翌日の朝。俺は憂鬱な気分で学校へ向かっていた。俺は落ちてこようとする目蓋を懸命に押し上げながら、《居住区画》の道路を歩いている。昨晩4時半頃に帰宅した俺は制服のままでベッドに力尽きた。だが、妹のために朝食を作り弁当を持たせてやる日常動作は欠かさずに行った。週間とは怖ろしいものだ。
それよりも、今年で十五歳になる妹が家事全般にまったく興味を示してくれない事に対して俺は恐怖を感じているけどな。
そして、俺の傍らには三春が歩いている。昨日のことについてわざわざ登校する俺を待ち構えて礼を言いに来たらしい。ちょうどいいので昨日の晴香が言っていた事を伝えておいた。『人間を襲わない』という約束の事だ。
当然の如く。三春は眉をひそめて言い放った。
「信用できないわ」
一蹴されてしまう。それどころか、説教までされる始末だ。だが、俺はめげない。丁寧に何度でも、三春を苛立たせないように気を配りながら話し続けた。
「頼むよ、見回りで《影鬼》を追い掛け回すのをやめて欲しいんだ。一週間でも、三日でもいいからさ」
「ダメよ。ほうっておく事はできないわ」
断固たる口調からは俺の説得くらいでは揺るぎそうにない。しかし、三春が《影鬼》を退治するのを続ければ、晴香は態度を変えてしまうかもしれない。どうして晴香が俺にあんな約束をしてきたのか知りたいから、出来れば三春には我慢して欲しいのだ。
「お願いします……」
「嫌です」
俺たちの会話は先ほどからこればっかりだ。かみ合わない問答を繰り返していた。そんなやり取りを続けていると、スッと大きな影が差す。釣られて視線を持ち上げた。
「おはようございます。横須賀三春さん、相模原陽光さん」
抑揚のない女性の声を真似た音声が響く。俺たちに並ぶように降り立ったのは、小柄な戦闘機だ。機体の前部に取り付けられた補助翼からタイヤを伸ばして、俺たちと併走する。《白姫浜新都心》の警護する自立起動型の戦闘機、《戦闘竜六○三》シリーズの一機だった。
こいつは一風変わった戦闘機で、一世紀前にその原型が開発されてから幾度も改良を施されて最前線を戦い抜いてきた、空中と地上での高速戦闘に長けた兵器だ。世界に散る各都市群で様々なバリエーションが活躍している。
晴香の引き起こした事件のため、《戦闘竜六○三》シリーズは完全武装で都市を巡回している。機体の後部に装着された上下のマニュピレーターには二十ミリ旋回式機銃を装備し、機体後部のコンテナには予備武器を搭載していた。市民に敵対する者が現れたならば容赦なく射殺する気だ。でも勘違いしないで貰いたいのは、彼らの性質は大人しいもので親切心に溢れているということだ。彼らは市民に出会えば挨拶を交わし、危険が迫れば身を挺して守り抜く。
「おはよう。任務ご苦労様」
三春は労いの言葉を述べる。
「何か報告することでもあるのかしら?」
三春がどうして《戦闘竜六○三》に向かって命令口調なのかというと、《武聖》に与えられている特権のおかげだ。《武聖》は《白姫浜監督局》の権限を与えられているため、一部に特命を受けている機体を除けば、彼らを動員することも可能だ。《白姫浜新都心》に配備されている二千機の《戦闘竜六○三》は、俺たちの部下ってわけだ。
「いえ、現在調査中である事件の犯人についてはまだです。しかし、我々にとってお二方は《武聖》、上官に当たる人物であると同時に守るべき市民でもあります。今の時刻は八時四十九分。学校はどうしたのですか?」
手厳しいお言葉である。彼らは市民を叱責することも『守る』こととして認識している。子供が道に落書きをしていれば注意するし、学校をサボっている学生を見つければ説得するのだ。
三春は大仰に肩をそびやかせる。口うるさい戦闘機に刺々しい言葉を返した。
「遅刻したの。休む気はないから、安心して」
戦闘竜六○三は、赤い一つ目を明滅させて首を捻る。
「夜更かしはしないほうがいいですよ。遅刻もそうですが、女性の場合は健康状態に気を配ってください。私は哨戒に戻りますので、それでは……」
戦闘機は別れを告げて空へと飛び去っていた。推進器は騒音により迷惑になるため停止している。そのため、背中から伸び生やす蒼天色の重力制御器を起動させて浮力を得ているのだ。舞い上がる気球に似た動きはとても戦闘機には見えない。その前に人間的な温かみのある接し方が機械とは思えないけどな。
「さっさと学校へ行きましょう。これ以上、別の戦闘機に注意されるのは困るわ」
「早いな。もっとゆっくり歩けよな」
三春はスタスタと先を行ってしまう。彼女の歩幅では俺は小走りでないと追いつけないのだ。疲れる。
ちょうど緑地帯を通りかかった時だった。都市空間に安らぎをもたらす、土の匂いと木陰の涼しさがある空間から何かが飛び出してきた。いや、正しくない。転がりでてきた。
俺は何が目の前に通り過ぎていったのか、すぐには理解できなかった。思考が追いついて柄に手を掛ける。
あまりに凄惨な姿に思わず顔をそらす。
毒々しい色を撒き散らしながら道路を染め上げていくのは首のない上半身。人間の肉塊だった。紺色のスーツが黒ずみ、下のワイシャツは真紅に染まっていた。千切れた頭の部分から真っ白い下顎が覗き、舌が力無く垂れている。若い男のようだがグチャグチャの死体では人相まで予想するのは無理だ。
傍を歩いていた女性が金切り声を上げ、近くの男性が抱え込んでいた武器を持って、周囲の人間に、逃げろ、と叫んで回る。
《戦闘竜六○三》の姿はないが異常を察知してすぐに駆けつけてくるはずだ。だが、三春は待てないらしい。俺が剣を構えるより先に、三春は緑地帯へ躍りこんでいった。影を落とした林の中は彼女一人では無謀すぎる。
「先走るな!」
一声かけてその後ろを追う。敵は一体なのか無数にいるのかわからないのだ。慎重に行動しなければいけない。低木の葉を蹴散らして茂みの中を疾走する。
「くそッ……晴香の奴。約束は嘘だったのかよ」
俺は奥歯を噛みしめながら言葉を吐く。俺は例え敵の言葉でも、信頼することは大切な事だと心に誓っている。だから裏切られた時は、憤りを感じるよりも……悲しい。
三春が緑の開けた小道で立ち止まる。俺も横に並んで足を止めた。凄まじい血臭が漂う林の奥で、一心不乱に食事を続けるモノがいた。肉を噛み千切るために、死体を引き摺り、鮮血を飛び散らせる。黒い舌は流れ出る血を地面の泥ごと啜っていた。
黒くて丸い生き物であった。目はない。まるで、ブラックチェリーのゼリーを容器からひっくり返したみたいな形をしている。体を真っ二つにするほどの口にはズラリと白い牙が生えている。全体的なフォルムは、なんというか。妖怪図鑑に載っている《海坊主》とそっくりだった。
「な、んだ……これは?」
特徴は《影鬼》と似ている。しかし、人の形をしていない。まるで猛獣のようであり、意志があるとは思えない。初めて見る生き物であった。
そいつは死体から俺たちの方へ牙を向けた。際立つ白さを見せる牙は唾液交じりの血で汚れている。血生臭い息がこちらにまで臭ってきそうだ。そいつは俺たちに気がついたらしい。嗅覚があるのか、鼻を鳴らす仕草をする。
「倒すわよ、あなたは左から」
三春の判断は早かった。何者かであるよりも倒す事を優先させる。俺は小さく頷いて答えた。刺激しないようにそろりそろりと回り込む。
俺は《海坊主》の口に剣を突きつけながら間合いを狭めていく。《海坊主》は動かない。牙を俺たちのいた場所に向けたまま微動だにしなかった。
刹那。
あと一歩という距離で、《海坊主》は牙を俺に向けた。体を膨らませるようにして伸ばして、俺に喰らいついてきた。
「んがッ!?」
予想外の攻撃に俺は剣を交叉させて防御する。牙に鋼のぶつかる音が鳴り、俺は衝撃に地面を滑っていく。苔むした地面を革靴が擦る。勢いに引き摺られた形で数メートル後ろにあった樹木にぶつかった。踵が削り取った土の痕が生々しく地面に残っている。
《武聖》の力をここまで押し切るとは凄まじい膂力だ。《海坊主》は仕留めそこなった俺に体当たりを仕掛けてくる。単純な攻撃だが勢いのついた怪力を受けるのは危険すぎた。
俺は真横に転がって回避する。
寄りかかっていた樹木は《海坊主》の突進力に粉々に砕けてしまう。木片と木屑が俺に降り注いでくる。《海坊主》の気配を探りながら俺は走り出す。木片の雨を潜って黒い物体が接近してきた。
今度は十分な間合いをひきつけて剣を叩き込む。確かな剣の軌跡が《海坊主》の胴体があった場所をすり抜けて、立ち木に食い込んだ。かなり太い幹だったため両断する事ができなかったのだ。
しかし、《海坊主》はどこへ消えたんだ。
きょろきょろと首を動かして《海坊主》の行方を捜す。その俺に向かって三春が突っ込んできた。腰を狙った体当たりに俺の体は宙を浮かぶ。
鈍い着地音の後、俺たちは地面の上を滑っていく。《海坊主》は剣の突き刺さった大木の直下から浮き上がってくるところだった。そうか。《影鬼》の特徴を持つ化け物なのか。油断していたぜ。
「助かったよ!」
「礼なんかあとでいいですから! 挟み込みます」
三春の掛け声に俺は《海坊主》を迂回するように走りこむ。《海坊主》はよっぽど俺を喰いたいらしく、一直線にこちらへ進んできた。茂みの間に隠れて見失わないように、樹木の幹足場にして空中を駆け巡った。
《海坊主》を引っ掻き回して俺が背後をとった。そのとき、三春はすでに《海坊主》の真正面で拳を腰溜めに据えていた。二人の一撃が《海坊主》に炸裂する。
しかし。
岩塊をハンマーで叩いたような痺れ両腕に伝わっていく。剣を取り落とす事はなかったが……柄を握る力が弱まってしまった。凄まじい硬質肌だ。振り下ろした特殊鉄鋼の剣は刃が欠けてしまっている。
三春も右手をさすりながら後退していく。うっすらと三白眼に涙が滲んでいたのは気のせいではなさそうだ。
《海坊主》は俺たちの攻撃が失敗した事を悟り、反撃に転ずる。攻撃対象を俺から三春へ変えた。地面を滑るように突き進み、ステップを踏んで下がる三春の手前で忽然と消える。影の中に潜ったのだ。
「跳べッ!」
俺の大喝が先か。三春が地を蹴るのが先か。
三春の足が宙にあったとき、彼女のいた地面に鋭い牙が生え出てきた。三春は両足を腕で抱え込む。逃れた両足に一息遅れて、バキンッと音を立てて牙が閉じられる。まるで鮫のような獰猛さだ。三春は木立を足場に俺の隣に着地した。
《海坊主》はふたたび影に潜行する。これでは攻撃ができない。どうにかして日の当たるところまで引き込まなくては。俺は木陰を注視しながら叫ぶ。
「森の中じゃ不利だ。道路まで逃げよう!」
俺は駆け出そうとするが、三春のたおやかな指先ががっちりと俺の腕を掴んだ。
「追ってくるとは限らない。ここで仕留めるのよ。市民に犠牲者が出ないように、絶対にここで倒す……ッ」
「馬鹿な事を言うな! 森の中じゃ勝ち目はないぞ!」
俺が怒鳴りつけても三春は動こうとしない。三春の意固地なまでの使命感はいったいなんなのか。こうなれば問答無用だ。放って置いて死なれでもしたら目覚めが悪い。
俺は掴まれた腕で、逆に三春のブレザーを引き寄せた。両足を折り曲げて座り込むように腰を落とす。一秒にも満たない溜めの時間を要し、筋肉を弾けさせる勢いで両足を伸ばした。背後で三春の細い悲鳴が聞こえた気がする。
溜め込んだ両足の爆発力が地面を抉り取る。俺の体は葉の茂みを突き抜けて、青空に向かって翔る。緑地帯を数十メートル下に控えて、俺と三春は風を切って滞空していた。
高層マンションを横切る形で何かが飛来する。金属の翼を輝かせた戦闘機たちだ。騒ぎを聞きつけて現場に駆けつけたのだろう。俺は手を振って合図をする。三機の戦闘機は機首をこちらへ転進した。
俺たちの姿を認めて接近した戦闘機の小隊に、俺は大声を張り上げて下を指差した。
「あの林をミサイルで吹き飛ばせッ! 機関銃で薙ぎ払ってもいい! 敵がいる!」
了解、と答えた三機の《戦闘竜六○三》は、散開して緑地帯に機銃掃射を仕掛ける。土が弾けて舞い上がり、木々が倒れる。
三機はさらに武器を交換しミサイルランチャーを腕に装着する。空中で静止して小隊の一斉砲撃が始まった。三機の発射した合計十二発の弾頭が林の中に尾を引いて消え、数秒後に空を焦がす大爆発が起きる。四方に飛び散った炎は瞬く間に樹木を焼き尽くし、黒煙と焼けた空気の臭いがあたりを包んだ。
「やったか?」
道路に着地した俺は燃え上がる緑地帯に目を凝らす。舞い上がる火の粉と熱気が俺の肌を撫ぜる。林はせり上がる業火の前に焼き尽くされ、次々と灰になっていく。逃げ果せていないのであれば、この炎の中を飛び出してくるか。そのまま燃え尽きるか。その二つしかない。
「わかったでしょう、陽光くん。あれは《影鬼》よ。あの女と約束なんてしても無駄よ」
三春は炎を眺めながら、俺に辛らつな言葉を吐き捨てる。黒い瞳は炎の揺らめきを映して、ギラギラと光っていた。
「おいおい、いくらなんでもそりゃあ……考えすぎだろ」
あの化け物の特徴は《影鬼》と同じものだった。《影鬼》と関係あることは確かだが、晴香の差し金と考えるのは早計というものだ。まぁ、俺もあの化け物を見るまで疑ってしまったが……戦っていて理解できた。あれは誰かに命令されて動くようなものじゃない。
そんな俺を叱咤する声が耳を打つ。
「いい加減にしなさい! 《影鬼》は人に危害を加える存在なのよ。話し合いなんかする必要ないの。滅ぼさなくちゃいけないのよ!」
怖ろしい剣幕で怒鳴りつける三春は、ゾッとするような口調で先を続けた。自分を縛り付けるように呪わしげに呟く。
「《影鬼》から逃げてはいけない。必ず殺さなくちゃ……ッ」
今の三春は初めて見たときの印象からかけ離れていた。まるで別人だ。見開かれた双眸から感じられる鬼気たるものは、憎悪だ。
「三春……お前、おかしいぞ」
俺は血走った黒目を見据えながらようやくそれだけの言葉を舌にのせた。
「おかしくなんか、ない。私は間違っていません。《影鬼》は、滅殺しなければならないんです……!」
三春は俺に背中を向けると一人で歩いていってしまう。どのみち、学校の方角はここで分かれる。だがしかし、本当に一人にして大丈夫なのか不安だった。晴香もとんでもない感情を三春の中に植えつけてくれたもんだ。