帯電話の画面表示には《武聖》登録証のほかに《白姫浜監督局》から発行されている書類なども表示される。そいつを全員に見えるようにホログラム表示に変換する。
 俺の掲げる掌に《白姫浜監督局》のロゴマークが浮かび上がる。
「皆さん、お静かに。我々は《白姫浜監督局》のものです。決して皆様に加害を加える事などないので、そのまま買い物を続けてください」
 陳腐な台詞だなと思う。こういう風に人前で話すことがあるたびに敬語をちゃんと習おうかな、と思うのは俺だけだろうか。俺のような子供のことなど耳は貸さないだろうが、《白姫浜監督局》の効果は絶大だった。人々は不振な目を向けながらも買い物を再開する。
 傍らで手を叩く音が聞こえた。晴香が小さく拍手をしている。
「なんなんだよ?」
 どうせロクな意味ではあるまいと知りつつ、彼女の顔を見上げる。
「いやいや、よくできましたぁってね。なんだか警察官みたい」
 やっぱり聞かなければ良かった、と口を尖らせる。それから、こちらを窺っていた店長を捕まえて、質問しながらこの店の改装前の事を聞いていく。店内を十分に見回ってから、晴香は酒を展示しているクーラーボックスの前に立った。
 ペタペタとガラス張りを触ってから奥を覗き込もうとする。
「前にここに店がなかったときはここに階段があったわよね? どうしたの?」
「ええ、ここには地下に通じる階段があったのですが、地下水道と直結しているらしくて壁にしてしまったのです。借用書類にも書かれていないことだったので驚いたのですが……」
 店長はおっかなびっくりで口を動かす。何か法に触れることでも犯してしまったのかと怯えているようだった。
「仕方ないわね。陽クン、壁を壊してもらえる」
「このまま帰るわけにいかないからな……」
 渋る店長をどうにか宥めて、修理はすべて《白姫浜監督局》に請求してくれて構わないからと適当な事を言い含めて静かにさせる。もごもごと口上を探していた店長も脂汗を垂らした顔で最後には了承してくれた。
 あとで綱島さんにこってり絞られるかもしれないが、《武聖》の仕事と言い訳する事にしよう。
 クーラーボックスを持ち上げて後ろの壁をむき出しにする。壁を叩くと反響音がする。確かに空洞らしいものがある。俺は剣を抜くと電光石火の早業でたちまち壁を切り裂く。格好良く蹴りを入れて、壁に四角い穴が開くはずだった。
 しかし、俺が差し込んだ切れ目は反対側の壁まで貫通していなかったらしく蹴りの強引な力が壁に穴を開けたに過ぎなかった。四角いどころか削岩機でも押し当てたような穴を不満タラタラに睨みつける。
 その横を晴香が大笑いしながら通り抜けていく。まったく、情けない。
 壁をくりぬいた先にあった階段はひどく薄汚れていた。階段やその先に続く通路にはお情けていどの電灯があり、真っ暗な通路を白く浮き上がらせていた。所々で電灯が明滅しており、しばらくの間好感が行われていないことを知った。どこからか水の流れる音がする。
「このまま進むと上下水道の配管にでるのか?」
 先頭を進む晴香が黙したまま首肯する。どうやら緊張しているらしい。実を言えば俺もだ。水道の配管という性質上、空気が悪い。そのせいで気分が悪くなったとしても不思議ではないのだが、それともまた……違う。
 通路をまっすぐに進むと巨大な配管に出た。左右に職員用の通路があり、その下を透明度の高い水がかなりの勢いで流れている。浄水システムは完璧で異臭はない。現代の技術力は地球の環境を一定以上汚染する事はなくなっている。ゴミ処理、水質維持、空気清浄、の事に関しては人を悩ますことはない。
「施設はこの通路の入り組んだ場所に設置されていたと思うわ。《白姫浜新都心》のブロック組みは隙間ができるところがある。そこを活用したのね」
 晴香の案内するまま、俺は導かれていく。幾つもの角を曲がってその場所に到着する。俺は剣に手を掛けて《海坊主》を切り捨てられるように抜いておく。晴香も刀を影から引っ張り出す。
 厳重な対弾性の扉は錆びついていて、半開きのまま放置されている。中は暗いさすがに真っ暗では活動できないのだが……。俺の心配を読みこして晴香は先陣をきった。内部に滑り込むと、ヒビだらけになっている『何か』に手を差し込んで、引っ張る。
 ガチンと硬い音がする。室内のあちこちで静電気に似た音が聞こえてきて、施設内部の電源が生き返った。眼前に広がった視野に俺は驚く。
 俺たちは小さな踊り場のようなところに、ちょこんと立っていてそこかららせん状の階段が下へ伸びている。階段は簡易な鉄製で途中でひん曲がっているため、俺たちは手すりを越えて飛び降りた。
 研究施設は広大だった。
巨大な透明のシリンダーが分身のように連なり、解剖室、臨床実験室、資料室、廃棄物、などなど。様々な部屋へと続く通路がある。真っ白なだけの部屋に必要なものだけが置かれた施設。割れたガラス片を踏みしだきながら探索を開始する。
 割れたシリンダーの中には液体と不気味な物体が残っている。異臭がそれほどしないのは、無菌状態を保つシステムが電源無しでも稼働していたからだろう。この施設内に発電機を設置しているに違いない。
「晴香は前に来た時に全部を見回ったのか?」
「うん。本当に変わってないよ……、でも。確認しなきゃね」
 はじめに抑えるべきは資料室だ。《海坊主》の資料は晴香によって持ち出されているが、まだ発見していない研究記録が残されているかもしれない。俺たちはまず資料室を目指した。
 資料室の電子ドアは内側に倒れていた。くっきりと残る足形の陥没に、晴香を半眼で見やる。晴香は舌を出して、エヘへと笑って誤魔化しやがった。乱暴なやつだ。
俺たちは室内に散乱した紙から、机に貼り付けられているメモまで紙製のものはすべて集めて回った。《海坊主》俺たちの名づけた生物は、イラスト入りで記載されている。ここは間違いなく《海坊主》の研究施設だったのだ。
「ダークネス・アリゲーター……、進化する生物兵器、か。ずいぶんと凝った名前をつけるのね」
 《海坊主》開発初期段階の資料に目を通している晴香は、《海坊主》の正式呼称を見つけていた。だが、そんなもんはどうだっていい。
「別に《海坊主》でいいだろうが。いまさらアレの本名を呼んだって混乱するだけだぜ」
いらない資料を次々に脇にどけながら必要な資料を探す。俺たちが求めるのは《海坊主》の完全形態の予測と。抹殺方法。研究段階がある程度進んでいればそいつは残されているはずだ。
 資料の数は目が回るほどある。《海坊主》の研究は少なくとも十年は継続されている。破棄がどれほど前かわからないが、これはかなり完成されている計画だったのではないだろうか。
「晴香は電子データを集めてくれないか。パソコンを起動できるはずだ」
 ところが、晴香は渋い顔をして腕でバッテンを作る。
「おっけーと言いたいところだけど。私、パソコン使った事ないのよね。電源の位置からして既に分からないわ」
 晴香は手を払って俺をパソコンの前へと追っ払う。俺だってパソコンが得意なわけない。あきらかに人選ミスだな、これは。
 仕方なく俺が電子データを回収する事になった。軋む椅子を引き寄せて机に向かう。
パソコンを立ち上げて中のデータを目で追っていく。高速でマウスホイールを回して、フォルダ名だけを目に映す。目の反応速度も上がっているため、速読も完璧だ。
「見つけたぞ……」
 日記形式で書かれた研究記録。
その記録は二十二年分。俺は一番最後にあったフォルダ、いまから三年前の記録を開いた。開いた途端、表示された画像の凄惨さに画面から仰け反った。
 晴香も手を休めてこちらを見るが、眉間にしわを寄せて口元を引き締めた。
 それは《海坊主》のデータ記録。
破壊能力では、牛、馬、鮫、果ては人間を対象にしたものまで載っている。陸上、水中での活動に特化と書かれた横では、胴体の半分を抉り取られた女性の遺体が映し出されていた。
左の乳房辺りから下、左の脇腹がごっそりとない。内臓もお情け程度に体内の残っているだけで、ぶよぶよとした腸が垂れ下がっていた。女性の顔は醜く歪み、死の直前まで泣き叫んでいた事を知らせる涙の痕が頬にくっきりとあった。
 俺は素早くスクロールして画面から画像を追い出した。しかし、回しても回しても、ズタズタの生き物の死体がまるで素晴らしい偉業であるかのように並んでくる。隣に書かれている自画自賛の文章など目にも入れたくなかった。
 俺の肩を優しく抱いた腕があった。
晴香が温かい息が耳元に触れ、晴香の囁き声が滑り入る。
「気持ちはわかるけど、ちゃんと中身も見てね」
 肩に添えられている手を軽く叩き、憎まれ口を返してやる。
「そっちこそ、面倒くさくなって字面を飛ばすなよ」
 こうして、しばらくの間。室内は資料をめくる紙の擦れ合う音と、パソコンのクリック音だけが聞こえていた。シンとした室内で俺たちは集中し続ける。
 《海坊主》の研究は三年前最後の月。十月の時点でほぼ完成していたようだ。
問題は知性が芽生える間は命令を一切受け付けない猛獣のような生物であること。
《影鬼》の特性を引き継いでいるために殲滅が困難である事。
施設を廃棄する際の《海坊主》の処分方法について、かなり意見の衝突があったことを研究者は書き綴っている。
 さらに日にちを追っていく。《海坊主》の成長段階は大きく三つに分かれるとあり、まず餌を食い続け自らを『強化』する。そして、勢力範囲を広げるため『分離・増殖』を繰り返す、この段階で個々の戦闘能力が弱体化してしまうことが研究課題の一つとして上げられている。
最終段階の『知性発達』は研究者としてみれば危険すぎると言う。あくまで、正常に段階を踏んで進化した場合における仮説に過ぎないが、完全体となった場合、知性は人間を超えて、戦闘能力は《武聖》に匹敵する可能性を指摘している。過去大戦時の三人の《影鬼》と同じ失敗に陥る危険性あり。
ページをめくる。
 そこからは一変して研究記録とは程遠いものになっていた。いきなり、研究中止。データをすべて破棄するプログラムを作動させる、なって文章が切れてしまっていた。
 今から三年前の十月二十四日。その日で研究記録は終了していた。しかし、プログラムを作動させても日記が残っていたのでは、証拠隠滅にはならない。つまり、データを処分して次なる行動を起こした研究員たちを何者かが消した……と言うことになる。
 そのとき、この部屋からそう遠くない場所で甲高い破砕音が響いた。
俺と晴香は顔を見合わせると、無言のまま武器に手を掛けた。静かに、慌てずに、そして迅速に。必要だと思った書類を晴香はポケットに押し込み、俺は適当なメモリースティックに記録をすべて写した。
廊下で何かの唸り声が聞こえてきた。その声からかなりの巨大生物であることがわかる。だが、この施設が広いからと言って巨大生物が入れるわけがない、となれば影の中に潜行して移動できる《影鬼》の特性を持つ巨大生物としか説明がつけられない。
 どうしてここに?
 そういった疑問を吹き飛ばす声が廊下から聞こえてきた。
「イル……、ダレカ、イル。……ダレ、ダ」
 俺は全身が総毛立つのがわかった。口の中がカラカラに干上がって、喉を動かして呑めないつばを飲み込む。
 《海坊主》はもう、『話すことができる』のか!? たどたどしく曖昧な発音だが、意味のある言葉を知っている。そして、ここにいる俺たちに気がついているのだ。気配はすでに壁一枚隔てた廊下にいる。扉に近寄って顔をすこしだけ傾ければ敵の正体を見ることができる。
 気配が瞬く間だけ薄れた。離れたのか、気配を殺すことを学んでいるのか。神経を尖らせて周囲のすべてを警戒する。
「上よッ」
 晴香のほうが早い。俺は気がつけても声に出す時間まではなかった。俺と晴香は机から横っ飛びに離れる。頭上から出現した黒い影は机を丸ごと挟み込んだ。プラスチック製の机はグシャグシャに噛み砕かれて、運悪く挟まれていたパソコンも中でボンッと爆発する。
「これが《海坊主》なのかよ!?」
 俺は天井から出現した『化け物』に声の限り叫んでしまった。あの獰猛だったが丸っこい体はどこにもない。
全身黒塗りで、ごつごつとした肌が全身を覆っている。目はやはりない。口だけは細長く前に伸びて巨大で鋭い牙が生えている。大きさはいままでの《海坊主》の三倍以上はあった。
「逃げるわよ、陽クン!」
 珍しく晴香も顔色を変えていた。変えたくもなるだろう。自分の体をすっぽりとくわえ込んでしまう巨大なあぎとが唸り声を上げて襲い掛かってくるのだ。俺が、晴香が、転がり出た扉に《海坊主》が体当たりをしてくる。
 通れないとわかると強引に体を捻じ込んでくる。苛立ちのあまりに発せられた雄叫びが施設を鳴動させる。施設の通路を疾走しながら少しだけ安心していた。
どうやら、完璧な知性を身につけることができなかった不完全な《海坊主》なのかもしれない。獲物を前にすると理性もなく追いかける姿は街を荒らしまわった《海坊主》と大差がない。凶暴なだけならばまだ対処の仕方はある。
「どうやって倒す? 奴を引き連れて地上には出れないぜ」
 出口は俺たちが入ってきた場所ばかりじゃあるまい。施設内で仕留められないと外へ逃がしてしまう事になる。それはかなり危険なことだ。
 それを否定するように、全力で首を振る晴香がいた。
「ここで戦うのは無理よ。私の刀はほとんど振り回せないし、あなたの長剣だってそうよ。詩乃の短剣だったら平気なんだけど……くぁぁッ! 本当に人選が最悪!」
 俺とおんなじことを言ってやがる。口に出さないだけ俺は慎み深い男だけどな。俺のジト目に気がついたのか、晴香は口笛なんぞ吹いてぷいっと顔をそらす。
「じゃあ、入り口のでかい試験管が一杯置いてあった部屋で戦おう。あのくらいのガラスだったら足場にも使えるし、刀を振り回すときにつっかかったりもしないだろ」
 悩んでいる暇はない。それを解っていて晴香は頷く。
「仕方ないわね。それでいきましょう」
 晴香が返答をくれたときには、俺たちは入り口の研究室に駆け込んでいた。晴香は入ってきた扉を締め切り、俺は邪魔な机を部屋の隅に放り投げ、または押しやった。入り口の研究室にはどうにか戦えるくらいのスペースが生まれる。
 俺たちは背中合わせに周囲を警戒しながら、心を落ち着けて、呼吸を必死で整えた。
敵は心理作戦など用いて来ないが、敵がどこから来るかわからない以上、無用なプレッシャーを受ける。ましてあの姿を見せられたあとでは武者震いを感じてしまう。
一時の沈黙。水の流れる上下水道の音だけが静まり返った研究室にはっきりと聞こえている。あとは自分の心臓の鼓動が頭の中で喧しかった。
 攻撃は真後ろからだった。
衝撃音が背後から轟くと、俺はいきなり生温い水を浴びせられた。断続的に周囲の壁から打撃音が響き渡る。そのたびに歪んだ壁から水が溢れ出てきた。
 突き破ろうとしているのかと警戒して、俺は壁から距離を置く。浸水しているため革靴はおろか、ズボンまでぐっしょりと濡れようとしている。詩乃はモロに水を被ったのではじめから濡れねずみのようだが、できればこれ以上は濡れたくない。
「上水道の配管の壁を破壊しているのね……どうして、頭がいいわ。水攻めにする気なのね」
 濡れそぼった黒髪を掻き揚げながら晴香は冷静な状況判断に徹する。だが、俺は日記に書かれていたある記述を思い出していた。
 『水中での動きに特化している』
 頭が鈍いどころじゃない。切れすぎている。俺たちが油断する事を見越して愚鈍な獲物の追い方をしていたのだ。俺たちはまんまとここで迎撃させられた!
「脱出するぞ、晴香! 水の中は奴のテリトリーだ」
 水はすでに施設内の置くまで浸透して、深みをつくりだしていた。俺の腿までがすでに水の中だ。俺は膝を曲げて跳躍し、入り口の小さな踊り場に降り立った。腕を大きく内側に掻いて早く来いと招く。
 晴香が腰を屈める。それを狙うかのように、水が噴き出していた亀裂が大きく広がり、膨大な水が押し寄せる。激しくなった水流に足を取られて晴香は流されてしまう。入り口とは反対側の壁にぶつかって、晴香は身動きが取れなくなってしまった。立ち泳ぎして何とか体勢を保っている状態だ。
「足場を探せ! 跳べば俺が手を伸ばす、引き寄せるから!」
 俺は踊り場で立ちすくんでいるだけの自分に吐き気がして、水に埋まっていない足場を探す。水かさが増えて机や椅子がぷかぷかと漂っている。どれも踏めば沈んでしまう。役に立たないッ!
 俺は室内の中央に直立していたシリンダーの束が目に止まった。
八本のシリンダーを束ねて上と下で固定されている、ちょうどリボルバー銃の弾倉の形をしていた。二本のシリンダーが割れてしまっているが、他の六本はまだしっかりと立っている。あれならば、俺と晴香が乗るくらいの体重に耐えてくれるのではないか。
決断すれば行動は即行。邪魔になる剣を鞘に戻す。
 俺は壁の破壊部分から敵が侵入していないことを確認すると、一気に空に飛び出した。緩やかな放物線を描いて俺の体はシリンダーの束の上に着地する。ここから晴香までの距離は手が届く。
「来い、晴香!」
 俺は手を伸ばし、晴香の伸ばした手を掴み取る。後は苦もなく晴香を水の中から引きずりあげた。
そして、俺は手を繋いだまま出口に向かって直線的に跳ぶ。とにかくこの場を脱出する。たった一つの目的のみに集中して、俺はそれを為すための努力を最大限に払った。
「陽クンッ」
 いつだって注意してくれるのは晴香だった。その声で俺はようやく間抜けをこいたことに気がつく。飛翔する真下の水面にうっすらと浮かび上がった巨影。飛んでいる間に俺は方向転換できない。まっすぐ突き進むだけだ。
水面を突き破り、漆黒の大顎が伸びてくる。水飛沫が俺と晴香に打ち付けられる。俺の滞空速度に合わせて追いついてくる大口が俺を呑み込んだ。閉じられる顎よりも速く晴香の足蹴りが俺の肩を強打する。手加減のない一撃に激痛が迸り、それに負けぬ勢いで俺は前方に押し出される。
一方、晴香も蹴りだした足をさらに倍の速度で引き戻す。動作が僅かに及ばず、つま先が牙に削られた。でも、大丈夫だ。彼女の革靴が少々持っていかれたくらいである。
まさに刹那の攻防。
俺の危機を救った晴香はシリンダーの束の上へ。命を取り留めた俺は半壊した階段に激突する。獲物を取り損ねた《海坊主》は宙返りをして水中に舞い戻った。
高く水飛沫が上がって研究施設の天井を濡らす。天井に張り付いた雫がぽたぽたと小雨のように垂れてくる。
 俺の体当たりで壊れかけていた階段はついに堪えが聞かなくなったらしい。
留め金が外れて傾いていく。俺は痛む体を叱咤しつつ入り口によじ登った。俺が小さな踊り場に逃れると、階段は分解しながら水中に没していった。
 これで俺たちは振り出しに戻ってしまった。好転した状況といえば、水がこれ以上増えなくなった事と晴香が水の中から這い上がれた事だけだ。俺は右手にだけ剣を持って水面に目を凝らした。
 先ほどの一瞬で《海坊主》の全体像が見えた。なんて言えばいいのかわからないが……大昔の海にあんな形をした恐竜がいたような気がする。
ワニみたいな面構えで、全身は硬い鱗だらけ、両手両足がヒレになっている。それで、とてつもなく獰猛な奴だ
 俺の位置からは手を出せないと《海坊主》は知っているのか、標的を晴香一人に絞った。彼女の立つシリンダーの束の周りを泳ぎだしたのだ。俺が宙に飛び出せば嬉々として標的を変えるだろう。俺はまったくの手詰まりだった。
 晴香は長刀を突きの体勢で構えている。外せば命はないが剣術においてもっとも隙がなく速い一撃である。彼女にもそれ以外打つ手がない。このままでは疲労を待つばかりだ……なにか、ないのか。
 水面に不気味なさざなみが立つ。勢いを増す波は水面を掻き分ける。その波の先端からは黒い鼻先が見え隠れしていた。《海坊主》は一直線に晴香に喰らいつこうとしている。あれでは例え一突きに咥内を貫いたとしても水中に引きずり込まれてしまう。あの巨体に迫られて脳天を狙い済まして攻撃できるかは疑問だ。第一それで倒す事ができるのかも怪しい。
 俺は無意識のうちに体を動かしていた。晴香を喰らうため、俺に背中の全面を晒している。そこへ鷹が獲物を狩るように疾風となって急降下した。爪ではなく、二本の剣を立てて特攻する。
 勢いのついていた《海坊主》はすぐに反応できない。俺の捨て身の攻撃を背中に甘んじて受けることとなった。俺の剣は黒鱗を砕いて深々と背中に突き刺さる。苦悶の咆哮が耳朶をうつ。俺は暴れまわる《海坊主》の背中で渾身の力を込めて剣にへばりついていた。
 俺を引き剥がせないとわかると《海坊主》は水中に潜った。水に潜ると一面が大小の気泡で埋まり、すぐさま後方へ流れていった。猛然と水中を突き進む体は、沈んでいるガラクタに体をこすり付けながら進む。壁に体当たりをして隔壁を引っかきながら泳いでいく。亀裂から出っ張っていた金属片が俺の腕を裂き傷をこしらえる。水の中に赤いものが溶け出しで視界が赤黒く染まっていく。
 傷は浅いから出血は止まるだろうが、痛いことには変わりない。くたばりやがれ、と剣で傷口を抉っても、身悶えするばかりで一向に《海坊主》は衰えない。頭に近い部分に剣を貫通させているというのに元気なままだ。こいつは誤算だった。
 しだいに息が持たなくなってくる。
 水圧に目を開けているのが苦しい。薄目をして水中の目まぐるしい景色を見ていると、《海坊主》がグルリとヒレを返して方角を一転させた。向かう先は、海中で揺れ動く黒い藻だ。いや、藻なんかじゃない。アレは髪の毛だ。晴香が水中に飛び込んできたのだ。
 晴香は刀を相変わらずの姿勢で構えて《海坊主》を迎えうつ。ならば、俺は剣を上下に動かして傷口を広げる。《海坊主》は晴香に集中できないように痛みを作り出す。激しく動かす剣は背中の傷を痛々しいものへと変える。泳ぐ速度が弱まっていく。《海坊主》の機敏な動きに隙が生まれようとしていた。
 晴香は床をスローペースで一、二、といった感じで跳ねて助走をつける。水の抵抗があるために《影鬼》といえどその動きは制限される。だが、力だけは別だった。
 《海坊主》は晴香を鼻先に捉えると、グワッと口を開く。その口に目掛けて晴香は長刀を一気に当てて通す。その勢いは《海坊主》の生み出した水流を上回る威力を発揮した。逆流する水にのって突き進んだ長刀は《海坊主》の額を貫通して、頭蓋を砕いてかき混ぜた。いや、違う。そんな生易しいものじゃない。この爆発的な衝撃で《海坊主》の上顎から頭はすべて吹き飛んでいく。
 一撃必殺の攻撃に《海坊主》は絶命し、水の中にて塵と消えていった。俺と晴香は一緒に水面へ泳ぎだす。俺は顔を出してすぐさま息を胸一杯に吸う。そして隣で同じく空気を貪る晴香を讃えた。
「はははっ、やっぱりスゲェよ。晴香は凄い!」
 ところが、俺に向かっていきなり拳骨が飛んでくる。それに負けない金切り声が俺にドスドスドスッと突き立っていく。
「何が凄いよ、馬鹿! 女の子一人置いて勝手に逃げるんじゃないわよ。危うく死ぬところだったでしょう!? 助けに来ても注意不足だし、無茶はするし。危なっかしくてとても一人にはしておけないじゃない」
 怒声のワリには顔は笑っている。からかいの言葉だとわかっているので、俺も逆にしおらしく応じてやるのだ。
「ひでぇな。でも俺だって頑張ってただろう」
「まぁね。それは、認めてあげるわ」
 最後には晴香の掌が俺の頭に伸びてきて優しく撫でてくれた。とはいえ、恥ずかしいし照れくさいのでサッサと払いのける事にする。大苦戦の末の勝利だったが、これにて一件落着だ。《海坊主》は全滅した。《海坊主》の研究員が恐れていた過去大戦の再来は防ぐ事ができたのだ。これで《白姫浜新都心》は安全な街へと戻っていくはずだ。これで、終わったんだ。

君の隣に影がある 第十三章

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