第二章

《白姫浜監督局》の施設で三春と別れた。彼女は色々と用事があるらしいのだ。俺も《武聖》の任務をこなすようになると学校の宿題以外にも机に向かわなくてはならない日が来るのかもしれない。あんまり考えたくない事だ。
一歩外へ出ると、誰かが俺を呼んでいる事に気がついた。
「お兄ちゃ~ん!」
 こちらに手を振りながら掛けてくる少女の姿がある。金色の髪の毛を後ろで束ねて揺らしている。なかなか目鼻の整った感じだが、大きな瞳と小さな顔。それに愛くるしい顔に似合わない背の高さがある。ちなみに俺よりも背が高い。この時点で大分、俺の兄としての威厳が失われていると感じるのは俺だけだろうか。
 俺は注意して足腰に力を入れておく。予想したとおり。俺の数メートル手前で金髪の少女は俺の小柄な体にダイブしてきた。俺よりも大きな体をしっかりと受け止める。いつもはふらつくはずなのに、今日はずいぶんと余裕にキャッチできた。これも《武聖》になったおかげか。
 少女は俺の妹。名を、相模原田奈と言う。俺と三つしか違わないし、俺よりも身長が大きいくせに、兄頼りな妹である。彼女が将来自立できるのか俺は一日に一回は心配になる。
 田奈は俺の首を両腕でつかみ姿勢を正しくさせる。何をするつもりなのかと黙ってしたいようにさせてやると、田奈は俺の体のあちこちを撫で回し始めた。仮に兄妹だとしても公衆の面前でこんな真似は困る。田奈を体からひっぺがす。
「馬鹿やろう! そういうのはな、好きな男ができてからベッドの上でやるもんだ! 妄りにそういうことをするんじゃない」
 すると、田奈は悲しげに瞳を潤ませる。そんな眼をされると怯んでしまう。これは妹の作戦なのだ。俺が田奈を甘やかしてしまうから覚えてしまった特技に違いない。
「そんな顔してもダメなの」
 両腕を組みできる限り怖い顔をつくる。なっているかどうかは毎朝鏡でチェックしているから大丈夫だ。
「だって、お兄ちゃんが死んじゃったら。私は一人ぼっちなんだよ。病院に運び込まれたって聞いたら心配になるじゃない!」
 鼻を鳴らす妹の仕草にハッとなって目線を持ち上げると、大粒の涙がぼろぼろと流れ落ちているではないか。俺はあわてて弁解をはじめる。こいつは言い過ぎてしまったらしい。妹を泣かせるなどとは兄は失格だ。最低だ。
「わかってるよ。別に田奈の心配してくれる気持ちは嬉しいんだ。ただ、俺は病院に運ばれたわけじゃないし、死んだわけでもないんだからな。ほら、泣くなよ」
 懸命にしぼんでしまった田奈を励まそうと、声を優しくなめらかにして宥めてみる。泣き止まない妹に色々な言葉を掛けて自分の非を詫びる。
「それなら心配かけない約束のために、今日は手を繋いで帰ろう!」
「えぇ!?」
 田奈は異常なくらい俺に懐いている。両親が亡くなる前からこの性質は変わっていないのだが、亡くなってからは歯止めが利かなくなっている節があった。しかも、田奈の感情変化は激しく。泣いていたと思ったら笑っている事が多い。
 いまもそうだ。その顔に涙のあとはなく朗らかな微笑みを浮かべている。俺はいつも上手い具合で騙されているのではないかと疑ってしまうのだが、妹にそんな厳しく当たる事などできない。
「ダメなの?」
 俺が嫌そうな悲鳴を上げたことで田奈の顔にふたたび翳が差す。
「いや……ダメじゃ、ないよ……」
 ぎこちない返事でありながら、俺は毎度田奈の『恥ずかしい要求』を呑んでいる。呑んでいるってのはおかしいな。口に詰め込まされているってのが正しい。
 俺は差し出されてきた手を握り返す。ぎゅっと掌。田奈の顔を見やると、実に楽しそうに、嬉しそうに笑みを貼り付けているのだった。俺は恥ずかしいやらなにやらでどんな顔になっているのか。知り合いにだけは会わないで欲しいと神様にお祈りでもしておこう。
 手を繋ぎながら帰る道の途中で田奈はおもむろに訊ねてきた。
「お兄ちゃんはどうして《白姫浜監督局》なんかに行ったの?」
 田奈は俺の変化に気がついていない。眼に見えるものではないから仕方の無い事だが、《武聖》の事を知ったらどんな顔をするのだろう。少なくとも俺は喜んでほしいと願っていた。
「俺な、《武聖》になったんだ。《影鬼》に勝ったんだよ」
 田奈はポカンとした顔をしていた。馬鹿みたいに見えるから口くらい閉じてくれと思う。しばらくしてから、俺の両手を取ってその場で跳ね回り始めた。
「って、おい! 恥ずかしいから!?」
 ここは道のど真ん中だ。人だらけと言うわけではないが、道行く人にとって視界に入る場所で無意味にはしゃいでいる男女を見かけたら目を傾ける。好奇の視線にさらされても田奈はまったく気にせずに大声をあげていた。
「スゴイ! スゴイよ、おにいちゃん! 《武聖》になったってことは人生を普通に生きられるんだよ。《影鬼》と戦うことにおびえてなくていいんだよ!」
 田奈の言葉を聞いて俺の心は複雑だった。田奈の言葉はそのまま自分の願いであった。妹は《影鬼》に怯えていて、つまり、いつか殺されてしまうことを怖がっているわけだ。俺は田奈よりも先にぜったいに死んではいけないと強い信念を持って生きてきた。だから、《影鬼》と闘うことに怯えや恐れを抱いた事はない。
 だから、俺が《武聖》になれたのは、半分は田奈のおかげなんだ。
「田奈だって《武聖》になれるさ。俺が保障してやる、いつか《影鬼》に勝てるよ。そうなれるように、俺も手伝うからさ」
「私なんか、とても無理だよ」
「そういうことは言うな。がむしゃらで頑張ってみれば、何とか上手くいくもんだ。諦めるなよ、お兄ちゃんも協力するから、な」
 どうにか背伸びをして田奈の頭をワシャワシャと撫でてやる。
 《武聖》は市民を守るための活動をするという。もちろん活動はする。市民のために命を賭けてやる。でも、いざってときは田奈を一番に守る。何を差し置いても田奈の命を最優先に行動する。
 なぜなら、俺は田奈の兄だから。たった一人頼られている家族だからだ。
「うん……」
 俺がこうやって頭に触れてやるときだけは、田奈は身を屈めて少しだけ照れくさい顔を見せる。なんで頭を撫でられる事が恥ずかしくて、手を繋いで帰る事は恥ずかしくないのか、甚だ疑問に思うことだ。
「でも凄いな、お兄ちゃんは。《武聖》になったってことは、横須賀先輩とも会って話したの?」
 思わぬ名前の登場に俺は虚を突かれる。
「なんで、田奈が三春さんの事を知っているんだ?」
 田奈は学生服を摘んで当たり前の事を告げてきた。
「だって同じ学校だもん」
 そういえば。田奈の着ている制服は中等部の制服だが、三春の着ていた制服は同じ学校の高等部の制服だ。そうか、同じ学校だったのか。
「しかし、中等部の人間が高等部の生徒を知っているのは、けっこう学内で有名って事なのか?」
 当然だよ! と突然、田奈は興奮して声を大にする。次から次へと聞いてもいない三春のステータスが妹の口から垂れ流されていく。
「成績は学内でずっとトップだし、容姿端麗、部活動では後輩の面倒見はいい。困っている人を見ればすぐ声を掛ける人だし……《影鬼》を敵視する自分なりの考えも過激で惹かれるんだよ!」
 話はまだまだ続くのだが、はっきり言って聞くのは苦痛だ。しかし、田奈の熱の入れようからも影響力のある人間らしい。《武聖》の鑑ともいえる人物像かもしれないな。それに比べて俺の凡庸さといったら。とりあえず、《武聖》になれる条件は社会的ステータスに左右されないとだけ解ってよかったのか?
 横須賀三春と言う人物像について、田奈から聞かされたことで掴めていた。あの寡黙な雰囲気は魅力的だが、そこまで人気が集まるものなのか。
《武聖》という強力無比な存在にあやかろうとする人の取り巻きが多いのかもしれないが、田奈のようなミーハー生徒が彼女の周囲を囲っているだけなのかもしれない。他人の事だしとやかくは言うまい。ただ、田奈から色々な事を聞いてきてくれと言われて質問事項を箇条書きにして手渡されてしまった。
果たしてこいつをどうやって処分したものか。悩みどころだな。

君の隣に影がある 第二章

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