時は過ぎ深夜。月が浮かぶ頃合、人々が完全に寝静まった時間帯に俺たちは活動していた。《武聖》としての任務である、見回りだ。
俺は人間の身では味わえなかった快感で、心が狂うほどの高揚感に満たされていた。
天を貫くビルから跳んで、螺旋を描く高速道路に着地する。高速道路の天井に掛けられた鋼鉄の桟を蹴って空を翔る。空中で直立不動の姿勢で回転する。曲芸士も仰天する荒業を披露しながら人気のない都市を満喫していた。興奮のあまり心臓が爆発しそうだ。
「あまり、遊ばないでくれます?」
目の回る高低差を跳躍する俺に対して、隣の三春に淡白な言葉を浴びせられた。《武聖》の仕事中に遊ぶとは、と言いたそうな不機嫌さだ。ジロリと睨みつけられて、慌てて姿勢を正して平謝りに徹する。
「はは、楽しくてさ……ゴメン。謝るよ」
俺たちは何事もなく《白姫浜新都心》を移動しているが、今の時間帯と場所を考えると、いつ《影鬼》に奇襲されてもおかしくなかった。ここは深夜の立ち入りが禁止されている《産業区画》だからだ。
五十年ほど前に起こった戦争の影響で日本列島は元の姿を失っていた。かつて、この地域に大きな島があった事を思わせる奇妙な形をした砂州がいくつも残っているだけだ。《白姫浜新都心》は関東地方と呼ばれていた地域を中心に巨大な水上都市として建設された。《影鬼》の脅威から効率よく身を守るため、《居住区画》、《商業区画》、《産業区画》、と三つの区画に分けて建造され、各区画を堅牢な隔壁と海、さらに《影鬼》に嫌がる極大の照明で囲っている。衛星写真で見ると、《白姫浜新都心》の形は三つ葉のクローバーとそっくりだ。
俺たちの通う学校や人々が眠る場所は《居住区画》にある。
《居住区画》は夜間になると街全体が燃えているような光を放つ。《影鬼》は影伝いに移動できるため、街全体の影を消す大量の照明をつけているのだ。おかげで夜間の《居住区画》は絶対に安全といえる環境が整っている。
ところが、俺たちがいる《産業区画》はまるで違う。
《産業区画》は企業のオフィス街と工場地帯でなる区画だ。午後六時をもって完全に封鎖され、明け方の午前六時から封鎖解除となる。封鎖の時間帯はコンピューターの管理する工場以外は停止している。さらに電力削減のため《産業区画》の封鎖時間帯は照明がすべて落ちる。月明かりだけの《産業区画》は《影鬼》たちの住処となっているのだ。
俺たちの行動を監視するかのように、あちこちの影の中に《影鬼》が身を潜めている。影の中を移動しながら付かず離れず追ってくるのが視界に入っていた。忙しなく首を回していると三春に忠告される。
「私たちの目的は決まっています。襲い掛かってこなければ無闇に攻撃する必要はありません。体力は温存してください」
「体力は温存といっても……あの《影鬼》を見つけられるかもわからないしな」
三春の口から小さくため息が漏れる。俺は何か気にさわる事だったのかと、居心地の悪い気分になった。けれども、理由もなく謝るのは馬鹿らしいのでそのまま黙っている事にする。
その沈黙を破ったのは三春だった。
「あの《影鬼》はいつも無人製鉄所の周辺にいます。あそこまで行けば必ず出会えるはずです」
高層ビル群が途切れて、まっすぐに引かれた高速道路に出る。周囲に背の高い建造物はなく、オフィス街と区切りがつけられていた。夜闇に甲高い鉄を打つ音が響いてくる。轟々と炉が鉄を滾らせるうねりと、鉄と鉄の擦れあう奇声が聞こえてくる。三春の言う無人製鉄所は目の前だった。
波打つ工場の屋根を走り、鉄塔を足場にして無人製鉄所を探索する。一見すると無用に見える作業機械のせいか、今の俺には《武聖》専用のアスレチックのように思えてならない。鉤爪のついた超重量のクレーンや積み上げられたコンテナを渡っていく感覚はなんとも言えない楽しさがある。
俺の先を行く三春の足が止まる。ギラリと光る瞳が俺を射抜いていた。
「遊びじゃありませんよ……わかっていますか?」
俺は嬉しさが顔に表れる性格なのだろうか。表情は真面目な雰囲気を装っていたはずなのに、どうして三春は読み取るのか不思議でならない。しかし、ここで謝れば自分の非を肯定したことになってしまう。
「三春さんは俺の事を何だと思っているんだよ、真面目にやってるだろ? 俺だって襲われたんだから真剣なんだぜ」
精一杯努力をして心外だという様子を演出してやる。三春は両手のフィストカバーと両腕の篭手を確かめてから。ある方向を指差した。彼女の人差し指は工場の屋根を示していた。そこには、女の《影鬼》が佇んでいた。夜風になびく長い黒髪と学生服姿。見紛いようもなく俺を殺そうとした《影鬼》だった。
「真面目に、頼みます。私たちが同時に掛かっても勝てるかどうかわからないんですから」
指を差す姿勢のまま三春は強い顔で言う。彼女の横顔はひどく緊張していた。それでいて瞳にはどす黒い炎が猛っていた。
俺たちが工場の屋根に降り立つと、女の《影鬼》はようやく気がついた。俺たちの方を億劫そうに見やる。
「また三春ちゃんか……懲りないね。今日はお友達も連れてきたんだ」
そして俺をまじまじと見つめて、ニヤリと笑みを零す。
「《武聖》になったんだね。あれくらいの傷じゃあ殺せなかったか……残念」
心の底からそう感じているのか、両手を振って空を仰いでいる。大仰な素振りがうざったい。俺は腰に提げている二本の剣を威勢よく抜き放つ。新しく貰った鈍色の片刃剣と《影鬼》の片刃剣。二刀流は慣れていないが……まぁ、できないことはないと思う。遊び半分で練習していた事もある。
《影鬼》の片刃剣を突きつけて言い放つ。
「てめぇは、人を殺しかけておいてそれで済ますし気かよ。二対一なんだぜ、今日は」
じりじりと三春も間合いを詰めている。一撃で仕留められる距離まで近づいていく。一方狙われている当人は暢気なもので、頬を膨らませて怒っていた。
「てめぇ、なんて呼ばないでよね。私は、晴香。久留米晴香ってのよ。名前で呼びなさい」
ころころと変化する表情からは俺を殺した時に見せた殺気がない。どうにもやりにくくて仕方がない。そんな事をしているうちに状況が変わってきた。
工場の影から数体の《影鬼》が姿を見せる。久留米晴香を援護する気なのかも知れない。《影鬼》は同族意識の強い生物なのだ。俺は先に奴らから片付けようと体を傾ける。ところが、久留米晴香は援護は不要だと合図して下がらせたのだ。相当ナメられているらしい。
俺と三春が詰められるギリギリの位置に陣取ると、晴香は長刀を頭上に構えた。その動きの一つ一つは隙だらけだった。
「この野郎、一人で勝てると思ってんのか?」
俺は工場の屋根を疾駆する。一踏みで晴香の真横まで間合いを詰め、黒色の片刃剣を振り下ろした。黒い閃光となって晴香の体が掻き消える。だが、俺の眼は彼女の動きを追うことができた。背後に回った気配に向けて、鈍色の片刃剣を半回転させる。
微かに切っ先が触れた。しかし、浅い!
体勢を変えると、晴香が猫に似た動作で床を跳ねて後退するのが見えた。それを追って三春が突進する。三春の右拳と晴香の長刀が激突する。耳に痛い衝撃音が屋根を震わせて、二人の持つ獲物の間から火花が飛び散った。
申し合わせたように両者は飛び離れる。再び衝突。二人は見合いながら、隣接する工場へ跳ぶ。零距離で凶器が打ち合わされ、巻き起こる旋風が俺の頬を過ぎていく。俺は彼女たちの行く先に回り込むべく、工場を繋ぐ搬送用のレールに駆け上がった。バランスを取りながらレールに足をかける。十数メートル真下はコンクリート、落ちれば身悶えするくらいに痛そうだ。
平均台並みの細さである金属線路の上を全速力で駆けていく。横目で三春と晴香の一騎打ちの様子を確認しながら、手頃な足場を探した。咄嗟に三春と挟撃しようと思い立ったのはいいが、ぜんぜん挟み込めない。むしろ離れていく。
その視界に俺はあるものを捉えた。
「使えそうじゃん……」
俺は手頃な足場を見つけて一人呟く。見つけたのは駆動しているクレーンたち。忙しなく動くアームがコンテナを探して動き回っていた。その一つに俺は飛び乗る。動き出した勢いに体が揺れるが、タイミングを取って次のクレーンに渡る。
二人を一瞥すると、ついに足を止めて一歩も引かぬ『ど突きあい』をはじめていた。拳で戦う三春のほうが押しているように見えるが、ニコニコと笑っているのは晴香のほうだ。この均一を崩すのは俺の加勢。俺は晴香の背後から勢いをつけて斬りかかる。
「ぃよっと――!」
晴香は何て事のない動作で垂直に飛び上がった。この動きに俺は仰天する。三春がしっかりと押さえてくれているものだとばかり思っていたので、晴香の行動についていけなかったのだ。俺は三春に衝突しそうになる体に急制動をかける。三春も突き出した拳を慌てて引っ込めていた。
「ク……ッ」
三春は舌打ちして上を見上げるが、晴香はすでに彼女の後ろに着地していた。
「三春、後ろだ!」
俺の叫びも空しく晴香は攻撃態勢に入っていた。晴香の一撃を背中に受けて三春が吹っ飛んでくる。直線状にいた俺は三春に巻き込まれて、屋根の上に設置されていた空調機器に叩きつけられた。晴香は三春を刀で斬り捨てず蹴り飛ばしただけらしい。三春は俺に寄りかかる形で気絶している。情けないとは言えない、俺もやられちまったわけだからな。
反撃しようと剣を握りなおす。三春を退けようと伸ばした手に黒い長刀の刃が押し当てられた。目線を上げると笑みを絶やさぬ晴香が立っていた。動けば俺と三春の首は泣き別れ、宙を舞うことになる。
「お仕舞い。まだやるの?」
ところが、晴香はあっさりと刀を引いてしまった。肩に長刀を背負いながらこちらを窺っている。三春を空調機器に寄りかからせて俺は立ち上がる。二人掛かりで負けた相手に一人で挑む気はさらさらなかった。剣をダラリと提げて話しかける。
「なんで殺さないんだ? 朝はいきなり刺してきたくせに……」
「朝にあなたを刺したのは、《武聖》を増やしたくなかったからよ。三春ちゃんみたいのがもう一人増えたら始末に終えないからねぇ」
晴香はクククッと喉を鳴らす。
「何を言ってやがる……二人相手にしても余裕じゃないか」
俺は憮然とした声で吐き捨てた。謙遜にしては態度が悪いから、馬鹿にされているような気分だった。
「三春ちゃんは私を含めた《影鬼》をメッチャクチャ恨んでる。三春ちゃんと同じ考えの《武聖》がもう一人増えたら嫌でしょ? だから、あなたを殺したの」
三春が時折見せたは《影鬼》に対する激情から来るものだったわけだ。何で恨まれているのかは……まぁ、聞かなくても大体わかる。人間の中で《影鬼》に恨みを持っていない奴など少ないからな。
「嫌なら殺せばいいだろうが。三春に追い掛け回される事はなくなるぞ」
「三春ちゃんは悪い子じゃないし、嫌いじゃないから殺したくないの。出来れば、仲良くしていきたいのよね。もちろん、あなたとも」
小首を傾げて俺に視線を投げてくる。俺は晴香の瞳をボケーッと見惚れてしまっていた。気づいて高速で視線を泳がせた。
「そ、そりゃ……お前ら《影鬼》次第だろ? 人間に襲い掛かってくるなら俺たちは撃退するだけさ。《武聖》は市民を守る義務があるからな」
俺の言葉が意外だったのか。晴香は大きな瞳を見開いてニヤリと口元を歪めた。
「ふぅん、あなたは私らが人間を襲わなければ攻撃してこないんだ?」
「まぁ……そうなる、のかな?」
含みのある言い方に即答しにくい。曖昧に受け答えてしまった。しかし、晴香は実に満足そうに頷いていた。何か信頼たるものを手に入れたように清々しい表情をしていたのだった。
「それなら、明日から人間は襲わないことにするわ。あなたに嫌われたくないしね」
俺に出会っただけで取りやめる行為。そんないい加減な感情で人を殺しまくっていたのか? 俺は怒りから脳髄が爆発するかと思った。
「てめぇ、ふざけんなよッ!? 理由もなくて人を襲っていたのか!」
いきり立つ俺の怒気を当てられても、晴香は動じない。両手を顔の前で振ってカラカラと笑っていた。
「やーね、私は殺人狂じゃないんだから理由はあったわよ。まともな思考回路のある《武聖》が現れたのなら、人を殺す必要はないって訳。私の中の天秤が反対側に傾いただけよん」
ツツッと流れるように晴香は俺から離れた。長刀を影の中に放り捨てると、夜陰に姿を暗ませる。月明かりに黒いシルエットが浮かび、工場の影に着地する。すぐに彼女の姿は影に沈んで消える。
遠くのほうから晴香の声が聞こえてきた。
「夜は危ないから早く帰るのよ……、こわ~い妖怪に食べられちゃうからねぇ……」
悪戯っぽさを含ませた言葉に悪態をつく。何が怖い妖怪だ。俺たちはもう子供じゃないってのに、馬鹿にしているのか? しかもイライラさせる性格だ。三春が毛嫌いする理由もなんとなくわかる。
足元の三春はまだ目覚めそうにない。このまま起きるまで放っておくと朝になってしまう気がしたので、恐る恐る背負い上げた。重くはないが担ぎにくい。俺の背中は三春にはちと小さいようだ。しかし、他に持ちようがないのでそのまま帰ることにした。首筋をくすぐる安らかな呼吸音と背中と掌に感じられる人肌にギクリとしてしまう。
それのせいで何度ビルから転げ落ちそうになったか、考えたくもない。