都立第一図書館は《居住区画》に存在する。
《白姫浜新都心》にある図書館の中でもっとも巨大なもので、保存されている書籍・資料のデータは数百万冊に上るといわれている。さらに、この図書館の地下には紙に印刷された本が保管される、書庫が存在する。世界的に見ても本を持つ都市は少なく、これらの財産は劣化しないように地下に厳重に保管されている。
毎年発見される書物は復元されてからこの書庫に運ばれてくる。滝山詩乃はそれらの整理と秘密文章の処理などを勝手にやっているらしい。本当はやめさせたいのだろうが彼女に力で勝てるはずもなく立ち退きを迫る事もできない。なんとも微妙な関係が五十年も続いている。
俺たちは図書館の司書長に許可を求めて地下の入り口に案内してもらう。一般人が入らないように金属製のポールを一本立てているが、ガードは甘い。誰でも入れるような入り口である。
「中は小さめの照明がついています。一番奥に滝山さんはいらっしゃいますので」
白髭を生やした老司書は短く告げるとカウンターへと戻っていった。《影鬼》に敬語を使うのは奇異に聞こえるが、滝山詩乃と呼ばれる《影鬼》については、大抵の人間がある程度の畏敬を持ってその名を口にする。
俺もその存在についてはよく知っていたが、即興の話題以外でこの《影鬼》について考えるのは初めてだったし、面と向かって会うなど思っても見なかった。
足元をうっすらと照らす照明を頼りに、俺は緩やかな階段を下りていく。一直線の階段を半分も進むと特有の臭いが鼻をついた。目の前に長大な本棚がズラリと並ぶのが視界一杯に広がった。
本棚にあるラベルを見上げると『生物図鑑』と書かれている。この本棚一列はすべて生物図鑑なのだ。地球は過去の大戦によってほとんどの動植物が滅んでしまった。そのため植物園・動物園・水族館、はすべて映像化されたものに過ぎない。それらを現実的に再現するためにはこれらの図鑑は重要な資料となっている。
ここに並んでいるものはすべてデータ化されているだろうから処分にしてしまっても問題ないのだろう。残されているのは、文化的価値、という点だけだ。その他の図鑑、書籍に関しても同様だ。
「こりゃ、スゲーな……」
床から天井までピタリと本が納められた棚など初めて見る。それに二階建てくらいはありそうな本棚だ。つい、阿呆のように下から上までを目で追ってしまう。晴香が目で促すので俺は奥へと歩みを進めた。
光の一切差し込まない書庫は、オレンジ色の照明に浮かび上がるのみ。どこか神秘的な風景は、揺れ動く蝋燭の炎に照らされる教会を彷彿とさせる。書庫の奥には地下に続く階段があった。
「あのね、地下三階まで書庫はあって、その地下三階の一番奥に詩乃はいるんだよね」
「へぇ、けっこう用心深いんだな」
俺の率直な感想に対して、晴香は何も言わない。俺は二階部分まで降りてきてようやく晴香の沈黙を理解する。地下二階の書庫には一階と同一の本棚が並んでいるのは構わない。その並び方がおかしいのだ。
本棚はすべてぴっちりと隙間なく並べられて一本道をつくっているが、それは途中から幾つもの道に枝分かれしているように見える。そのほとんどは最終的には行き止まりになっているはずで、たった一本の道だけが地下三階への階段に続いているに間違いない。
「こ、この野郎……迷路かよッ!」
晴香は目を瞬かせてなんともいえない表情で俺を見つめている。くそぅ、晴香の気まずい顔つきは俺に申し訳なさそうに掛けられた言葉の中にも含められていた。
「詩乃からの命令でね。迷路正解は教えちゃいけないことになっているの」
自分の力を利用しに来るものや、遊び半分の人間には用なしって事か。上等だ。多少ひねくれた性格でなければ誰かを追い抜かしていくような性格にはなれない。世界大戦を生き残った《影鬼》は出会い頭から普通じゃない。
「制限時間はあるのか?」
迷路には時間が決まっているものだ。根気のいい者ならばクリアできるシステムになっているので、設定されていると面倒だ。けれども、それを晴香が否定してくれる。
「ないわよ。大抵、諦めて帰るからね」
俄然、やる気が出てくるな。念のために挑戦者と到達者を質問してみると、挑戦者は百人単位、到達者は晴香一人だけときた。
「じゃあ、俺が二人目ってわけだ。行くぜ」
俺は意気込んで本棚の通路を駆け出した。本棚の隙間から見える景色はほとんど一緒、まるで鑑の迷路の中にいるようでやりにくくてならない。三度行き止まりに到達してからもとの場所に戻った。本棚はどこも一定の場所から先に進めなくなっている。
どういうことだ? 俺は些細な異物にも注意するように視線を通路に向けていた。どこかに別の通路がなければいけない。迷路の壁を通り抜けられるような。だが、本棚にある本をどかして進むのは反則だろう。となれば。
俺は本棚に立て掛けられているスライド式の脚立を探した。通路をもう一度丹念に見直しに回る。あった。二本目の通路に脚立はある。周囲の本棚に抜け穴があるはず。
見上げた本棚の中央部にぽっかりと空洞がある。これで迷路の次へ進める。俺は脚立に足を掛けて猛烈な勢いで上っていく。
待っていろよ……ッ! 必ず、たどり着いてやるぜ。俺は張り切った気持ちを胸の中で爆発させていた。
そして、地下三階の書庫。最深部に俺は満身創痍になってたどり着いた。それほど呼吸は乱れていなかったが、地下三階の難所で何度も負傷して、俺の新品のブレザーはヨレヨレになってしまっていた。そして俺自身も心が折れそうなくらいに疲弊していた。
気に入らない人間は問答無用で斬り捨てる。
地下三階の書庫はまさしくそれを体現化したものだった。迷路に加えて殺トラップが張り巡らされていたのだ。ナイフが飛んでくるような全時代的な罠に過ぎなかったが、そのえげつなさは筆舌しがたい。
傍にある本棚に肩を預ける。三階の地下書庫でこれをやったら壁から針が生えてきたのだ。おかげでブレザーの一部がズタズタのすだれの様になっていた。
「お疲れ様~、あなたは二番目の達成者に登録されたわよ」
晴香の惜しみない賞賛と拍手が白々しく書庫内にこだます。俺はそいつを無視して書庫の奥へと進んでいく。迷路から抜け出しても本棚はあったが、地下一階と同様に歩兵隊のように整然と屹立している。
書庫の一番奥は本棚が除けられており、壁がむき出しにされていた。そこから電子的な機械音とキーボードの叩く指使い、モニターの明滅する光があった。
適度に開けた空間には、巨大なハードディスクとパソコン機器一式。その他用途の知れない機械類が雑多に置かれていた。乱雑な机には数基のモニターのキーボードが重ねて置かれている。
そこにいる女性の《影鬼》は俺たちに気がついた様子もなくパソコンに向かっていた。俺は高鳴る鼓動を押さえながら一歩一歩近寄っていく。
「なにか御用?」
しっとりとした優しい声が掛けられる。女性の《影鬼》はキーボードを叩きながら俺たちに問いかけてきた。机を回り込んで、女性の《影鬼》の横に立つ。
晴香ほどではないが、長く手入れの行き届いた髪を肩まで垂らしている。気に入らない人は殺してしまうような性格から、容姿のほうも苛烈な気配を含んでいると思ったがそうでもない。輪郭は細すぎるわけでもなく、尖るわけでもなく、おっとりした印象を受けた。しかし、体は攻撃的に鍛えられている。しなやかな肢体は長々と伸ばされており、直立すれば俺の身長を優に追い抜きそうだ。
この女性の《影鬼》が、滝山詩乃。俺はこの人物の印象を脳裏に叩き込みながら、名前と容姿を覚えた。
俺が口を開くより先に晴香がしゃしゃりでる。
「御用とは失礼ね。あなたの要望どおり、可愛い美少年をつれてきたんじゃないのさ」
仰天したのは俺だ。真横の晴香に向かって叫び声をあげてしまう。
「ふざけんなッ! なに考えてやがるッ」
晴香は怪しい微笑を浮かべつつ片目を閉じる。茶目っ気に溢れた手を合わせる仕草には悪意が秘められていた。
「私もやりたい事があるのよねぇ、ゴメンよ」
この期に及んで俺をだまし討ちにする気なのか。まんまと罠に掛けられた自分を呪いつつ、いつでも脱出できるように全身の緊張を高める。一方、俺を陥れた晴香は薄い笑いを引っ込めて滝山詩乃に詰め寄る。その眼差しは真剣で、焦っているように見えた。
「まだ残っている場所があるでしょう。そいつを教えてちょうだい」
滝山詩乃は俺を眺めたおした後、満足そうに頷く。晴香を招き寄せて、二言三言、耳打ちをする。晴香は短く礼を述べると風のように走り去ってしまう。
俺もこんなところでグズグズしているわけにはいかない。くるりと反転すると書庫の階段へ逃げ出した。しかし、急に首に重さを感じて真後ろに引っ張られた。
「ッうげ」
背中から石床に叩きつけられてみっともない悲鳴を上げる。背中を床に貼り付けたまますごい勢いで引きずり戻される。いつの間に追いついたのか。俺の襟首をつかむのは間違いなく滝山詩乃だった。俺は滝山詩乃のデスクの横に座らされてしまう。
降って沸いた不幸と束縛に抵抗する俺の首にしなやかな指先が触れる。
「あなたが、相模原陽光ね。やっぱり本物は違うわね」
うっとりとした声で囁かれ上を見上げてしまった。そして俺は見るべきでないものを瞳に映してしまった。
ぞわっと寒気がする。
滝山詩乃のパソコン画面にはいくつモノ画像ファイルが並び、その中のフォルダには俺の画像が無数に表示されていた。画像フォルダは幾つもありそれぞれ違う人物のようだ。滝山詩乃は人間の観察が趣味なのか、容姿の優れた人間を鑑賞するのが趣味なのか、そいつはわからなかった。第一知りたくもない。
俺はアゴを撫でる手を払いのけて立ち上がる。
「滝山さん。俺はあなたに《白姫浜新都心》で暴れている化け物の退治に協力して欲しくてここまで来たんですよ。力を貸してください」
とりあえず、逃亡の前に言うべき事は言わねばならないと使命感を発揮する。世界中を探しても彼女を越える戦闘力の持ち主はいないのだ。
滝山詩乃は両足を組み替えて即答してきた。
「たまに、私のわがままに付き合ってくれるならいいわよ」
俺が事前に協力を申し出てくる事はわからなかったはずである。晴香は知っていただろうが、俺に話してそれまで行動していたのだ。話せるはずがない。つまり、滝山詩乃は即断即決を躊躇なく行える頭の切れを持っているわけだ。
要求してくる事が非常に私的な事なので遊ばれている感覚は抜けないが、大真面目なのかもしれないし、読めない性格の人だ。交換条件には金銭でも要求してくるのが普通なのに俺を求めてくるとは。若い果実が狙われている……、と悲観的になるわけじゃない。内容を確認しておかなくてはならない。
「わがままってのは具体的にはどんなものがあるんです?」
考える間もなく詩乃の口からさらりと滑り出す。
「そうね。あなたは《武聖》だから、《白姫浜監督局》の内情、《武聖》の研究成果みたいなものの横流しとかかな。あとは暇を持て余す私の相手」
情報をやり取りすることを得意としているために、情報を求めるわけだ。最後のは冗談として受け取っておこう。
「わがままに対して、俺の拒否権はないんですか?」
「ないわ」
この一言には強制力がこもっていた。約束を違えれば……そんな脅迫めいたものさえ俺は肌に感じた。
「断ったらどうするんです?」
洒落でも聞きたくはない。でも訊ねておくのが筋と言うものだろう。
「ここで一生、私が飼ってあげる」
滝山詩乃の眼がキラリと輝く。五十年以上も生きている《影鬼》となると気迫も違う。目線にも一切の身動きを封じる威圧感が備わっていた。
諦めて額を軽く押さえた。どのみち、協力してもらいたいし、ここから脱出しなければならない。結局、俺に選択権はなかった。
「……わかりましたよ」
俺が不承不承、滝山詩乃の要求を呑むと、彼女は早速といっていいほど迅速に動いていた。サッと立ち上がり俺の手を握る。
「そうと決まればはやく出掛けましょう。ショッピングしたあとに、デザート食べて、遊んだあとに夕食ね。あなたは私の彼氏役で私を呼ぶときには、詩乃って呼ぶの。私は陽光くんって呼ぶから」
役作りも涙が出るくらいに完璧だ。最悪にな。
憂鬱に際悩まれながら、どこか幸せを感じている自分を情けなく思う。異性との接触など妹くらいしかいない。どのみち妹という時点で異性の対象ではないわけで、手を繋ぐなんて体験は平常心を失うには十分すぎた。
そして俺は軽い酩酊感に襲われつつ、恋人ごっこをするために《商業区画》へ行くことになった。