完全体《海坊主》の撃破をもって、《白姫浜新都心》に平和は戻ってきた。人々は失った家族や友人の死を悼みながらも、日常生活の中に己を没頭させて、悲しみを薄れさせようとしている。《白姫浜監督局》はあの事件を思いださせてしまう街の傷を消し去る事からはじめていた。あちこちに銃痕や血糊が残っているためそれらはすべて隠蔽されていく。さらに、損壊の激しいブロックは分離され海上の超大型タンカーで修理・補修された後、再び《白姫浜新都心》新ブロックとして増設されていた。
あの事件から一ヶ月経て、街に残されていた傷跡は消えつつある。
俺は一週間に一度の率で都立第一図書館へ通っていた。隣に居ても飽きない話を聞かせてくれるからだ。甘いものを持っていかないと門前払いになるのがちと困るが、《武聖》として活動する上で有益な情報を教えてくれる。
「おや、先にお邪魔しているよ」
昼頃に書庫にやってくれば、先客が、綱島さんがいた。あの事件のあとに詩乃を紹介してくれと言うので俺が二人を引き合わせたのだ。それから意気投合したのか。二人は熱心に語らうようになっている。
俺は丸いテーブルの上に並べられたシュークリームを見て胸を撫で下ろす。今日の俺のみやげ物は、有名どころのチーズケーキ。重なりでもしようものならば物凄い仏頂面でお小言を言われる事になる。
「戦友同士の交流ってやつですよ」
俺はチーズケーキの入った箱をテーブルに置いて、自前のコーヒー缶を開ける。《影鬼》に打ち勝った日か願掛けの変わりに一日一回飲むようにしているのだ。
「何を話していたんです?」
研究者のお二方は真面目な顔をしてパソコンの画面を見ている。聞こえていないのかなぁと、怯んだ隙をついて、綱島さんが口を開く。
「《影鬼》と人間、《武聖》の間に子供が出来るのか、という問題についてだ」
危うくコーヒーを噴くところだった。気管支に入り鼻腔を逆流しようとするコーヒーにむせ返りながらハンカチを取り出す。紳士は常にハンカチを携帯するのだ。
「いったい、何を言い出すんですか!?」
口元を拭いながら声を荒げる。しかし、綱島さんは沈思黙考の眼差しをモニターに向けたまま、唸っている。詩乃だけは何かを企むように口元を歪めている。
「詩乃に興味深い記録を見せてもらってな……、いまから二百年ほど前の記録に《影鬼》と人間の間に子供が出来て、その成長記録を記したものがあったのだ」
その記録とやらは個人記録そのもので、赤ん坊の育成日記、といった方がわかりやすい。だが、《影鬼》と人間の間に生まれた子供には違いなかった。記述の横に張られている写真。そこには家族が写っている。子供は双子で、人間の赤ん坊と《影鬼》の赤ん坊が、若々しい男女に抱かれて映っている。
この記録はどこから発見したのだろうか。詩乃に視線を向けると、後ろを指差した。そういえばここには整理されていない紙書類はすべて集まるのだった。世紀の大発見が眠っていてもおかしくはない。
「詩乃。この資料をデータとしてもらっても構わないだろうか?」
「いいけど……公表するのは無理じゃないかしらね」
「うむ。時間が解決してくれる問題でもなし、有効なのは同じようなカップルが誕生する事なのだが……」
綱島さんは何度か納得するように頷いてから俺の肩を叩く。
「君は晴香くんとどれくらい進んだ仲になっているのかね?」
今度こそ俺はコーヒーを噴き出すのを堪え切れなかった。ま、口に含んでいた分が少なかったために汚い真似をすることにはならずに済んだ。しかし、緊急性の高い危機に見舞われている。脱出しなくてはならない。一刻も猶予もなく、即行に!
腰掛けていた椅子から足を動かして、腰を微妙に浮かせておく。剣帯は走るときに邪魔にならないように肩に提げておく。
「詩乃はどうかな? なかなか見所のある青年だと思わないか?」
聞かれた詩乃は唇を舌先で湿らせる。艶かしい声がこぼれる。
「私は陽光くんのことは大好きですよ」
綱島さんは満足そうにポンポンと手を叩いていた。
「良かった。あとは君の気持ちだが、まぁ、それは追々育ててくれ。じゃあ早速――」
俺はその先を聞く前に書庫を逃げ去っていた。もつれそうになる足を懸命に動かして階段を駆け上がっていく。後ろは振り返らず図書館を飛び出していた。
冗談じゃあない!? じゃあ早速……なんのつもりだ。何をやらせる気だよ!
心の中で罵詈雑言を煮立てながら俺は家へ帰ることにした。図書館から家まではそれほど遠くない。買い物をするために食料品店に行ってみようかと、家まで行く道から脇にそれてみる。その途中見知った顔にすれ違った。
そこはちょっとした公園のようになっていて、中央に噴水がある。光の雫を散らす水の動きにその人物は見惚れていた。黒い髪を風にそよがせている《影鬼》は、晴香だ。
俺は道路からそれて公園に入っていく。晴香に声を掛けた。
「なにやってんだ? 噴水なんか珍しくもないだろ」
俺が近寄っていくと、彼女は心地よい響きを持つ声でカラカラと笑う。なんのつもりなのかサッパリわからない。
「いやぁ、いっつもこちらから声を掛けるからね。たまにはそっちから挨拶してもらおうと思ったわけ。素通りだったらどうしようかと思ったわよ」
一呼吸おいて繋げられた言葉が耳に引っかかる。
「勝負にも勝ったしね」
脈絡のない単語に首を捻り、訪ね返していた。
「勝負? 誰と?」
晴香はとても嬉しそうな笑顔をしていた。目元は優越感に緩み、口元は勝利者の笑みを作っていて、満面の笑みというやつだった。俺に対しては小悪魔の微笑みともいうべきことだと……遅ればせながら気づかされることになる。
「あそこにいる怖ぁいお姉さんと」
俺は顔色が変わっていくのが自分でもわかった。噴水を挟んで二人が立ち、どちらに声を掛けてくるかにでも賭けていたのだろう。こいつらは殺しあうくせに仲が悪かったくせに、最近妙な結託を見せるようになっていた。
『怖いお姉さん』とは言うまでもなく、三春のことである。ムスッとした表情を隠そうともしない。彼女は噴水を回り込んでこちらに歩いてきた。
俺は晴香に対して食って掛かる前に言葉を飲み込む。変わりに三春のほうを向いて必死に手と舌を動かしまくる。
「俺が入ってきた方角は真っ先に晴香の方が眼に入るんだ。本当だぞ! なんなら試してみろ!? 決して三春をないがしろにしたわけじゃあないし、見つけられなかったわけでもない。ちょうど、噴水が水を出していたから見えなかったんだ。うん、間違いない。その辺を理解して欲しくてだな……」
三春は朗らかな表情を強引に作り出して語りかけてくる。黒い瞳がどぎつい光を湛えているのだけはどうにもなっていないから怖ろしい。笑い般若とはこのことだ。
「そうですよね。晴香が眼に入ったのは『たまたま、偶然に、ふとした瞬間に』噴水が邪魔だったからなんですよね。噴水がなければ私の方に来たに決まっていますからね」
強調する言葉に加えて、言葉の語尾がぐさぐさと俺をいじめてくる。それに反応する晴香の声が聞こえてくた。
「噴水あるなしも運に関わってくるんだし、運をモノにできなければ賭け事なんてねぇ。いくらでもいいわけできちゃうもの」
二人の間に何かが奔りぬける。極めて険悪で、触れたくないもので、犬も食わない最低の関係。その真ん中に俺を置いてやらないで欲しい。他の人もこのような巻き添えには辟易しているだろう。
無言で眼を飛ばす両者の間で俺は呟く。帰ろう、平和な我が家へ。そして寝よう。妹の世話を焼いている方がよっぽど楽しい一日だ。俺は動かない二人を置いて家路につく。共に戦い抜いた戦友たち、彼女たちよりも大切な存在のために。
田奈は《影鬼》と闘い続けている。俺はそんな彼女をいつも傍で見つめている。
俺たちの住む高層マンション。その屋上にて、一人の少女が槍に体を預けながらそのときを待っていた。太陽は高層マンションに隠れそうな位置にて赤く煌いている。夏の日差しを感じさせていた陽の光は薄れている。涼しげな風が吹いていた。
屋上の柵に体を乗せながら妹に向かって俺は注意する。
「田奈ッ、槍をちゃんと構えておけ! 襲いかかられたらあっという間に串刺しだぞ」
くるっと振り向く田奈の顔はうんざりとしたものになっている。小さな口を引き結び丸っこい瞳は半眼になっている、実に不機嫌そうな面構えだ。
「もう! うるさいなぁ~……ちょっと黙っててよね。緊張するんだからさ!」
妹の可愛らしい憤激を眺めてから、俺は日頃から鏡の前で練習している『悲しげな表情』をつくる。
「お父さんは悲しいぞ、まるで俺が生んだ子供じゃないみたいだ」
キンキンとした声が響き、小気味のいいツッコミが返ってくる。
「いつからお父さんになったのよ! 生んでもらった覚えもないし……。しかも、子供生めないでしょッ」
ふんと鼻を鳴らして田奈はそっぽを向く。怒る仕草も微笑ましいものだ。
俺はこうやって田奈と田奈の《影鬼》の決闘に立ち会っているが、絶対に手出しはしない。例え田奈が殺されたとしてもだ。そのあたりは晴香からきつく言い渡されていた。十中八九、田奈は《影鬼》に殺される。それよりも田奈が勝つ可能性は低い。それをわかっていても俺は手出しできない。
これは人間と《影鬼》の宿命なのだ。《影鬼》が自分の人生を自由に生きるためには人間を殺さなくてはならない。だから人を殺す。殺された人の家族は《影鬼》を憎む。負の連鎖といえる。
しかし、殺さずして両者が共存するのはあり得ない事なのだろうか? 三春と晴香は普通の人間と《影鬼》の関係ではない。どうしてこのようなことが起きたのか。起こせたのか。連鎖を断ち切る力とはならないのだろうか。
俺は人間と《影鬼》の共存に賛成だ。三春も晴香も良いやつだ。良いやつ同士が殺しあわなければいけないのは間違っている。短絡的な考えだが……いまは、それ以外に思い浮かばない。
あと、あるとするならば。田奈が俺に死んで欲しくないと願ったように、俺も田奈に死んでもらいたくないからだ。たったそれだけの事だ。