第十章

昨日までで『血塗れの路地』は十二箇所に上った。単純な計算では十二人が《海坊主》に喰われたことになる。しかし、事態はそれよりも切迫していた。昨日の時点で行方不明者数は数百名を超えたのだ。たった一日でだ。
 《白姫浜監督局》は直ちに非常警戒システムを始動。すべての《戦闘竜六○三》を起動させて、都市の警備に当たらせている。戦闘竜の装備はレベルファイブ。最悪の事態を想定した最強装備で任務に当たらせている。同時に街中に設置されている自動砲台の警戒レベルを最大値まで上昇させた。完全な防衛体制に移行したのだ。
 教師の退屈な朗読を聞き流しながら、俺は窓の外に眼を向けていた。遠くの空から轟音が聞こえてきている。空を掻く三本の飛行機雲が見えた。
 青空を飛ぶ戦闘機の数はいつもの倍以上。俺の携帯電話にも逐一情報が入ってくる。すでに三つの小隊が《海坊主》と交戦したとの報告がきていた。そういえば、この《海坊主》という名称。綱島さんが偉く気に入ってくれたので、黒い化け物の正式名称となった。そんな安易な名前でいいのか、と訪ねたところ、簡単であるものの方が混乱もなく伝達するのがはやいと言われた。
 しかし、実際に《海坊主》に襲われなければ人々にとっては関係のない話だ。日々、《影鬼》との闘いに明け暮れている市民たちにとって、警戒程度では経済の流れを止める大事には至らないのである。
 都市が外敵に過敏になっていても人々の日常は続く。俺もいつも通り学校にやってきて授業を受けていた。クラスメイトを含めた友人たちも緊張を孕みながら普段の生活を営んでいる。
 朗々と教科書を読み上げる女性教師は教壇を左右に行き交っていた。なんてことのない光景だ。その世界に闇が滑り込んできた。いや、下からそこにいたのだ。潜んでいた。奴が身動ぎしたおかげで俺の瞳は教卓の影に蠢く存在を捉えることができたんだ。俺は無心に剣を引き寄せていた。
 机を弾き飛ばして最後尾の席から最前列まで一気に飛び越えた。
宙を駆け抜ける間に剣を抜き放つ。女性教師の下半身に齧り付こうとする黒い物体を二条の斬撃で切り払った。
 確かな手応えと共に黒い肉片がぶちまけられる。黒い肉塊はすぐさま粉状に散っていった。間一髪のところを救う事ができた。が、しかし。獣の唸り声が周囲から聞こえてきた。
この教室は、囲まれている……ッ!
「全員、武器を取れッ! 足元から来るぞ」
 俺は教室の影と言う影から湧き上がってくる《海坊主》を睨みつつ、声を張り上げた。クラスメイトたちは即座に立ち上がり自前の武器に手を掛けた。静寂に満ちた教室は瞬時に戦場へと変わり、断末魔と怒号が響き渡った。
 俺は迅雷の如く動き、たちまち三体の《海坊主》を切り捨てた。背後で左腕を喰い千切られて絶叫を上げる女生徒を押し退けて四体目の《海坊主》を倒す。手強いと見たのか四方から迫ってきた《海坊主》を無造作に切り払い、突き殺していく。
 俺はあまりの手応えのなさに拍子抜けしていた。前回戦った《海坊主》に比べてこいつらは弱すぎる。クラスメイトの連中でも太刀打ちできる程度の強さしかない。俺は教室内を駆け巡り、苦戦する生徒たちを加勢していった。
 教室内の《海坊主》を掃討し終わると、今度は外の騒がしさがハッキリと耳に届くようになった。《海坊主》は学校中で猛威を奮っているのかもしれない。いや、《白姫浜新都心》全域でこのような事態になっていてもおかしくない。
 俺は居ても立ってもいられずに屋上への階段へ走った。建物の屋根を使って跳んでいったほうが断然速いし、なにより《海坊主》に襲われる危険が少ないからだ。学校の屋上の扉を開くと、舞い降りてきた三機の機影があった。《戦闘竜六○三》の小隊だ。俺の姿を認めると機体を宙に制止させて屋上へ寄せてきた。
「相模原陽光さん、《居住区画》の南方地区で援護の要請が入っています。直ちに急行してください」
 無論そんなもの聞いている暇はない。彼らの脇をすり抜ける。
「三春にでも頼んでくれ。俺は行くところがある」
 強引に押し通ろうとすると《戦闘竜六○三》たちは回り込んでくる。俺の前に立ち塞がって同じ口上を述べた。
「命令拒否はできません。我々と共に援護に回ってください」
「うるせぇな、俺は用事があるんだよ!」
 事務的な口調にうんざりして、剣を振って怒鳴りつける。そんな俺にレーザーライフルの銃口が突きつけられた。斜めからも他の戦闘機が機関砲とレーザーソードを向けてくる。
「《武聖》が命令を拒否した場合、《戦闘竜六○三》は緊急措置とし拘束することができます。相模原陽光、あなたは――」
 俺は剣を真横に引いて、正面にいた戦闘機の首を叩き落した。
 時間がないって、言っているのがわからないのだろうか。命令など知ったことじゃない。背中越しの両機が反応を示す前に体を旋回させる。鮮やかな太刀筋は残った戦闘機たちの人工頭脳を潰していた。三機の戦闘機はその場で力なく崩れ折れる。
 田奈の通う、私立谷塚女子高等学校はこの学校からかなり近い。急げば五分でつける。俺は校舎の屋上から高層マンションへと飛び移っていった。
 上空から眺める《居住区画》は大混乱に陥っていた。自動砲台が首の回る範囲すべてに銃火を浴びせていた。空薬莢を噴水のように出しながら、砲身から煙を上げて弾丸を弾きだす。狙う必要もないほど《海坊主》が周囲を埋め尽くしているのだ。圧倒的物量の前に車道の中央に設置された砲台は押しつぶされる。最後に働いた自爆装置によって《海坊主》の何体かが爆砕する。
しかし、そんなものは焼け石に水だ。土石流のように街中にあるものを飲み込んでいく《海坊主》は人のいる方向へと向かっていた。
 高層マンションなど彼らにとっては餌箱のようなものだろう。付近の高層マンションに雪崩れ込むと階下から真っ黒に埋め尽くされていき、最上階から《海坊主》が溢れ出てくる。
 片足を食われた男性が悲鳴を上げて落下していく。真下の駐車場に叩きつけられるよりも先に、一緒に落ちていた《海坊主》に貪り食われた。
「くそッ、これじゃあどうしようもないじゃないかよ」
 窓から零れ落ちてきた《海坊主》が牙をむき出して飛び掛ってくる。悪態を吐きながら一刀の下に切り捨てた。
 そのとき、《白姫浜新都心》に激震が奔った。
道路に直線状の亀裂が生まれて見る間に離れていく。道路を固定していた金具があちこちで弾け跳んでいた。俺の身長ほどもあるボルトが回転しながら高層マンションに刺さる。見る間に都市の一角が分割されていく。
 俺は心の中で絶叫を上げていた。このままでは海の藻屑になってしまう……ッ!
全力で切り離されようとするブロックから離脱する。斜めに傾き始めたマンションから跳んだ。
俺の足が離れるのと分離した都市が急速に沈んでいくのはほぼ同時。切断されたブロックは落下して数百メートル下の海上へ沈んでいった。海面を真っ白に泡立てる飛沫が高く上がる。
 《白姫浜新都心》は老朽化の進んだ都市を廃棄する機能が備わっている。そいつを利用して《海坊主》を処分する気らしい。まだ市民が残っているのかもしれないのに酷い話だが、全滅するよりはマシか。
 《居住区画》を含めたすべての区画で分離作業が進行していた。大気を奮わせる轟きが《白姫浜新都心》を包む。まるで、世界滅亡を想起させるような壮絶な光景であった。
 高層マンションの壁が途切れて白い華麗な建造物が見えてきた。装飾を施した鉄製の柵に囲われた学校で、中高一貫のため広大な敷地を誇る。敷地内に並べられた宗教色の濃い校舎はどこか浮世離れした雰囲気を作り出していた。
 あれが私立谷塚女子高等学校だ。
 高層ビルから飛び降りながら入る事を少しだけ躊躇う。なぜなら、男子禁制の女子高等学校である。正門、裏門には警備員が立っており侵入者に眼を光らせている。
 《海坊主》の騒ぎのせいで校門は閉じられていた。警備員は武器を片手に校内を走り回っている。中に侵入されているのか負傷者の姿も見られた。驚いた事に生徒たちは校庭に脱出して円形に陣を張っていた。警備員たちが外周を守り、円陣の中央に負傷者がいた。校庭ならば影はない。《海坊主》が生徒たちに接近するためには影から姿を現さなければならないわけだ。
 もしかしたら三春の指示かもしれない。緊急時に頭の回転が速くなる生徒などなかなかいない。そして生徒に影響力をもつ者となると限定される。
 次から次へと湧き出てくる《海坊主》を懸命に撃退する警備員に混じって、黒い疾風が奮戦していた。
あれは……詩乃だ。逆手に持った二本のナイフを巧みに捌き、一騎当千の働きを見せている。彼女が走り回るため警備員が相手にする《海坊主》の数は格段に減っている。俺が頼んでもいないのに救援に駆けつけてくれたのか。感動のあまり目尻が潤みそうになるが、何か嫌な予感が脳裏を過ぎていき、感動は押し流されてしまう。
不当な要求は覚悟しておいた方がいいのかもしれない。端から疑うのは失礼だが、疑って掛かるべき人物だと臭わせているのが、詩乃なのだ。
 しかし、詩乃も動ける範囲と言うものがある。少数の警備員などきりきり舞いにさせられて後ろから食いつかれるものがいた。校庭に集まった事によって、一度に襲い掛かってくる《海坊主》の数が増えてしまった事が作戦の問題だ。
警備員を突破した《海坊主》たちがいた。その数は五匹。前衛の女子生徒が薙刀を構えるがどことなく及び腰に見える。こうしてはいられない。校庭に着地した俺は《海坊主》の一団へ突撃していく。警備員のガードをすり抜けた《海坊主》に吼えた。
「うらぁッ! 女の尻ばっか追いかけてんじゃねぇよ!」
 つるりとした黒い肌にも聴覚はついているらしい。俺の咆哮に《海坊主》たちが反応した。濃厚な涎を滴らせた牙がこちらを向いた。先頭の二匹を左右の剣で仕留めて一瞬で残った敵を短冊切りにしてやる。
 女子生徒の間から感嘆の吐息が漏れた。
うぅむ、なんともいい気分である。しばしの間感動の余韻に浸っていると、円陣を掻き分けて一人の女生徒が姿を現した。彼女は俺が振り回している剣など眼に入らない様子で抱きついてくる。
「お兄ちゃん!」
 慌てて両腕を広げて刃を外に向ける。抱きすくめられた腕のせいで視界が真っ暗になる。いま生徒たちの間で別の驚倒の嘆きが聞こえてきた。ケッ、どうせ俺と田奈の背丈は釣り合いが取れてないよ。
「お前は中にいろ! 危ないから」
 俺は邪魔な妹を引き剥がして円陣を指差す。動こうとしないので背中を押して戻してやった。
「私のことはいいから、横須賀先輩を助けに行ってあげてよ」
「三春はここにいないのか?」
 呼び捨てにした途端、怨念のこもった気配が俺の全身を刺し貫いていった。嫌な汗が噴き出して背中を汚していく。迂闊な事を大声で言うもんじゃないってことを理解した。女子高って怖い、俺は改めて認識する。
 声を潜めて田奈に訊ねる。
「どこにいるんだ?」
「わからないけど、あの《影鬼》なら知っているんじゃないの?」
 田奈が指差すのは詩乃だ。ここにいる全員が、彼女がここで戦っている意味を理解していないようだった。《影鬼》が《影鬼》と闘う。その光景をさも面白そうに共食いでも見ているかのように向けられる視線が、俺はすこぶる気に入らなかった。
 田奈を一度引き止めて鼻先に指を突きつける。
「あいつは滝山詩乃。名前ぐらい知ってるだろ? 人間のために戦ってくれる良い《影鬼》なんだ。わかったな」
 俺の真摯な訴えに田奈はニコッと笑って答える。
「うん、わかった」
 物分りがよくて大変よろしい。俺はちょいちょいと手を振って別れを告げると、奮闘する詩乃へ駆け寄った。あれだけ動き回っているのに彼女はまったく息を切らしていない。俺の姿を眼で見つけるとこちらへ跳んできた。俺と詩乃は素早く背中合わせの姿勢になった。
「助かるよ、詩乃さん。約束を守ってくれるのは嬉しいけど……どうしてここに来てくれたの?」
 すると、詩乃は淑やかな笑みを漏らす。
「私はあなたに協力すると約束したのよ。あなたの届かない痒いところを私がカバーしてあげるわ。あ、それとクレープを奢りね」
 ふところの痛い話が最後にくっついてきた。聞こえなかった事にして済ますのは無理そうだ。
「俺は手の届くところに行けって事かい。三春がどこに行ったのか教えてくれ」
「《居住区画》の都立第七病院の救援に向かったみたい……だけど、戦っているのは《海坊主》とは限らないわよ」
 嫌な予感がした。
「わかった。最悪の事態は避けたいな」
 去り際に一言告げる。無用な心配であり、不要な言葉だけど、心持ちの問題だ。
「ここは任せるから……頼っておくぜ」
「任せておきなさい」
 詩乃は嫣然と微笑んで俺を送り出してくれた。

君の隣に影がある 第十章

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