俺は授業のあと、友人たちと別れて学校の屋上にやってきていた。
燦々と照る太陽は真上から少しだけ傾いた程度。今日は土曜日なので、授業は午後までなのだ。薄い布地を束ねたような雲が、透き通るような青空に浮かんでいる。春の日差しと風の涼しさが気持ちのいい日だ。
俺は屋上の柵にもたれ掛かり校内を見渡してみる。部活動に専念する学生の他に、《影鬼》との戦いを待つ生徒の姿も見える。部活動に専念している生徒の中でも、スポーツの部に籍を置くものが圧倒的に多い。《影鬼》と闘うとき以外に武器など扱いたくないのかもしれない。校庭ではサッカー部の人間がグラウンドの半分を占拠するフィールド縦横無尽に走っていた。そのフィールドを囲う五百メートルトラックを時計回りに疾駆する陸上部員の姿がある。
遠目から見る彼らの顔はとても晴々としたものであった。体育館では武道関係の部活は追い出されている。体育館ではバスケットボールに興じる生徒がいる。学生服姿の人間も混ざっているから、部活動だけでなくフリーの人間も混合の遊びなんだろう。
それらの光景を眺めながら、今朝の化け物の事と三春のこと。二つの事を考えていた。
あの化け物、《海坊主》については現状では何もわかっていない。とりあえず、人を襲う危険生物と言うことだけだ。今朝の出来事は《白姫浜監督局》に簡単なメールを送っておいたので、指示があるならば綱島さんが何か伝えてくれるはずだ。もしかすると、綱島さんが教えてくれた《影鬼》の変化とやらに関係あるかもしれないしな。
残るは三春関連の事。そいつを晴香から聞きだしておきたい。
噂をすれば影が差す。そんな俺に掛ける声があった。
「おぉ……悩んでいるね、少年。一つ、お姉さんに相談してみてはどうかね?」
張りのあるハスキーな声が耳に滑りこんでくる。首に絡むようにほっそりとした腕が巻きつき、魅惑的な感触が俺の背筋に押し当てられた。フッと当てられた甘い息に俺は顔を横に滑らせる。横目で確認するまでもなく、見知った顔が俺の間近にあった。
こういうタイプの女に絡まれて取り乱すと、散々にからかわれる事になると勘でわかる。俺はあくまでクールに彼女に接していく。
「……なんのつもりなんだよ、久留米晴香?」
しだれかかる晴香をゆったりと振りはらおうとすると、彼女は俺の体を回すようにして離れた。自然と俺は晴香と見合う体勢になった。綺麗な曇りの無い瞳がじぃっと俺を掴んで離さない。
ク、クールだよ。くぅる。精神を落ち着けるんだ。
「他人行儀ね……晴香って呼んでちょうだい」
「それで、晴香さん」
「晴香」
ことさら強い口調で晴香は強要してくる。観念して俺は気恥ずかしながらその名を呼ぶことにする。照れたい気持ちを誤魔化すためにぶっきらぼうな言葉を掛ける。
「……晴香、なんのようなんだ」
くるくると回転して晴香は柵に背をあずける。ほっと息を吐いて空を仰いでいた。
「質問があるんじゃないかと思ってね。会いに来たのよ。ビックリするほど嬉しいでしょ?」
晴香は満面の笑みを貼り付けて恩着せがましい事をスラスラと口に出す。俺は断固たる口調で言い捨てる。
「嬉しくはない。でも、質問はある」
三春の事を単刀直入に切り出してもいのだが、ひとまずそれは置いておくことにする。晴香がどういった対応をするかによって、得られる情報が変わってしまうかもしれないからな。
「あの《影鬼》と似た感じの化け物はいったいなんだ? しかもやたら凶暴で怪力だ」
ここで晴香は真面目な顔になった。気配は俺を殺そうとした時と同じような研ぎ澄まされたものに変貌している。
「何って聞かれてもね、名前はわからないよ。正体もわからない。でも、あの化け物は《影鬼》に襲っている、つまり、私たちの敵でもある。これは本当の話。最近じゃあ、《影鬼》が喰われすぎて数が減ってきているの。《白姫浜新都心》にいる生き残りはそれなりに実力のある《影鬼》しかいないわ」
俺は初めて聞かされる事実に呻いてしまった。
《影鬼》に天敵がいるなんて初めて知った。しかも、その天敵は人間にとっても害を及ぼすものになっている。しかし、いままでにそんな事はなかったのに。どうして今になってそんなことが起こったのだろう。
「全員、やられたのか?」
晴香はふるふると首を横に動かす。長い髪が波のように揺れ動く。
「船で別の都市に移動したのもたくさん……とりあえず、《白姫浜新都心》にいるのは戦える《影鬼》だけよ。その戦えそうな《影鬼》を引き込むために、人間を襲ってたんだけどね……あんまり上手くいかないから」
なるほど。戦力不足を補うために決闘をしている人を襲っていたのか。理に叶っているが迷惑千万この上ない。そのことをいま追求しても仕方がないか。その事をサッサと頭から放り出した。
「何人いるんだ? その《影鬼》。出来れば、共闘したい。こっちの意見は纏まってもいないけど」
纏まっていないどころか話もしていない。《白姫浜監督局》は事態が切迫しているとなれば俺の話に協力的になるかもしれないが、厄介なのは三春か。どうしたものか。その問題をクリアしたとすれば、こっちは《武聖》が二人に《戦闘竜六○三》シリーズ、それに武闘派の《影鬼》が加われば相当な戦力である。
期待して晴香の言葉を待った。だがしかし。
「二人」
ふっくらとした唇が紡ぐ人数は予想以上に酷いものだった。俺は愕然として声を荒げてしまう。
「二人!? そんなん戦力になるか!」
ピクンと晴香の眉が跳ね上がる。
彼女に瞳が細く尖り侮蔑交じりの光が浮かぶ。並びのよい歯が見えるように笑っていた。首筋にゾワリと寒気が奔った。思わず口走ってしまった言葉が、彼女の琴線に触れてしまったことに気づいた時には、細い指先がキュッと俺の両頬をつねり上げていた。
「へぇ、《武聖》が二人掛かりでやられちった相手に向かって、戦力にならないとはね。……そいつは、悪ぅございましたぁ」
締め上げる力は容赦なく俺の肉を挟む。痛みで視界が滲んできた。自由にならない口を懸命に動かして謝罪する。
「ごめんりゃはい、言い過ぎました……」
晴香は頬を膨らませながらようやく手を離してくれた。痛む頬の肉をよく揉んでおく。ちょいとばかり面積が広がったんじゃないだろうか。
「しかし、二人って……、昨日は《産業区画》でたくさん見かけたぞ」
晴香は残念そうに乾いた笑いを発する。肩をすくめてみせた。
「陽クンと別れたあとに一戦あってね。皆やられちゃったから」
《武聖》もこちらには二人しかいない。拮抗する二つの勢力が手を結ぶわけだから、二対二のほうが好都合かもしれない。残る確認事項は実力だな。
「そのもう一人の方は強いのか?」
「私よりも断然強いよ。けどね、面倒な性格しているからね。ちゃんと協力してもらうのは骨かもしれない」
ふむ、と俺は腕を組んで考える。
《影鬼》は極力人とふれあいを持たない。何かの利害が一致しなければ人前に姿を現すこともない。仲間になりましょう、と誘って、わかりました、とすんなりいくのは難しいだろう。
「それは、俺がその《影鬼》に頼みに行かないとダメって事か?」
「うん。それと、あなたの財布の中身と心の広さも必要になるかな」
付け足された言葉に俺はある《影鬼》の名前が頭に浮かんだ。まさか、まさかと思いつつ晴香に訊ねた。
「……《影士》滝山詩乃じゃないだろうな?」
晴香は人差し指を立てて高く突き上げる。元気よく声を出してポーズを決めた。
「正解でぇす、超強力な助っ人でしょ」
心強い味方になるかもしれないが、あの気難しい屋がすんなりと重い腰を上げるはずがない。第一会って戻ってこれるかも不安だ。気に喰わない客は問答無用で斬って捨てるような女なのだから。
「冗談ぢゃねーよ、ぜってぇー行かね」
俺は自分の首を撫でながらぼそっと呟いた。
《影士》滝山詩乃とは、五十年前の世界大戦において《武聖》と共に戦った《影鬼》の一人である。二本のナイフを使った格闘術では最強であり。現時点のいかなる都市の兵力でもってしても彼女を打ち破る事はできない、と言われている。現在は《白姫浜新都心》の都立第一図書館の地下書庫に住みついていて、人間社会に流れている情報を集めて売ったりしているらしい。人間社会に適応している数少ない《影鬼》だ。
噂だけを聞くと、とても人間と共生できていると思えないけどな。
「陽クンだったら大丈夫よ。会うなら私もついていってあげるし、殺されそうになったら庇ってあげるし……考えているような事にはならないと思うけど」
そう言われても斬り捨てられるのは俺なんだぞ。正直に言って足が震える。死地へ赴く一言は簡単に即答できることではない。でも……他に妙案が浮かぶわけでもない。
晴香がついてきてくれるというのだから命を取られる事は無いと思う。しかも、あんまりまごついていると、晴香の気が変わってしまうかもしれない。一人で行くのと《影鬼》の知り合いと行くのでは大分難易度が違ってくる。
「……わかったよ。行きますよ」
俺は気がのらないまま首を縦に振る。
厄介ごとが一気に増えた気がする。三春の問題に加えて、晴香への質問、人と《影鬼》を襲う化け物の存在、さらに滝山詩乃との接触。とりあえず、当事者の一人が目の前にいるのだ。問題を一つだけ減らしておく事に決めた。
「晴香、聞きたい事がある」
俺は真剣な面持ちで声を掛けたつもりなのだが、晴香は胸元を押さえてしなをつくる。
「スリーサイズは秘密よん」
声を張り上げて真剣さをアピールしても良かったけれど、それでは晴香にあしらわれるだけだろう。そう考えて、含みのある悪ふざけで言葉を返した。
「秘密にする事か? 三春に聞けばわかることだろ」
三春に聞かれたらサンドバックにされそうだ。少なくとも羞恥と怒りで何らかの懲罰を覚悟せねばなるまい。しかし、効果はあった。晴香の半笑いが引っ込んで瞳に力が入ってくる。
声色を低くして話す。俺の顔を覗き込んできた。
「私と三春ちゃんを見て気がついたの?」
残念ながらそれはない。俺は注意深い男でも気配りができる人間でもないのだ。
「いいや、あの後に色々あってな。その事を聞いたらある程度の事を知ることができた」
「ふ~ん、それなら聞く事なんてないでしょ?」
晴香は関心がなさそうに応じる。
「いや、大ありだ。晴香が知っている事を全部聞きたい。三春やその周りにいる人間からの視点からの事実だけじゃあ見えないこともあるんだろ?」
晴香は奇怪な笑い声を喉の奥から発する。口の端を吊り上げて意地悪な表情をつくった。
「深読みしすぎねぇ、三春から見たものが真実よ。私は彼女に関わりのある存在を抹殺したかった、それだけよ」
飄々とした態度には、後ろ暗さやためらいといったものがない。とてもとても嘘をついているようにみえなかった。でも真実であるはずがない。理由がないからだ。
「それはどうしてなんだ? それがわからなけりゃ納得できない」
「殺人狂に殺人の動機はないわよ。殺したいから殺すの、理由なんてあるわけないでしょう」
そして、質問にはこれ以上答えないと言うように晴香は背を向けてしまう。離れていく黒髪の揺れる背中は張り詰めた空気を纏っている。とても強い意志を秘めた人の姿がそこにあった。晴香は何かを隠しているが、彼女の口から聞く事はできないようだ。殺人狂じゃないのよ、と言っていた昨晩の彼女を思い出す。
謎は謎のまま。見えない事実があるために、俺の求める真実までは程遠いようだった。ならば俺にできることは《影鬼》に似た化け物、《海坊主》について知ることだ。